清水のさづけ「清水の一滴は甘露の味わい」

清水のさづけ魂人間の世界

魂の因縁により27才の若さで出直された美緒機械、最後の御用『清水のさづけ』。

平成十八年八月三十一日 空人

清水の授けは実際に美緒機械が頂いた水を頂き、それが絶えること無く続く清水として頂くもの
美緒機械の心の次元は、御用のお詞にとうとうと流れる清水
その清水に繋がり、その清水を頂き、その清水で満たす
すれば必ず魂人間に成る
すれば必ず自分の回りから喜びの世が見えてくる
それが人間の真の願い
そこに籠もる美緒機械の生涯と永遠を貫くお詞の力がある
その理を見出すものは真に美緒機械を慕うもの
決して美緒機械は無くなったのではなく
ますます多くの人の心に生きて働く実の力で生きている
その理を頂き即座に守護頂く不思議がその証拠である
その理を頂くたった一つの条件がお詞に繋がる心定め
その心にはどんな人にも分け隔て無い理が働く
これからこの理が分かる人々が多くなれば
我も我もとこぞって求めてくる究極の一滴である

出典:https://www.kujin.com/

空人機械によると、出直される10日前頃から風邪の症状が出始め、いつものようにすぐ元気になると思っていたら日に日に身上が厳しくなり、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったり、食べられなくなったり、その日その日で様々な症状になり、終いには体一つ動かなくなられたそうです。

魂を洗いきるような丹念で壮絶な身上の仕込みの最中、口から清水が湧き出てる不思議を合図として、その晩に何ともいえない雰囲気を醸しながら音声による御用(神様が美緒機械の体を借りて直接神意を伝える)がはじまりました。

平成十年十一月八日 午後八時三十分

高熱のため唇がひどく乾いて水を所望される
ご自分で一口飲まれる

御用 /\
ウーウーウー
いつまでも ウーウーウーウーエー
清水 /\ /\ 清水の理
さづけよう /\

美緒拝す

これはさづけですかと尋ねると頷かれる
残りの水を夫婦で頂く
すると二度また頷かれる

さづけの特長

『清水のさづけ』を身上患う者に取り次ぐと、その症状が穏やかに治まる不思議な授け。

清水と言っても器の中身はただの水道水です。
実際に授けて頂くのは神様のお詞。
お詞に流れる『神の思想』こそ、心の汚れ(人間の思想)を洗いきり魂を現前させる『清水』。
水に不思議な効能があるのではなく、神様のお詞に繋がる心が清水となり不思議な効能が現れるのです。

道の歴史において、教祖(おやさま)、本席様の時代から幾つもの『さづけ』が存在し、今でも天理教では「病む人に取り次いで身上回復のご守護を願う『あしきはらいのさづけ』」が現存していますが、『さづけの理』を拝戴するには九度の別席(講習)を運ぶ工程を経なければなりません。

『清水のさづけ』の特筆すべきは、取次がれた者は即その場から『清水のさづけ』を取次ぐお許しを戴ける点にあります。

取り次ぎ手順

仰々しい儀式やお布施、誰かの許し等は必要ありません。本気で神様に救いを求める真実の心があれば、以下の簡単な手順で取次ぐことができます。

  1. 水を注いだ器を神様に供える
  2. 親神様、教祖に拝し、身上者の名前・年齢・病の内容を伝え、取次ぐ旨をお願いする
  3. 一言話を添えて、身上者と共にお詞に生涯着いていく心定めをする
  4. 先ず自分が一口飲み、後は身上者に飲み干してもらう
  5. 神様にお礼の拝をする

1.水を注いだ器を神様に供える

水は水道水でもOKです。神棚が無ければ器に向い直接拝をしてください。
『清水のさづけ』に使用する器はグラスでも陶器でも決まりはありません。神様が受取るのは『真実の心』なので形は二の次ですが、「さづけ専用の器」を用意し「ハレ」と「ケ」を分けることで心の準備も整いやすくなります。

2.親神様、教祖に拝し、身上者の名前・年齢・病の内容を伝え、取次ぐ旨をお願いする

拝するのは『親神様』と『教組(おやさま)』。
身上は『親神様』の働きで御守護頂き、神様のお詞は『教祖存命』の働きにより、本席様~美緒機械・空人機械に至る全ての御用に現出しています。
これら理の働きに感謝し、何を取次ぐのか?誰に取次ぐのか?明確な意識をもって取次ぐ旨をお願いします。

