新シリーズ『天理の教え:超解説!みかぐらうた』
第2回目は『人間創造のつとめ』をお送りします。
本編“みかぐらうた”の解説に入る前に、『つとめ』の大まかなアウトラインを紐解きます。
人間創造のつとめ
八ッ やまのなかでもあちこちと てんりわうのつとめする
(みかぐらうた 第五節 九下り目)
“山の中でもあちこちと 天理王のつとめする”
『つとめ』とは“天理王のつとめ”なのです。
それでは“天理王”とは一体何でしょうか?
あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと
(みかぐらうた 第一節)
『つとめ』の地歌 第一節には“天理王命(てんりおうのみこと)”に救けを求める人間の姿が歌われています。
“天理王命”は、この世人間世界を創造した「月日道具衆(十柱の神)」を称する「神名」。
要するに“天理王命”といえば”神様自身”であり、“天理王”といえば”神様の能力”又は”神様の働き”を指しているのです。
バラバラの性質を持つ月日道具衆が「人間の陽気暮らし」を目的として、一手一つに纏まり人間創造につとめる…
これが“天理王のつとめ”。
この人間世界には先ず「天理王のつとめ」があり、その「つとめ」のお陰で、宇宙は規則正しく運行され、太陽は燃え盛り、地球は回り続け、水・空気・食料など膨大な恵みをもたらし、心臓は脈打ち、呼吸、消化、吸収、排泄など人体を管理し、視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚に新鮮な喜びを与え続けているのです。
それこそ山の隅から隅まで、細胞一つから宇宙の果てに至るまで、形と言う形、全ての有形は“天理王のつとめ”。
“天理王のつとめ”は無から有、ゼロから1、無い世界、無い命を創造した“不思議な創造原理”。
“人間の喜びを見て共に楽しむ”
これが、全てを知り、全てを創り出せる「全知全能の神」が到達した「喜びの究極」であり、これを目的に「人間創造」が日々刻々と遂行されているのです。
要するに“天理王のつとめ”とは”人間創造のつとめ”なのです。
ここで再び、九下り目のお歌に目を通してみましょう。
八ッ やまのなかでもあちこちと てんりわうのつとめする
現在、天理教には一万七千近くの教会があり、日本中のあちこちで『つとめ』が行われていますが、実際に「人間創造のつとめ」をしているのは「天理王命」…
つまり「月日道具衆」なのです。
それでは人間が毎朝夕に『つとめ』ているのは一体何なのでしょうか?
人間のつとめとは?
四ッ ようこそつとめについてきた これがたすけのもとだてや
(みかぐらうた 第五節 六下り目)
『つとめ』の地歌 第五節 六下り目のお歌。
“ようこそつとめに付いて来た これが救けの大元である”
『つとめ』が「救けの大元」。
凄いお歌ですね。
全人類を救済する大元の原理が『つとめ』なのです。
一万七千近くの教会が毎朝夕に「救けの大元」を『つとめ』ているのです。
でも、ちょっと待ってください。
天理教には一万七千近くの教会が毎朝夕に『つとめ』ていますが、「救けの大元」と認識して「つとめ」ている教会が果して何件くらい存在するでしょうか?
「世界救けのつとめ」と言葉では聞いていても、実際に「救けの実」を実感して、心の底から喜び勇んで『つとめ』ている教会は存在するのでしょうか?
幾ら真剣に『つとめ』ても、「救けの実」が実感出来なければ、段々マンネリや義務的に感じてしまうのが人情というもの。
つとめさいちがハんよふになあたなら 天のあたえもちがう事なし
(おふでさき 第十号 34)
これは教祖が明治八年に残された”おふでさき”のお言葉です。
“つとめさえ違いが無ければ 天の与えも違う事はない”
要するに、神様が思惑する通りの『つとめ』を人間が運べたら、天の与え「救けの大元」は保証されているのです。
ならば、神様が思惑する「人間のつとめ」とは?
神様は人間に対して、どのように『つとめ』を教えられたのでしょうか?
これは「つとめの遍歴」を振り返りながら考察してみましょう。
つとめの遍歴
文久三年(1863年)に教祖の三女を仲人した辻忠作つじちゅうさくが、妹くらの病のご守護を願いに上がったところ、教祖から『つとめ』を促されました。
その頃の『つとめ』は”南無天理王命”と神名を繰り返し唱えるだけで、回数も時間も設けられていませんでした。
辻忠作は教祖に言われた通り、朝夕、拍子木を叩きながら神名を唱え続け「つとめ」ましたが、妹の病は一向に回復の兆しが見えません。
そこで再びお屋敷に向かい教祖にお伺いしたところ….
