新シリーズ『天理の教え:超解説!みかぐらうた』
第4回目はからは本編
『第一節:あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと』前半
をお送りします。
あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと
“悪しきを払って救けてください 天理王命(月日道具衆)様”
慶応2年(1866年)に小泉不動院の山伏が白刃を抜いて中山家のお屋敷に暴れ込み、乱暴狼藉を働いて帰った後に、教祖が「あしきはらいたすけたまへ てんりおうのみこと」と教えられました。
これまで「南無天理王命」と神名を、回数や時間の区切りもなく繰り返し唱えるだけの形式でしたが、ここに来て『つとめ』の次元が更新され「あしきはらいたすけたまへ てんりおうのみこと」と改められたのです。
そして回数も21回と定め、それで十分の理として受け取ると教えられました。
その後、明治15年に「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」に改められ、現在の形式に至っています。
悪しき形
この時点で唱えられている
悪しき
とは、乱暴狼藉を働く山伏や、病気や貧困、災害、動乱など、人間の命、生活において明らかに不都合な「形(現象)の悪しき」を指しています。
「悪しき」とは読んで字のごとく「人間にとって悪しき形」。
何故「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」と教えられたのか?
それは神様以外に「悪しき」を払う能力が無いからです。
つまり人間には「悪しき」を払う力は皆無。
人間の力では「形の悪しき」は絶対に払えないのです。
え?
でもちょっと待ってください?
現在は医療技術も進み、病気なら医者の手で完治できるのでは?
これは医者(人間)の力で「悪しき」を払った結果であり、人間にも「悪しき」を払うことが出来る証拠では?
確かにこれまで医者は沢山の病気を治してきました。
現在は病気になれば殆どの人が医者に掛るほど信頼を獲得し、ロビーは患者で溢れ返り、医療を受けるまで何時間も待たされる状態です。
しかし施術の結果、心臓が動き、血が止まり、傷口が塞がり、症状が治まり、意識が回復する…
これら人体の働きは、医者にもコントロール出来ない「神の領域」なのです。
一見、医者の手で病気が治まる様に見えますが、実際に医者の「心通り」に人体を動かす「神の働き」なしに、医療現場での救済は有り得えません。
医者がどんなに手を尽くしても救からない時は救からない。
「神の働き」があればこそ病院で患者が救かりますが、「理」が無ければ人体はビクともしないのです。
それが神様が自由用する「かしものかりもの」の現実。
「悪しき形」だけではなく、体を含め、衣食住、地球、太陽、宇宙・・・全てが神様のもの「かしものかりもの」。
「かしものかりもの」は「心通りの守護」で神様だけが自由用する。
これが「理(法則)」です。
逆に「理」があれば病院でなくとも病気は治まるのが道理。
ならば「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」の心に成れば、その「心通り」に神様は「形の悪しき」を払い救けてくださるのでしょうか?
これって「拝み祈祷」?
一見すると「第一節 あしきをはろうて」は「拝み祈祷」のように思えますが、これは飽くまで神様と人間の関係を表わした「理の話」なのです。
要するに
「悪しき形」を払うことは神様以外に絶対に出来ない!
私は以前、夜中に突然息苦しくなり目を覚めました事がありました。
呼吸が思うようにできず息が止まる恐怖に駆られ…
「このままでは死ぬ!」
私は急いでお社の前に向かい、「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」と唱え続けました。
こんな時は、かしものとか、心通りの守護とか、教理を考えている余裕はなく、ただひたすら「神様救けてください」と願うしかありません。
有り難いことに数回唱えた辺りで、正常に呼吸が出来るようになり胸を撫で下ろしましたが、人間切羽詰まれば「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」と唱える以外に「悪しき」から逃れる術はない状況を体験させていただきました。
先ほども述べた通り、病気など「悪しき形」は全てが「かしものかりもの」であり神様の領域。
「悪しき形」を含め人間が形を動かすことは原理的に不可能。
「悪しき形」を払うことは神様以外に絶対に出来ない!