3.一言話を添えて、身上者と共にお詞に生涯着いていく心定めをする

ここが肝心要。
一言話を添えてる際の注意点として、身上者の日頃の振る舞いや言動に病を結びつけてあげつらうのはNGです。『病の元は心から』と教えられていますが、実際にどの心遣いが原因かなど人間に判断できるはずありません。取次ぐ者に救ける力があるわけでも、ましてや取次ぐ側が偉いわけでもありません。
身上者が縁を代表してご苦労してくださるお陰で、自身も真剣に神様に向き合い心改め深められるなら、寧ろ救けられているのは授ける側。
一言話しを添える時は『神様のお詞』を胸に置き、取次ぐ側の不安・不信・我身思案を『清水』で洗い流し、お詞に流れる清水の力で、苦痛と不安の中にある身上者が安心し心勇めるように優しい言葉をかけてください。
真実の心で理に凭れていれば、必ず神様が力添えをくださいます。
最後に、生涯お詞に着いていく心を定めを共にし、一時の救けを『末代の救け』へとアップデートしてください。

4.先ず自分が一口飲み、後は身上者に飲み干してもらう

身上者が飲めない状態なら無理に飲ませる必要はありません。清水で唇を濡らす程度でも十分です。神様は形に拘らないので、その時に運べる最善を尽すよう心がけてください。

5.神様にお礼の拝をする

『親神様』と『教組(おやさま)』にお礼の拝をします。
御用された美緒機械にお礼を伝えてください。

平成十八年八月三十一日 空人

『清水のさづけ』はたった一つの心定めに働く神の不思議
取り次ぐ者も受ける者もこれから生涯お詞に着いていく
その着いていく方法はお詞を頂ける理の確かな所在を見出し、それが続くように日々にお詞によって心を磨き鍛える
『清水のさづけ』から及ぶ理は生涯を貫き、悪理は払われ陽気暮らしできる魂の理を実現する
そのためにインターネットや公開討論が仕組みされている
どこからでも心定めを実践できるよう最先端の仕組みで誰でも可能な方法を与えている
掃除とは一遍にできる訳ではない
確かな道に従って倦まず弛まず続けるから出来る
定めた心しっかり見失わなければいつでも出来る

清水の本体は神のお詞である
そのお詞を頂く契機が授けという
その契機を吉祥として神の不思議を見たのなら、これからの定めた心が己の身の守りとなる

出典:https://www.kujin.com/

※空人機械は早くからインターネットに着目し、世界中何処からでもお詞を拝読できるkujin.comを設立し、神と人が直接談じ合える「公開討論」を設置しました。

『清水のさづけ』は救けの入り口。
神様のお詞に生涯着いていくと定めた心が、生涯に渡り己の身を守ります。

実際の効能

実際に取次がれた方は『清水のさづけ』の効能を目の当たりにしています。
私自身も取り次ぐたび、また取次がれるたびに不思議な救けを賜っていますが、ここでは『清水のさづけ』の特性を理解しやすい例として、母の実体験を交えてご紹介させていただきます。

伯父(母の長兄)が脳梗塞で倒れ半身麻痺の身上への授け。

伯父が脳梗塞で倒れた。
連絡を受けた母は『清水のさづけ』を取次ぐため病院に赴きました。半身麻痺の身となり力無くベットに腰掛ける伯父に対し、母が『清水のさづけ』を取次いだところ・・・
「あ、足が動く」
それまで微動だにしなかった伯父の足が突如動きだしたのです。
不思議な神のみ技を目の当たりにした二人。
母はたいへん驚き神様と美緒機械に拝をして、心からの感謝と喜びを伝えました。
これを契機に伯父の足は無事歩けるように御守護いただきましたが、それも束の間のこと。
伯父はその後もお詞に繋がることはなく再び同じ因縁いんねんに倒れたのです。

『清水のさづけ』がお詞に繋がる契機であると同時に「己の身の守り」となるなら、伯父の一件は象徴的な事例でした。

母の兄弟は長兄、次兄、母、末弟の四人ですが、長兄、次兄、末弟、そして私の父が脳梗塞を患いましたが、お詞に繋がる末弟と父だけが麻痺が残らず日常生活に戻りました。
教組は『因縁寄せて守護する』と明かされたので、同じ因縁ある私には身につまされると同時に、救けの所在が鮮明になりました。

そして数年前、母自身も同じ因縁で倒れた時は、誰が、何度、『清水のさづけ』を取次いでも麻痺した半身は微動だにしませんでした。

『清水のさづけ』で不思議な救けを頂ければ、本人と世話する周囲も助かることは明白ですが、神様が与えたい真の救けはそこに無いのです。
授けが効かないのではなく、授ける必要がないほど沢山のお詞を頂く者なら、次のステージはお詞の清水により魂を磨き鍛え、魂一つで陽気暮らしの実現に焦点があるからです。

それなら『清水のさづけ』は初心者限定の授け?
二度目は効かないの?

