人間の心は自由です。
心の自由は神にさえ邪魔することはできません。
魂はいつ如何なる時でも完全に心を自由に使えるのです。
それが『心通りの理』。
『魂』はいつ如何なる時でも心を自由に使える
しかし実際に『心の自由』を実感している人は存在するでしょうか?
ほとんどの人は形に心を左右され、形に心を縛られているのではないでしょうか?
これは『人間の思想』。
不自由な心です。
『心自由』とはアナタの思い通りに心を使えるという意味です。
心を自由に使えたら、アナタはどんな心を使いますか?
もちろん、『喜びの心』を使いますよね?
心を自由に使えるのに『喜べない心』の選択肢は必要ありません。
『喜べない心』を使う自由なんて存在しないのです。
要するに『心自由』とは・・・
いつ如何なる時でも『喜びの心』が使える・・・ということです。
魂は『喜びの心』を使うために存在しています。
それは魂にプログラミングされた『神の思想』。
魂は常に最高の喜びを希求し続けます。
この魂の希求に抗える人間は一人もいません。
それゆえに全ての人間は常に、最高の喜びを求めて前進し続けるのです。
魂の希求は決して留まらず、絶対に諦めることもありません。
魂は知っているのです。
必ず最高の喜びに到達する道が存在することを・・・。
何故なら、魂の生みの親は『全知全能の神』。
『全知全能の能力』の一部を『心自由の理』として魂に授けたのです。
心を自由に使えるということは無限の可能性に溢れているということ。
『魂の能力』はいつ如何なる時でも心を自由に使えること。
『神の思想』を思考の基軸にする時、人間は『魂一つ』の存在となり、いつ如何なる時でも心を自由に使える『魂の能力』に目覚めるのです。
人間は運命の創造者、たった心一つが運命を左右する
これまでは形に支配され、運命に翻弄され続けてきました。
しかし『魂の能力』に目覚めたら、形を支配し、運命の創造者となれるのです。
形を支配すると言っても『形を自由』にできるワケではありません。
魂に目覚めたということは、『心自由の理』を使えるということ。
心自由に喜びを生み出し、その喜び通りの形(心通りの守護)を見られるということです。
つまり魂は自由に運命を創造できるのです。
『魂の能力』に目覚める時、『三つの理(借りもの理・心通りの理・心自由の理)』は『喜び尽くめのサイクル』をつくり出す。
『魂人間』は『喜びの未来』を今に楽しむ『喜び尽くめ』の存在なのです。
寿限無と魂の師空さんの雑談から読み解く『心自由の理』
『嫌なこと』があると直ぐに落ち込んでしまいます。
それは習慣的に染みついた『心の癖』です。
『心の癖』?
魂には『心自由の理』があります。『嫌なこと』をみて『落ち込む選択』をしているのはアナタ自身なのです。
『落ち込む選択』をした憶えはありませんが、無意識に心を選択しているのでしょうか?
そうです。無意識に心を選択してしまうのが『心の癖』なのです。
『心の癖』を直す方法はありますか?
今、寿限無くんは『心の主導権』を形(嫌こと)に奪われ、形通りの心を使っているに過ぎません。
要するに『心不自由』な状態にあるのです。
確かに『落ち込む心』から逃れられません・・・これが『不自由な心』ですね。
『神の思想』に思考の基軸を置き『魂の能力』に目覚めれば、簡単に『心の主導権』を形から奪い返せます。
『魂の能力』!?
魂には『心自由の理』が備えられています。
人間の心はいつ如何なる時でも自由に心を使えるのです。
そもそも『落ち込む』原因をつくったアナタ自身の『心の理』に対して、『心通りの守護』をいただいた結果なのだから喜べばいいのです。
わたしたちは心を使う度に『心通りの理』に種を蒔いているのだから、常に喜びを意識して『心の理』をつくることで、新たな『心の癖』が習慣的に身に付くのです。喜ばなかったら大損です。
成る程・・・確かに落ち込んでいる場合ではないですね。
『心通りの理』がある以上、喜ばなければ『落ち込む心の悪循環』が続くということですね。
わたしの心は自由なのだから・・・(少し思案)・・・
あっ!心が晴れてきました!
今、心が晴れて喜べたということは、目の前の『落ち込む原因(形)』は既に消滅し、未来にも喜びの種を蒔いたということです。
今度は『喜びの原因』が増えましたね。
本当です。なぜ、こんなことで落ち込んでいたのでしょうか?
言われた通り、心が不自由だったのですね。
うむ。素直でよろしいですね。
これからは『神の思想』で喜びの癖を身に付けましょう。
ありがとうざいました!
コメント