『神を信じる』ということは結局『神の思想』を信じるということ

魂の視点魂の視点
神父
神父

アナタは神を信じますか?

一般人A
一般人A

はい。ワタシは神を信じています。

神父
神父

では神の『何』を信じているのですか?

一般人A
一般人A

はい。神の存在を信じています。

神父
神父

では神の存在を証明できますか?

一般人A
一般人A

いいえ、できません。だって存在を証明できたら、それは既に信仰の対象ではないのでは?

神父
神父

成る程。それでは存在を証明できない神の『何』を信じているのですか?

一般人A
一般人A

うーん。特定の宗教なら教義なんだろうけど。一般人のワタシは想像上の神でしょうか?

神父
神父

つまり自分で創り上げた神ということですね。

一般人A
一般人A

まあ、そう言うことになりますかね?

神父
神父

それは神を信じるというより、自分の考えを信じていることになりませんか?

一般人A
一般人A

・・・。

一般人Aの場合、闇雲に信じていただけで明確な根拠はありません。

 

それでは反対に『神を全く信じていない』一般人Bの意見を伺ってみましょう。

一般人B
一般人B

病気、虐待、詐欺、暴行、事故、貧困、災害、戦争・・・神様がいるなら何故こんなに不条理な世界なの?神様なんて信じられるワケがない

一般人Bは、もし神が存在するなら『病気、虐待、詐欺、暴行、事故、貧困、災害、戦争など起こるはずがない・・・』と信じているようです。

この場合もやはり『自分の考えを信じている』だけですね。

彼等のように何故、自分の考えを神に投影するかと言えば、『神の考え』を知らないからなのです。

 

それでは『神の考え』知っている前提の宗教の場合、『神を信じている』と言えるのでしょうか?

一般女性A

○○教はかくかくしかじかの教義なので信じています。

一般女性B

○○教はこんな素敵な教え!神様を信じて私は救われました。

宗教の場合でも、結局のところ『自分が信じた教義を自分の考えとして信じているのです』。

やはり『自分の考え』を信じているのです。

 

これはつまり、『自分の考え』で行動した結果が、考えた通りの結果になれば自ら神の存在を証明できる・・・と言うことなのです。

数多ある宗教の中で、どの神様が本物なのか?どの宗教が『神様の考え』を伝えているのか?

それは神様以外に誰にも判断できません。

しかしどの宗教でも『神の存在』を証明することは可能なのです。

その教義が本当に神の考え通りの教えなら、その教義通りに心を使い行動すれば『神の考え通りの不思議』が現われるはず。

せっかく信仰したのに、信じた先に何かしらの恩恵がなければ、信じた意味も、信じる価値も全ては幻想だった・・・ということになりませんか?

いいえ、宗教にそんな即物的な考えはありません!

と言われそうですが、信仰の無い人達から見た場合、宗教の存在意義そのものに『?』となってしまうのです。

教義の問題で医療が行えず可愛い我が子を死に至らしめる事件がありました。

本人達は、それで信仰の完結なのだから満足しているに違いありません。

その昔、実際に事件を起こした某宗教団体に所属している姉妹に事件の是非を質問したところ、「あれはあれでいいのですよ」と笑顔で答えられていたので、おそらく満足しているのでしょう。

しかし一般的な感覚から見たら「そんな宗教は絶対にごめんだ!」と拒絶反応がでます。

神様の教え(教義)に忠実に従った結果が、愛い我が子の命を失うことになっても、神様の教えに何の疑いも持たず幸せで暮らし続けられるなら、それは盲信にしか見えないのです。

一般的な理性で考えれば簡単に判断できることも、教義を自分の考えとして盲信しているので、他の考えを否定し拒絶する。

自分は崇高な考え、他は悪の考えに染まっている・・・と他人を見下し悦になれるのも宗教の特徴。

『信じる力』はある意味無敵なのです。

『信じる力』があれば殺人や自爆も喜んで遂行することが可能です。

マインドコントロール?

わたしはこの言葉が好きではありません。

監禁、薬物投与など外的要因で脳にダメージを負わない限り、必ず自分自身の意志で決断している瞬間があるのはずです。

強引に勧誘された、しがらみから抜け出せない、親から受け継いだ等・・・様々な理由があったにしても、必ずどこかの段階で決断しているのです。

それで信仰の結果が思わしくなく喜べなければ、キッパリと足を洗えばいいのです。

不幸な目にあう、罰が当たる、地獄に落ちる、悪因縁で苦しむ等・・・様々な宗教的脅し文句も、単なる『自分の考え』に過ぎません。

『自分の考え』なら自分自身でどうにでもなります。

心は自由です。

自分で決断した時のように、自分で決断して止めればいいのです。

教義を信じようが、一般常識を信じようが、『自分の考え』である以上、その結果は自分自身が受けるのです。

他人のせい、宗教のせいにしているのは、形に縛られて心が不自由だからです。

形に結果をもたらすのは自分自身の決断、自分自身の心なのです。

『自分の考え』で運んだ結果が思わしくなく喜べないなら、『自分の考え』を見直すしかありません。

嫌々や惰性で運んだでも、その心通りの結果しか現われないのが『心通りの理』。

しかし一生懸命に運んだからと言って結果が現われるわけではありません。

『理』に適わなければ心通りの結果は得られないのです

嫌々や惰性で信仰するよりも、キッパリ止めて、もし『不幸な目にあった、罰が当たった、地獄に落ちた、悪因縁で苦しんだ』なら、それはそれで神が存在する証明です。

良かったですね(^o^)・・・とはなりません。

そもそも『不幸な目にあうから、罰が当たるから、地獄に落ちるから、悪因縁で苦しむから』信仰しているなら、元々信仰の動機は喜びではなく恐怖・・・要するに恐怖信仰だったのです。

『恐怖信仰』とは恐怖心を煽り、罪悪感に訴え、自由意志を奪い、思考停止に陥らせる似非宗教の常套手段です。

もし信仰を止めたとたんに『不幸な目にあわせ、罰が当て、地獄に落とした、悪因縁で苦しませる』存在が神様なら、人間はなんとも恐ろしい神に支配されていることになります。

 

神の思想』は一貫しています。

人間の喜びを見て共に楽しむこと・・・これが『神の思想』。

 

神は見えません。

神の存在も確認できません。

誰が神の名を騙り、誰が神の考えを偽ったところで、誰も確認する術はありません。

自ら教義通りに心を運んで結果を見る以外に方法はありません。

 

そして、それが可能なのが『三つの理』。

 

自分が『心自由の理』から決めた心の種を、神が『心通りの理』で受け取り、『借りものの理』に心通りの守護を実らせる。

 

三つの理』を基軸に思考すれば、神に祈らなくても、自分の今の心一つで『神の存在』を証明できるのです

借りものの体』、これは目に見える神の現われ。

心通りの守護で動く体』、これは目に見える神の働き。

自由に使える心』、これは魂の証明です。

 

三つの理』を基軸に真に自由な思考を確立し、『神の思想』を信じて最高の喜びで心を決めて、その心通りの結果を見てください。

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