この認識に心改めることが『つとめ』の第一定義。
21回「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」を唱える間に、意識の大変革が行われるのです。
悪しき心
さて、ここまで説明した「悪しき」とは飽くまで「形の悪しき」でした。
しかし教えが進んで行くと「形の悪しき」を払う前提として、「心の悪しき」を払う必要に迫られるのです。
十ド このたびあらはれた やまひのもとハこゝろから
(みかぐらうた 十下り目)
“この度現れた 病の元は心から”
*ここで言われている「病」とは病気のみを指すのではなく「悪しき形全般」です。
これまで一生懸命「形の悪しきを払いください神様」と運んでいたのに、「悪しきの元は貴方の心」と言われる訳です。
つまり「悪しき心」が「悪しき形」の正体。
「悪しき心」とは八つの埃と言われている「をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」なのでしょうか?
ならば「私の悪しき心を払い救けてください神様」との気持ちを込めて唱えるのでしょうか?
人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々にちにち出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。
(おさしづ 明治22年2月14日)
“体は神様のもの、心一つが人間のもの どんな与えもたった一つ心通りの守護”
体を含め、形一切が「神様のもの」、そして心一つが「人間のもの」との教え。
人間が形を動かせないように、神様にも人間の心は動かせない
これが神様の定めた理(法則)。
即ち、神様が人間の「悪しき心」を払うことは原理的に不可能。
ならば「悪しき心の内訳」は自分自身で見極める必要があるのでしょうか?
それじゃ、『つとめ』に間に合いません。
「悪しき心の正体」とは具体的に「あの心使い、この心使い・・・」と分けられるものではなく、「悪しき心」とは人間思案全般。
悪しき心の正体
つまり
「かしものかりもの」を「我がもの」と思い違う心。
これが「悪しき心の正体」なのです。
体や衣食住、家族、他人は「かしものかりもの」。絶対に人間の自由にはなりません。
「かしものかりもの」を「思い通りにしたい」「思い通りにできる」と思い違いする心に、様々な悪しき思案が発生するのです。
自由に出来ないものを、自由にしたいと思えば、必ず無理が生じ、不足や先案じなどの我が身思案に支配され、「自分を守りたい、自分を良くしたい、自分、自分・・・」と自分の得ばかり思えば「八つの埃」となって人間関係に軋轢を生み、「八つの埃」が心通りに我が身に返り「悪しき形」の原因になるの。
要するに
「かしものかりもの」を「我がもの」と思い違う心に「八つの埃」が発生する
のだから
「かしものかりもの」を理解すれば自然と「八つの埃」は離れて行く
のです。
悪しき心の自覚
私には子供が4人いますが、それぞれ様々な病気を患います。
風邪、発熱、歯痛、腹痛…
その度に親である私は「一刻も早く痛み苦しみから子供を救いたい」と思い、直ぐさま病気を患う子供の面前で『おつとめ』を開始します。
「あしきをはろうてたすけたまえ・・・」
数回唱えている間は「子供の身を案じる気持ち」で一杯ですが、「あしきはらい」を進める内に段々と心境に変化が現れるのです。
「あしきはらい」の一節ごとに「子を案じる気持ち」が薄れ、私自身の「悪しき心」が払われていくのです。
なににてもやまいというてさらになし 心ちがいのみちがあるから
(おふでさき 三号 95)
「あしきはらい」が進むごとに「かしもの」という壮大な守護に包まれる。
四ッ よくのないものなけれども かみのまへにハよくはない
(みかぐらうた 五下り目)
「かしもの」理解すれば、この世は全て神様の与えに満ち足りた世界。
子の身上に「かしもの」のお仕込みを頂く中、心は安心と喜びに包まれる。
すると不思議なことに…
子の身上が穏やかに治まり「悪しき心」が払われた証をお見せくださる。
あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと
21回、「あしきはらい」を唱える間に「神様との対話」が行われ、21回唱え終わる頃には、唱え始める前の「我が身思案」とは違う「神一条」の心に生まれ変わっているのです。
“あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと”
