唱え一条

おつとめ魂の視点

ある日、家族でスーパーに買い出しに出掛けた時のこと。
高校生の長女が辛そうな顔で「パパ、車の鍵貸して、少し休んでいる」。
なにやら顔面の右半分が痛く辛いらしく、長女は車の後部座席で横になり苦痛でうずくまる。
買い物は妻達に任せて私も長女に付き添い車に戻り、長女の顔に手をかざしながら唱え一条を始めた。

唱え一条とは私の師であるK先生から教えて頂いた、魂を磨き鍛える天の方法
いきなり「何のこっちゃ?」と思われるでしょう。
なぜ長女が苦しんでいる時に、親である私が魂を磨き鍛える必要があるのか?
そんな事より直ぐに病院に連れて行けばいいのでは?
こんな話をすれば訝しげに思う方も多いと思います。

病院にも行かず怪しげな宗教的呪いまじなに我が子を曝すことは虐待ではないのか?

世の宗教には瀕死の我が子への輸血を拒み、宗教の教えを守り通した挙げ句に我が子を死に至らしめる悲惨な事件を代表するように、昨今も、宗教2世が受ける精神的、肉体的、社会的な虐待はSNS等により可視化され問題視されています。
私も宗教の盲信に取り憑かれ、最愛の娘に親のエゴを押しつけている狂信者ではないのか?
その疑問は私が信仰する上で常に掲げている命題だが、理性と盲信の境目が本人に自覚出来る筈もない。それが可能ならオームの様な盲信を利用した悲惨な事件は起きないだろう。
だから私は形に見えた結果を最重要視してきた。

病が治まること

唱え一条の中身とは、天理教の最重要教義である【つとめ】の地歌である【みかぐらうた(あしきはらい~十二下り)】を静かに唱えること。最初から最後まで唱え続けたら一時間では終らない。時間的余裕と心定めがなければ実行は難しい。
そもそも唱え一条は、魂を磨き鍛える天の方法であるから、直接的に病を治める方法として教えられたわけではない。
否、「唱え一条を棒読みでもいいから21日続けて実践すれば、どんな病でもご守護頂けます。」とK先生は言われていたので、病を治める方法としても教えられていますが、これは飽くまで魂の磨き鍛えが第一義であり、病の治まりは副次的効能と言えます。
つまり、魂を磨き鍛えることと、病が治まることは間接的に結びつく。

子供や妻、自身が身上患う際に、必ず唱え一条を実践する理由は、病が治まる不思議を何度も体験しているからなのです。

子供達がまだ小さい頃、夜中に熱を出したり、腹痛や歯痛で苦しむことが度々ありました。
可愛い子供の苦しみを見ると親の心も同時に苦しめられます。
子供が苦しむより、私自身が病に苦しむ方がどれほど楽と思えることか・・・子供を抱える親なら誰でも経験する心情だと思います。

【みかぐらうた】の10下り目に病の原因が明記されています。

十ド このたびあらはれた やまひのもとハこゝろから

病の原因は心

天理教の開祖である教組おやさま(中山みき)が残された【おふでさき】にも病の原因は心と記され、心一つで病が治まる天理を説かれています。

なにゝてもやまいとゆうてさらになし
心ちがいのみちがあるから(おふでさき第三号九五)
これからハいかなむつかしやまいでも
心したいになをらんでなし(おふでさき第五号一三)

人間は病と言うが、神様が創造した人間世界には病という概念は存在せず、ただ「心違いの道」があると教えられ、人間にとってどんな難しく見える病でも心次第に治ると驚愕の真実が明かされている。
この天啓を以て「真実」と断定するのは早計に思われるかもしれないが、天理教は教組の教えに従い、不思議な救けで勢力を拡大してきた歴史的事実がある。
もっとも教組が出直し、続く天啓者である本席(飯降伊蔵)亡き後、一時的に隆盛を謳歌した時代もあるが、天啓という芯を失い、人間集団が運営する教団は次第に理を失いはじめ、今や衰退の一途を辿る始末。
それでも理に合えば今でも不思議な救けは現れる
理に合えば。
これは、人間の心神様の心と合致した時。
つまり「心違い」ではなく「心次第」に神様の心に合えば、今も昔も変らず病は不思議に治まるのです。
そしてこの現象が、手品や魔法、神様の気まぐれで不思議が現れるのではなく、確かな法則性(理)の下で現出し、どんな病の中でも神様の心に合えば「必ず病が治まる」絶対性があり、それを実証し続ければ永遠普遍の理として確立することが出来るのです。
もし心次第に病が治まる道があるなら、二度と病に怯える必要はなく、寧ろ病の発生を抑え、病を根絶する程の有り難い教えなのです。

