神様は喜びの心を優先的に守護してくれるって本当?!:心通りの守護

神の思想 神の思想

恐い・・・。

何が?

心通りの理』を知ってから恐くなった。

だから何が!

自分が過去に使った喜べない心に決まっているだろ!

過去に使った心の種がいつ実るのか考えると・・・恐くなってくる。

 

余程過去に悪い心を使ってきたのね!

いつも心清らかな私はアナタと違ってちょー余裕だけど。

お前こそ恐れるべきだ・・・。

神が人間の心を受け取り、その心通りの守護をするのが『心通りの理』でしたね。

でも心通りの守護は使った心が実るまでタイムラグ(時間差)があります。

特に『喜べない心の理(種)』は何時実るのか解りません。

何故『喜べない心』は何時実るか解らないの?

それは『喜べない実り』は、人間が喜べないことは神も重々承知しているので、なるべく実らせないように塞き止めているのです。

へー、神様って結構いい奴じゃん。

そうね、少し見直したわ。

・・・・・・。

これは親心ですね。

子供(人間)の喜べない姿を見たくない親心。

でも喜べない実りを塞き止められるなら、ずっと塞き止めてくれればいいのに。やっぱ、神様って融通が利かないわね。

それで人間がずっと喜べればいいのですが、現実に喜べないから『喜べない種を蒔いている』のが今の現状なのです。

人間は『喜べない実り』ばかりに目を奪われますが、それ以外に頂いた膨大な守護には目もくれず、守護がない守護がないと不足するばかり。

膨大な守護
目が見える。耳が聞こえる。話せる食べられる呼吸ができる。歩ける。衣食住がある。地球がぶれずに回転し続け、宇宙は規則正しく運行されている等。

 

喜べない心の種』は何も神側だけに蓄積されているわけではありません。

人間自身の魂にも『喜べない心』が蓄積され、魂を覆い隠す埃として積み上げられているのです。

魂が『喜べない心』で覆い隠されてしまえば、魂は喜びを感じられなくなってしまいます

そうなると二進も三進(にっちもさっち)も行かないので、神は『喜べない実』を守護して魂を守るのです。

え?どうして『喜べない実』が魂を守るの?

例えば健康の喜びを感じられない人が、病気になったら健康の有り難みを痛感し、健康を喜ぶ感受性を取り戻せるでしょう?

喜べない種は神が塞き止めている

 

要するに、『喜べない実り』を塞き止めるのも、実らせるのも、人間の喜びを願う神の守護なのです。

成る程。

だから心通りの守護・・・守護なんだね。

本当に解ったのかしら?

でも、『喜べない実り』を考えると恐いよ。

やっぱり解っていないのね、ホホホ。

それなら良い方法を教えてあげます。

まあ、教えて教えて!私にだけコッソリ教えて!

良い方法とは『喜びの種』を蒔き続けることです。

『心通りの理』は喜びの種を優先的に実らせる法則性があります。

どんなに『喜べない心』が埃となって蓄積されていても、『喜びの心』があれば最優先で守護いただけるので、『喜びの種』を蒔き続ければ『喜べない実り』を守護いただくことはありません。

喜びの種が優先的に守護される

本当か!? それは吉報だ!

要するに喜び続ければいいのね?毎日合コンやって飲み明かすとか?

神の言うところの『喜び』とは『神の守護を喜ぶ』ことであって、自分本位な喜びとは違います。

自分本位の喜びは、『人の喜びを見て共に楽しむ』神の思想とは真逆の理念です。

それは魂に組み込まれた根源的理念でもあるので、『人の喜びを見て共に楽しむ』心を使っている時は、魂が生き生きと活動しているのです。

神の守護を理解しなければ、自分本位な喜びからは絶対に抜け出せません。

神の守護を理解すれば、自分とは『借りものの体、衣食住、環境に守られた』魂一つの存在

借りものの心配をする必要はなく、自分の心一つで喜びの運命を創造できるなら、我身思案という自分に対する欲求は鎮まり、必然的に他人の喜びを思う気持ちが強くなります

神を知り、神の守護を知り、神の思想と一つになった時、『人の喜びを見て共に楽しむ』という至高の境地に達するのです。

人の喜びを見て共に楽しむ・・・俺にできるだろうか?

試しに私を喜ばせてご覧なさい。

お、お前ってスゲー美人だな。

うわ、気持ち悪いこと言わないでよ!

変態!スケベ!最低!

・・・・・なぜ?

嘘は駄目ですね。

誠の心でなければ、相手には通じません。

相手に通じないということは、神に通じていないということ。

つまり誠の心でなければ、思い通りに理は動かないのです。

はい、肝に銘じます

『心通りの理』は喜びの種を優先的に実らせる

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