『心通りの守護』 寿的解説
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『体』は『神』から借りしているもの。
これが『借りものの理』です。
人間の力では1ミリも動かない『体を含めた有形の世界』。
それでは何故、体は思い通りに動くのでしょうか?
神に許された範囲で体は動く
大抵の人間は、体は『思い通り』に動くと信じています。
『水を飲みたい』『トイレに行きたい』と思えば体は思い通りに動きます。
間違っても水を飲みたいのにトイレに行くことはありません。
体が思い通りに動くのだから当然ですが、全て思い通りに動くわけではありません。
思い通りに体が動くと言っても極めて限定的です。
その反面、日常生活において大抵のことは思い通りに動きます。
思い通りになる部分とならない部分。
この違いはどこから生まれるのでしょうか?
更に、思い通りになる部分においても得手不得手があります。
100メートルを10秒で走れる人もいれば15秒が精一杯の人もいます。
この違いもどこから生まれるのでしょうか?
その答えは『理』が有るか?無いか?の違いなのです。
理が無い
など・・・これらは『神に許されていない理』。
理が有る
など・・・これらは『神に許された理』。
有形には限界が定められています。
鳥のようも飛びたいと思っても体は飛行に適した構造ではありません。
100メートル9秒台が最速だし、魚のようにえら呼吸もできないし、胃袋の大きさにも限界があるし、命あるもの、形あるもの必ず死を迎え朽ち果てます。
これは神が決めたことなので文句は言えません。(文句は言えますが言ったところで理は変わりません。)
それじゃ、『神に許された理』の中で、100メートルを9秒で走れる人と、15秒が限界の人の違いが生じるのは何故?
そんなの練習量や才能の違いじゃないの?
確かに『神に許された理』の中でも差が生じますね。
練習量?才能?
これも厳密に言えば『理が有る・理が無い』の違いなのです。
しかし、この場合の理は人間が使う『心の理』。
得手不得手の差は、人間の心に『理が有る・理が無い』の違いで生じるのです。
神は有形に限界を設けましたが、人間の使う『心の理』は有形の限界を超えることが可能なのです。
これが『心通りの理』、すなわち『心通りの守護』です。
解りやすく説明します。
例えば、人間は鳥のように空を飛べませんよね?
でも、・・・
鳥のように空を飛びたい!
・・・このように、一筋に目標を追いかけ研究に研究を重ねた『心の理』が『神に許された理』になった時、心通りの理が動き、その心通りに鳥のように空高く飛ぶ飛行機を発明できたのです。
飛行機は1から10まで全て人間が創りだしたものではありません。
飛行機の元になるアイデア、素材は全て有形の中に存在していたのです。
神が創造した地球という有形の中にジェットエンジンの素材、燃料、鉄の塊が空を飛ぶ航空力学も用意されていたのです。
全ては『神の創造物』。
どんな優秀な人間でもゼロから『形』を造れません。
元々存在する『形』を発見し、許された理の範囲で研究、開発に尽くした『心の理』に対して、『心通りの守護』をいただいたのです。
そう『心通りの守護』です。
これまで『思い通り』に見えていたことは、全て『心通りの守護』のお陰だったのです。
『思い通り』と『心通り』の違い
『思い通り』と『心通り』、どちらにも心の範疇なのだから違いはないように見えますが、この二つは厳密に異なるのです。
前者は文字通り『思い』であり・・・
水を飲みたいなあ・・・
・・・このように、思うに留まった、定まらない意識。
後者は・・・
水を飲む!
・・・このように、定まった意識、又は行動に移す動機となる意識。
一つ例をあげると、
億万長者に成りたい!
という『思い』があるとします。
しかし・・・
宝くじを買ったから後は寝て待とう!
思いだけ大きく立派でも一日中働きもせず家でゴロゴロして、億万長者に成る『心の理』をつくる努力を怠れば、神も受け取りようがありません。
心とは心通りに形に現われて始めて『心』と言えるのです。
『形』に現われなければ『思い』のまま。
思っているだけでは『心の理』がつくられず、『心通りの理が動く』こともなく、ただイタズラに時間を浪費するだけ。
そもそも『形』は『思い通り』に成らず、『思い通り』に成っているように見えても『心通り』にしか成らないのです。
もし
人生は思い通りにならない
と考えるなら、自分の『思い』と実際に使っている『心』に乖離があるのです。
こんなに頑張っているのになぜ結果がでないのだ?
と嘆く前に頑張る方向を見直しましょう。
なかなか思い通りにならずイライラして他人に八つ当たりするくらいなら、一旦今の思いは捨て去り気持ちをリセットしましょう。
思いが強いのは結構なことですが、思いが強すぎると『強欲』になります。
『強欲』が過ぎると事態が悪い方向へ悪化します。
『強欲』は自分だけの喜びを追い求めて、他人の喜びは眼中に入らない酷い心。
『心通りの理』が支配する世界で、いくら『喜べない種』を蒔いたところで『喜べない実』しかならないのは理の当然です。
神が真っ先に受け取るのは『人の喜びを見て共に楽しむ』優しい心。
今使っている自分の心を『三つの理』に当て嵌めて、思案し直せば、自ずと『思い通りにならない』原因が悟れるでしょう。
喜んでいるか?喜んでいないか?
今使っている心の正体が解れば、後は『三つの理』に従い心の向きを正すだけ。
どんな思いがあろうとも、最終的に求めているのは喜びに違いないのだから、今、喜べていない時点で自分自身の方向性を疑いましょう。
『心通りの守護』である以上、今、喜びが無いということは、未来に思いが実る種そのものが無いということになります。
これは由々しき事態。
今の心に『喜び』が無ければ『思い』の実現は有り得ません。
今の喜びだけが次の可能性を開き、喜び、喜びと、喜びの心を運び続ける中に『思い』を実現させる『心の理』がつくられるのです。
寿限無と魂の師空さんの雑談から読み解く『心通りの理』
現在、100m競走の世界記録は9秒58が限界だけど、『心の理』次第で可能性は無限にあるということですか?
そうですね。
それなら将来的に5秒の新記録も不可能じゃ無い?
体を使用した競技の場合、どうしても構造上の限界があります。
構造上の限界を超えて早く走るための代替案として、『発明家』たちが『心の理』をつくり、自転車や自動車の発明が許されたのです。
なるほど・・・。
100m5秒は無理か・・・少しがっかりですね。
でも、もしかしたら体の構造が進化する未来もあるかもしれません。
『心通りの理』ですから。
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