それでは「心違い」とは?
そして「神様の心に合う」とは如何なる心の状態なのだろうか?

その焦点は【かしものかりもの】にあります。

【かしものかりもの】とは人間の体を含め、衣食住、地球、太陽、宇宙の果てまで全てが神様から借りている【神様のもの】。
おそらく殆どの方は体は自分のもの。衣食住も自分の力で手に入れたもの。地球、太陽、宇宙も存在するのが当たり前・・・その様に疑い無く生きているはず。
ですが、少し冷静に自分を観察してみれば、心臓を動かしているのは自分ではない。体は自由に動かせるが「脳からの指令を神経で伝達して筋肉を伸縮させる動作の仕組み」を自分の意志で為しているわけではなく、病となれば熱一つ下げられず、身動き一つ不可能になる現実を顧みれば、成る程【かしものかりもの】に違いないと容易に想像できると思います。

「心違い」とは【かしものかりもの】を我が物と思い違いして生きること。
もし体を我が物と仮定した場合、その心には何が起こると思いますか?
まあ、仮定も何も、殆どの方は我が物と信じて生きているのだから、何が起きるか実感として理解していると思います。
【かしものかりもの】を我が物と思い違う代償は、本来全て神様が安全に管理している体を、自分自身で管理する責務を負うこと。
しかし体とは不思議の塊なのです。
体を健康にし、人間の生命活動を成り立たせる必要な要素は?
体には衣食住、環境、地球、太陽、宇宙・・・体だけでは人間存在は成り立たず、この世界全てが一丸一体となり人間が成り立つのです。
こんな責務を負える人間は存在しないのに、殆どの方は【かしものかりもの】を我が物にする無謀な責務に挑み、我が物の意識を超えた事象(病気、事故、自然災害etc)に不足不安、悩み苦しみ続けているのです。

神様の心に合うとは?

【かしものかりもの】を安全に管理する神様の心を信じ、どんな病の中でも安心して【かしものかりもの】凭れること。
要するに【かしものかりもの】を理解することが心を穏やかに治め、その心通りに病の症状も穏やかに治めるのです。
どんな病の中でも【かしものかりもの】を治めたら病も治まる。
病という身上の症状は【かしものかりもの】を理解して、日々常に守護に凭れて安心して暮して欲しい神様の急き込み。

これは【かしものかりもの】の真実を根付かせる為の身上の仕込みなのです。

人間が勝手に病気と銘々し不安に怯えているだけで、【かしものかりもの】に守護を感じて陽気に暮せば病む理は消え、病の原因さえ消滅する。こんな有り難い教えをいただく私達ですが、いざ身上の仕込みに直面すると簡単には心が治められないものです。
丁度、昨夜も突然夜中に歯の激痛で目が覚めましたが、そこで【かしものかりもの】を治めようと試みても目眩がする痛みで心が追いつかない。
これまで我が物と信じて生きてきた癖性分が強いため、【かしものかりもの】と理解していても実感として意識に定着させるのは簡単ではありません。

そこで手助けになるのが唱え一条

激痛にもだえながらも「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」と唱え続ける内に、不思議と痛みが和らいでくるのです。
この時、私の意識が【かしものかりもの】に治まったかと言えば疑わしいものですが、普段から触れている【みかぐらうた】に心の向きを合わせるだけで、痛みに対する不安は解消されると共に、その心通りに痛みも解消されると実感しています。
【みかぐらうた】に込められた神様の世界観は、人間が何不自由なく陽気に暮すための心の芯であり、人間の魂そのものなのです。