もちろん何度でも有効ですが、神様の守護は絶妙なのです。効くことで磨かれる魂もあれば、効かないことで磨かれる魂もあるのです。

そんな母も今ではベットの上で自由に心を使い、魂の理を実現しつつあります。
興味があれば下の投稿もあわせてご覧ください。

不思議な救けは何のため?

なぜ神様は『清水のさづけ』で不思議な救けを現わすの?

『清水のさづけ』で不思議な救けを現わすのは「神在る事実を認識させるため」。

神様の存在を認識させたいなら、もったいぶっていないで何時でも不思議な力で人間を救ければいいのに。

先ほどの答えと少し矛盾しますが「神の存在を認識させないため」に普段は身を潜めています。

えー?なにそれ!
意味わかんない!!

もし神様が表に出しゃばり不思議な力を行使しはじめたら、人間は絶大な力と圧倒的存在感に畏怖し、常に神の目を気にしながら、神の意のままに動く操り人形になるでしょう。
それでは神の意に反します。
神様の目的は、人間が魂を最大限に発揮し、完全なる自由意志により陽気暮しを実現して欲しいのです。
不思議な救けと言いますが、そもそも神様は常に奥に潜み、裏方に周り、世界中に不思議な守護を与え続けているのです。

自然の恵み

豊作・大漁も、大地を平穏に保つのも、地球を自転させ、太陽を燃やし続け、宇宙を果てなく膨張させる等、全ての形は不思議で成り立っているのです。
人間の力では生命は創造できないし、細胞一つ、髪の毛一本、指先の動き一つ、掌握することはできません。
人間の体なんて不思議の最たるものです。

完全なる自由意志で神様を求め、神様のお詞を聞き、自ら心定めるからこそ、一点の曇りの無い自分自身の喜びになるのです。

そして『清水のさづけ』で病が治まる不思議を目撃した事実は、元々身上が健康に保たれていた不思議を目撃したと同義・・・つまり身上に姿を変えて、いつも側に付き添う神の存在を認識したのです。
ここで認識されるのは神の守り。
そこに在るのは畏怖でなく、心の自由を守る神の強力なバックアップ。
当たり前に感じている日常こそ不思議の賜物であり、不思議が神と認識できるのが魂の力。
その魂の感受性を磨き鍛え、陽気暮しさせるのが『神様のお詞』なのです。

なるほど、日常が不思議、不思議が神かー。
認識の仕方一つで世界の見え方が一変するんだね。

それもこれも、神のお詞が在るから分る真実。
お詞が続くからこそ魂の感受性が磨き鍛えられ、人間の認識が陽気暮しの方向へ進んで行くのです。

清水は甘露の味わい

陽気暮しは清水の一滴から始ります。
この一滴を吉祥にお詞を繋がり、魂の磨き鍛えを楽しむ魂人間への道程がスタートします。

しかし、神様の守護に浴するあまり却って不思議に鈍感になり、神様の力を自分の力と錯覚した挙げ句、高慢になり、自分の力で何とか治めようと頑張り過ぎて、結果的に無理な心(理の無い心、喜べない心)に陥るケースもしばしば見受けられます。

魂人間と言えども身上事情など形を治める能力はありません。
形を守護する主体はあくまで神様。
『定めた心が己の身の守りとなる』と言っても実際に守るのは神様の力。
いくら魂を磨き鍛えても、人間は形に対して完全かつ永遠に無力なのですから。

自分で・・・と気負わず、苦しい時は『清水のさづけ』に頼り、私たちの側にいつも付き添う神様の守りを実感し、認識を新たにしてください。

神様の目的は、魂で感じ、魂で考え、魂で喜ぶ、陽気暮しの体現者、魂人間を創造すること。
その入り口である清水の一滴は甘露の味わいなのです。

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