辻忠作は『つとめ』の時間を線香で計っていましたが、線香を半分に折っていた事に気が付きました。その旨を教祖に伝えると…
自分がおつとめを軽くしていた事に気が付いた忠作は、教祖のお言葉通りに線香を一本立てて熱心につとめると、妹の病は日ごとに回復に向かい、やがて全快したそうです。
これは天理教では有名なお話しですが、はじめ教祖(神様)は病を回復するための祈祷として「つとめ」を教えているのです。
しかも”南無天理王命”と神名を繰り返し唱える単純な形式。
これは従来、神社仏閣などで行われて来た「拝み祈祷」と大差無いかも知れません。
辻忠作も妹の回復を願い一心不乱に神名を唱えていたことでしょう。
ならば「人間のつとめ」とは拝み祈祷なのでしょうか?
八ッ やまのなかでもあちこちと てんりわうのつとめする
もし、天理教一万七千近くの教会が、日本中のあちこちで毎朝夕に「拝み祈祷」をしているなら、それこそ…
九ッ こゝでつとめをしていれど むねのわかりたものハない
“つとめをしていても 神意を理解した者はいない”
このお歌の指摘に間違いは無かった…という事になります。
神様は人間に「拝み祈祷」をさせるために「つとめ」を教えた訳ではありません。
『つとめ』はその後、
慶応2年(1866年)
第一節”あしきはらいたすけたまえ てんりおうのみこと”
慶応3年(1867年)
第五節”十二下り”
明治3年(1870年)
第二節”ちょとはなし”と”よろづよ八首”
明治8年(1875年)
第三節”いちれつしましてかんろだい”
この様に、辻忠作に教えた『つとめ』から数えて12年の年月を経て、漸く正式な『つとめ』が完成に至ったのです。
何故、神様は初めから「正式なつとめ」を教えてくれなかったのでしょうか?
当時、病気は山伏の祈祷で平癒されていた名残ある時代。いきなり『つとめ』の完成形を示し、理を説いたところで”馬の耳に念仏”。幼稚園児に大学の講義を聴かせる様なもの。飴を与え、褒美を与え、這えば立て、立てば歩めの親心で、人間の理解力に合わせて『つとめ』を教えてきたのです。
はじめ教祖は”南無天理王命”と唱える『つとめ』を教えてのだから、私はその形式で『つとめ』をする!
幾ら教祖の教えであっても、新しい『つとめ』の形式が教えられたら、過去の形式には理が無くなるのです。
これは教え全般に言えることですが、昔は理があった教え方でも、新しい理が打ち出されたら、古い教えは“悪しき”として払われ理が無くるのです。
その時代や理解力に合わせて教え方を高め、理を深めて、神様の思惑通りの『陽気ぐらし』へとお連れ通りくださる訳だから、現在『存命の教祖』から指図を頂けないということは、昔の教えのまま理の無い教えを後生大事に抱え、時代から取り残されている・・・そんな可能性も否定できません。
少し話が逸れましたが、肝心な事は『つとめ』は神の指図であるという点。
一般的な「拝み祈祷」は人間が一方的に守護を願うだけ。本当に神様が救けてくださるか?どうか?など知る由もありません。賽銭箱に数億円投じて必死に願ったところで、無駄骨になる可能性の方が遙かに大きいのです。
「拝み祈祷」には理(法則性)がありません。
辻忠作に教えた『つとめ』も一見「拝み祈祷」の様に思えますが、この『つとめ』はれっきとした神の指図で行ったもの。
神が指図するということは、神の方に受け取る準備があるということ。
線香を半分に折っていたため、妹の病をご守護頂けなかった辻忠作でしたが、神の指図に従い心改めることで「つとめの効能」に与ることが出来たのです。
四ッ ようこそつとめについてきた これがたすけのもとだてや
神の指図に沿って“這えば立て、立てば歩め”の如くに心作られるからこそ、『つとめ』の理(法則性)を順序良く理解し、
五ッ いつもかぐらやてをどりや すえではめづらしたすけする
『つとめ』こそ世界救ける唯一の方法と悟れて来るのです。
「神の指図」に従い心を運び、その心通りに「指図通りの救けの実」が現れたら、『つとめ』の価値も理解出来るし、教祖の言葉は本当に「神様の言葉」と信じられると思いませんか?
