恐怖信仰とは『恐怖を信仰の対象』として崇め奉ることでなく、『恐怖が信仰の動機』になっている信仰姿勢を指します。
そもそも宗教の成り立ちは恐怖に起因していると言っても過言ではありません。
不作、病、死など人間の力では為す術も無い事象に対する恐れ。
人間の力を超える自然への崇拝、自然を司る神への祈り、あらゆる信仰心の根幹にあり、信仰を支え続けているのは紛れもなく未知への恐怖心なのです。
未知への恐怖心
人間は未知のものに恐れを抱きます。
人間にとって『未知のもの』とは何でしょうか?
幽霊?宇宙人?UMA?
それとも神様?
これら未知なるものは存在として知られていますが、その実体は定かで無いもの。
もしかしたら錯覚かもしれない。
もしかしたら幻覚かもしれない。
もしかしたら思い込みかもしれない。
真実は誰かの作り話かもしれない。
『未知のもの』は善なのか?悪なのか?
誰にも真相は解りませんが、解らないからこそ恐怖の対象になり得るのです。
しかし今一度よく考えてみてください。
人間にとって最も未知なるものは何でしょうか?
人間にとって一番身近な未知。
こんなに身近にある不思議な存在。
しかもちゃんと実体が確認できる存在。
そう人間自身です。
人間にとって人間自身が一番未知なるもの。
『自分のことは自分が一番よく知っている』。
この台詞は頻繁に耳にしますが、自分を知っているなら病気だって簡単に治せるはず・・・
いや、むしろ病気にさえ掛からないはず。
だって『自分を知っている』ということは、自分自身を完全に管理できるということ。
人体のパーツ、細胞の一つ一つを自ら創造し、組み立て、心臓の動き、血液の流れ、栄養の吸収、食物の消化、排泄までコントロールしてこそ、『自分のことは自分が一番よく知っている』と言えるのではないでしょうか?
でも実際は髪の毛一本創造することができず、熱が上がれば体温1度下げることもできないのです。自分の意志で生まれたわけでも無く、永遠に生きたいと願っても寿命が有り、何時死ぬかも解らない。
37兆個もの細胞で構成された人体も、人体だけでは生命を維持することは不可能であり、水、空気、食物、地球、太陽、宇宙全体がセットになった壮大な仕組みの中で生命を維持しているのです。
考えれば考えるほど人間とは未知なる存在。
不思議の塊が人間なのです。
人間自身が未知の上に成り立っているのだから、未知への恐怖が常に付きまとうのは当然なのです。
この未知への恐怖から逃れる術があるとしたら、自分自身の真実を知り『未知』を『既知』に変えること。
自分自身の真実を知るには、人間創造の主、神に真実を教えていただく他ありません。
自分自身の真実を知って、はじめて恐怖から逃れることができるのです。
『未知』を『既知』に変える『神の思想』
人間が恐怖を克服するためには何が必要でしょうか?
先ず、第一に『死の克服』
人間に必ず訪れる死。死の恐怖、存在が消滅する恐怖。
そして、第二に『運命の克服』
一寸先は暗闇世界。人間は一秒後に何が起こるか知るよしもありません。
最後、第三に『生の克服』
生、命の誕生は奇跡と感動に包まれ祝福と喜びに満ちています。
生は克服する類いのものでは無いと思うかもしれませんが、生の意味を知り、生の成り立ちを知ることで、存在の無意味、存在の無価値という無知の恐怖を克服することができるのです。
『幽霊の正体見たり枯れ尾花』。
『未知』のものでも『既知』になれば恐くないのです。
神の思想は人間の『未知』を『既知』にして、安心と安全、永遠の喜びを与えてくださるのです。
それでは三つの未知を克服する具体的な方法とは?
三つの未知を克服する具体的な方法
詳しくは、以下の記事をご覧下さい。
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