そもそも唱え一条とは病を治めることが目的ではなく、日常的に魂を磨き鍛えるために授けられた天の方法であれば、無事無難に過ごしている日常こそ守護に満ち足りた不思議であり、そこに【かしものかりもの】を治めることで、魂一つの己を自覚し、神様に守られた絶対的安心感に包まれる
この積み重ねがあればこそ、いざ身上の仕込みを頂く時に、心の向きを神様に合わせられるのです

心以外全ての形は【かしものかりもの】なら、後に残るは心一つ。
心とは魂が使える唯一の能力。
【かしものかりもの】を治め、我が物の囚われから解放された魂は自由自在に心を使い、どんな中でも心一つで陽気づくめに暮すことが出来るのです。

言い換えれば、唱え一条とは日々神様の心に合わせて陽気尽くめに暮す天の方法なのです。

話しを戻します。
車の中で痛みに苦しむ長女に唱え一条を施したところ、「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」と21回唱え終らぬ内に不思議と痛みが引き、長女は目を丸くしながら「パパの右手は魔法みたい」と驚いていました。
娘の苦しみを見た瞬間は心が動揺し、一刻も早く苦しみを取り除いてあげたいと願う気持ちが強いのですが、唱え一条を進める内に次第に心の向きに変化が生じるのです。
娘の体は【かしものかりもの】。
【かしものかりもの】ならば既に救かっている。
これは病ではなく身上の仕込み。
【かしものかりもの】を意識に定着させ、私達家族に陽気尽くめを実現させたい神様の急き込み。

【かしものかりもの】治まれば身上は治まる。これが理。

しかし、唱え一条をしたのは私なのに、なぜ長女の身上が治まるのでしょうか?
唱え一条は【つとめ】と同じ理に受取ると教えていただきます。
【つとめ】とは無い命、無い世界を創造した神様の創造原理。
神様の創造原理に直参することで「よろづたすけ」をもたらす不思議な【つとめ】。

四ッ ようこそつとめについてきた これがたすけのもとだてや

家事の合間、仕事の合間、時場所に関わらず【つとめ】同様の理を頂けるのが唱え一条の効能

天理教開祖おやさまの教えの根幹は「病助け」ではなく【魂の救済】、永遠の救けである陽気ぐらしの実現です。
しかし当然の事ながら、心治まれば病も治まる訳で、病が治まらない結果を見て「病助けの道ではない」と言えば一見正論に聞こえるが、これは紛れもない詭弁です。病が治まらない結果を見て、自身の心が治まらない現実を直視せずに【魂の救済】など有り得ません。【かしものかりもの】の意識は日々弛まない魂の磨き鍛えにより少しずつ育まれるもの。日々の唱え一条より有効な手立ては他に無く、正に神様により授けられた天の方法なのです。

最後に、唱え一条にって目新しいものでしょうか?

【みかぐらうた】は天理教人なら誰でも知り、毎日当たり前のように【つとめ】で歌い踊ります。
なんなら教内には「あしきはらい~12下り」まで毎日つとめる方も沢山いるかもしれません。
しかし唱え一条には少しコツがいるのです。

先ず第一に、唱える前に三つの教理を声に出して確認します
【かしものかりもの】
【心通りの守護】
【人間の心は自由】
これには大きな理由があります。
魂とは上記三つの教理を治めた心と等しい・・・要するに三つの教理に定まった心が魂そのもの。
故にこれは、三つの教理を胸に刻み、魂一つを自覚するための作業と心得てください。

そして次に、自身が唱えている声を【かしものかりもの】から出る神様の声と思い、神様に直接【みかぐらうた】を聞かせて頂いている感覚を意識します。
【かしものかりもの】、つまり形の現象は全て不思議な神様の御業。
実際の形、声を神様の御業と意識することが肝要なのです。

そして段々、自分の声が神様の声に聞こえはじめ、【みかぐらうた】の意味が次々に心に染み入る「神妙の領域」を目指して唱えるのが基本スタイル。

物は試し。
皆さんも唱え一条で魂一つの世界を体験してみては如何でしょうか?

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