現在、新型コロナウィルスが世界中で猛威を振るっています。この世界が直面する危機に対して、どの様にして心治めれば良いのでしょうか?
本当のところは「神の指図」が無ければ誰も解らないのです。
「神の指図」が無ければ、どんなに世界救けを願ったところで「拝み祈祷」と変り有りません。
「神の指図」が無ければ、神様の思惑通りの『つとめ』に合わせ続けることは困難の極み。
これが「つとめの効能(救けの実)」が現れない大きな要因なのです。
「つとめの効能」が実感出来なければ、日々『つとめ』ていても面白くも有り難くも感じません。
段々マンネリになり、『つとめ』中に仕事の予定や夕飯の献立を考えたり、ちゃちゃと『つとめ』を終わらせて早く布教に出よう…
なんて、線香を半分に折って『つとめ』を軽くしていた頃に戻っていませんか?
しかし!
例え現在「神の指図」が頂けなくとも、教祖に教えて頂いた『つとめ』は決して軽いものではありません。
『つとめ』に運べば心は鎮まり、体調も回復し、『おつとめ』が終わる頃には、まるで生まれ変わった様な爽快な気分になります。
これは毎朝夕の『つとめ』が『創造原理』を具現化したものであり、『つとめ』を運ぶ者に『創造の理』が働く仕組みになっているからです。
それだけでも運ぶ価値のある『つとめ』ですが、神様の思惑はもっともっと次元が高く、人間が運ぶ『おつとめ』で全ての難を救け(もちろん新型コロナウィルスなどの疫病も)治めて通る計画のもとに『つとめ』を教えられたのです。
四ッ ようこそつとめについてきた これがたすけのもとだてや
(みかぐらうた 第五節 六下り目)
人間に授けられた神の全知
結論として『つとめ』とは『人間に授けられた神の全知』なのです。
『天理王のつとめ』
これは“全知全能”の粋を結集した働きです。
この人間世界には先ず「天理王のつとめ」があり、その「つとめ」のお陰で、宇宙は規則正しく運行され、太陽は燃え盛り、地球は回り続け、水・空気・食料など膨大な恵みをもたらし、心臓は脈打ち、呼吸、消化、吸収、排泄など人体を管理し、視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚に新鮮な喜びを与え続けているのです。
これが有ることが難しい…「有り難い」不思議な与えなのです。
そして“全知全能”の粋である『つとめ』を人間に教えたということは?
それはつまり
“全知全能”の“全知”を人間に明かしたも同じこと。
人間は毎朝夕に『つとめ』に運ぶだけで“全能”の働きをいただけるのです。
これってもの凄いことですよね?
神様が宇宙や人間をどうやって作りだしたのか?
どうやって無から有を作りだしたのか?
どうやって体に命を宿すのか?
そんなの幾ら考えても人間の理解を越えた不思議の領域なのです。
でも問題ありません。
形を創造し動かすのは全て『天理王のつとめ』。
人間は神様の思惑通りに『つとめ』ていれば、『天理王のつとめ』としてお受け取り頂けるのです。
これはもの凄いことなのです!
今までは神様による一方的な『つとめ』でした。
要するに神様による一方的な人間創造。
しかし!
人間に『つとめ』が明かされたということは?
ということ。
今までは何時与えられるか分からない神様の守護に縋るしか道はありませんでした。
しかし!
これからは『人間自身のつとめ』によって、無い命、無い形、無い世界が創造されて行くのです!
これが人間に明かされた“神の全知”。
人間の運ぶ『つとめ』は『天理王のつとめ』であり、この世界を創造した『創造原理』へと直結しているのです!
つとめさいちがハんよふになあたなら 天のあたえもちがう事なし
(おふでさき 第十号 34)
これで、この“おふでさき”の意味が益々現実味を帯びてきましたね?
後は人間が、神様の思惑と違わぬ『つとめ』を運ぶこと!
その為に必要な“みかぐらうた”の徹底的な理解。
現存する教祖の教えだけでも、まだまだ神意を悟り切れない部分は沢山あるのです。
いくら神様が教えても、人間が自分のことばかり考えて一向に神意を理解しなければ…
と言われても仕方がありません。
現存する教祖の教えを掘り起こし、研究し、神意の理解へと近づくことで再び『教祖ご存命の働き』を頂ける日が来るかも知れません。
いや、必ず来ます。
その日はそう遠くない未来かも知れません。
超解説みかぐらうた一覧
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■みかぐらうた本編
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