これは「人間の心を普請」する『創造原理』。
“悪しき払いの唱え”で“悪しき心”が払われ
“悪しき心”を払えば“悪しき形”も払われる
誠の心は世界の悪しきを払う
子の身上を台に「あしきはらい」の説明をしましたが、病気に関わらず、人間が直面する全ての「悪しき形」人間関係・貧困・災害・紛争など、同じ原理で動くのです。
現在新コロナウィルスが世界に猛威を振るっていますが、この治まりを願い神様に「拝み祈祷」したところで「不安・恐怖の心」を運ぶようなもの。
神様が抱えていた大きな悪しきが現れた時、「拝み祈祷」をすれば「悪しき形」の上に更に「悪しき心」を運び「悪しきの上塗り」をするようなもの。
『つとめ』は本来、「神様の心」を知る者しか運び得ない「誠の心」
世界的危機に直面し「不安・恐怖」に支配された心を、「あしきはらい」の唱えにより「かしもの」に満ち足りた安心・喜びの心に立て替え、「神様の心」を知る者しか運び得ない「誠の心」で“世界救けのつとめ”に直参するのです。
「悪しき形」が現れたということは、神様が抱える「悪しき」が一つ消えたということ。
この時に「悪しき形」を見て不足・不安を繰り返せば、再び神様の元へ「悪しき」を運ぶ結果になるのです。
こんな不毛な悪循環をいつまで続けるのですか?
いつまで自分の都合ばかり立てて、不足先案じを繰り返し、陰気暮らしに甘んじているのですか?
世界救けの心
口で言うのは容易いです。
しかし、こんな神様と同じ巨大な心など、そう簡単に作れるものではありません。
わたしたちは未だ「身の回りの世界、自分が関わる身の回りの世界」で精一杯な小さな心。
世界に届く感受性はまだ遙か彼方。
だからこそ日々の『つとめ』に誠を込め、小さいながらも『つとめの実』をお見せいただく必要があるのです。
今こそ「悪しき種蒔き」を断絶し、理を悪循環から好循環へと逆回転させる時。
現れた「悪しき」が大きければ大きいほど、これを誠で治めた時、理は大きく前進する。
理が大きく前進すれば「世界が大きく陽気暮らしへとシフトする」。
『つとめ』にはそれだけの理があるのです!
それでは前半はここまで。
後半は「あしきをはらうてたすけたまへ」が包含する”巨大な意味”を解説します。
超解説みかぐらうた一覧
■みかぐらうた本編
コメント
見て見逃しはできませんので、ひとこと理の間違いを指摘します。
「かしものかりもの」を「我がもの」と思い違う心に「八つの埃」が発生するのだから とあります。
が、こんな教えは、みきの教えにありません。
教祖は、
「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。
鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。
小さな埃は、目につかんよってに、放って置くやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり。」と、仰せ下された。
高井は、「有難うございました。」とお礼申し上げ、直ぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういうように聞かせて頂きました。」と、お取次ぎした。すると、先方は、「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ。」と、詫びを入れて、それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂いた。
「かしものかりもの」を理解すれば自然と「八つの埃」は離れて行く こんなことは教祖の教えではない。空想である。
天理教本部は、教祖が埃に例えて教えたほこり、 「神様の思いに添わない心遣いを、ほこり」と言う。
人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つが我が理。おさしづ(明治二二・六・一)である。
一れつにあしきとゆうてないけれど 一寸のほこりがついたゆへなり 一 53 である。
公開するなら、原典から示してかかる事である。
みきが と言っているのに、
今こそ「悪しき種蒔き」を断絶し、理を悪循環から好循環へと逆回転させる時。
現れた「悪しき」が大きければ大きいほど、これを誠で治めた時、理は大きく前進する。
理が大きく前進すれば「世界が大きく陽気暮らしへとシフトする」。
『つとめ』にはそれだけの理があるのです!
埃の掃除の邪魔になる、大げさな煽りである。
お助け人は、一寸の埃のそうじをする。
慶応2年(1866年)に小泉不動院の山伏が白刃を抜いて中山家のお屋敷に暴れ込み、乱暴狼藉を働いて帰った後に、教祖が「あしきはらいたすけたまへ てんりおうのみこと」と教えられました。
これまで「南無天理王命」と神名を、回数や時間の区切りもなく繰り返し唱えるだけの形式でしたが、ここに来て『つとめ』の次元が更新され「あしきはらいたすけたまへ てんりおうのみこと」と改められたのです。
そして回数も21回と定め、それで十分の理として受け取ると教えられました。
寿限無さんはこの様に解説している。
要するに
「かしものかりもの」を「我がもの」と思い違う心に「八つの埃」が発生する。
こんな教えは、無い。みきは説いていない。
おふでさきには、第三号九六
このみちハをしいほしいとかハいと よくとこふまんこれがほこりや とある。
おふでさきには、第十三号二三
心さいしんぢつ神がうけとれば どんなほこりもそふぢするなり
第十七号六九
それしらすみな一れつハめへ/\に ほこりばかりをしやんしている
神さまは、「一れつハめへ/\に ほこりばかりをしやんしている」ことを望まれていない。
「心さい、しんぢつ神がうけとれば」に教えの肝がある。
埃を掃除する事ばかり思案して、心を神様に受けとっていただくに思いが至らなければならない。
第十七号六九 それしらすみな一れつハめへ/\に ほこりばかりをしやんしている
第十七号七〇 この心神のざんねんをもてくれ どふむなんともゆうにゆハれん
第十七号七一 いまゝでのよふなる事ハゆハんでな これからさきハさとりばかりや
第十七号七二 このさきハなにをゆうやらしれんでな どふぞしかりしやんしてくれ
第十七号七三 さと/\たをと/\びよさま/\
第十七号七四 このはなしあいづたてやいてたならば なにゝついてもみなこのとふり
自分の心埃の掃除をするなどは人間が、なすべきではない。
心さいしんぢつ神がうけとれば どんなほこりもそふぢするなり を、心がけるべきで、みきにお受け取り頂く精神に、心定めて、お助けする事である。
寿限無さんは、こんな解説をしていて、危ういです。
子の身上を台に「あしきはらい」の説明をしましたが、病気に関わらず、人間が直面する全ての「悪しき形」人間関係・貧困・災害・紛争など、同じ原理で動くのです。
現在新コロナウィルスが世界に猛威を振るっていますが、この治まりを願い神様に「拝み祈祷」したところで「不安・恐怖の心」を運ぶようなもの。
神様が抱えていた大きな悪しきが現れた時、「拝み祈祷」をすれば「悪しき形」の上に更に「悪しき心」を運び「悪しきの上塗り」をするようなもの。
『つとめ』は本来、「神様の心」を知る者しか運び得ない「誠の心」
教理のでっち上げです。
子の身上を台に「あしきはらい」の説明をしましたというのは、みきの方です。
第十七号七三 さと/\たをと/\びよさま/\
第十七号七四 このはなしあいづたてやいてたならば なにゝついてもみなこのとふり
第十七号七三 さと/\たをと/\びよさま/\ (17-73) ・読み方(ひらがな)
さとさとたおとたおとびょうさまびょうさま
・注釈
~七五註さと/\とは、教祖様の生家前川家を指し、
たをと/\は、秀司先生の庶子で、
田村の村田某(田甚)の分家へ養子に行かれた音次郎氏のこと、
びよさま/\とは、秀司先生の奥様まつゑ様の生家平等寺村の小東家を指されたものである。
右に挙げた三家は、当時いずもお道に対しては熱心という訳には行かなかった。
この御歌は、神一条の道に遅れるならば、
たとい親戚の者でも十分守護する訳に行かぬ、とお戒めになったもので、
合図立て合いとなって、悪い理が回わって来たならば、何についても皆この通りになるから、
皆の者は、よく思案せえと仰せになっている。
ここの処をよく思案して、我々は、神意に背かぬよう、神意の急き込みに遅れぬよう、しっかりと神一条の御教を心に体して、たすけ一条の道に勇んで進まして頂かねばならぬ。
親族を、先に回したら、みきに反する。
寿限無さんんは、教えの基本が、まるで見えていない。残念だ。