新シリーズ『天理の教え:超解説!みかぐらうた』
第3回目は『つとめの効能』をお送りします。
命捨てても
四ッ よるひるどんちやんつとめする そばもやかましうたてかろ
(みかぐらうた 四下り目)
天理教信者なら誰でも、朝夕、毎月(月次祭)に拝する『つとめ』。
『つとめ』の地歌に合わせて、拍子木、掏摸がね、チャンポン、太鼓、笛、琴、三味線、胡弓が奏でる『つとめ』の音色。
ハッキリ言って近隣住民は大迷惑ですよね?
中には騒音を気にして拍子木にタオルを巻いて音量対策している教会もあるとかないとか…。
教祖が亡くなる明治二十年の状況は更に酷く、『つとめ』をするだけで警察に捕まり極寒の監獄で何日間も拘留されていました。
そんな訳で、信者達も高齢の教祖の体を気遣い『神様の意に添えない』ジレンマの日々。
しかし神様は『つとめ』を急き込まれる。
いやいや、『つとめ』をすれば警察に拘留される。
この警察と神様の板挟みの中、次第に教祖の容態が悪化し、もはや一刻の猶予も許されない切羽詰まった状況に!
『つとめ』をしても、しなくても、教祖の身が危ぶまれる厳しい状況に置かれ、漸く意を決し『つとめ』の覚悟が固まる。
明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)、教祖の孫にあたる眞之亮(しんのすけ)の号令により、「命捨てても」の覚悟ある者のみ命懸けでおつとめに挑まれた…
これは天理教史における最重要かつ有名な場面ですね。
「命捨てても」の覚悟までして挑む『つとめ』。
なぜ、そこまでして『つとめ』をする必要があるのでしょうか?
皆さんは、ふと考えませんか?
なぜ?おつとめするの?
なぜ?おつとめするの?
当時、教祖から『つとめ』を急き込まれていた、眞之亮(しんのすけ)以下、側近の信仰者達ですら『おつとめ』の意味を理解している者は一人もいませんでした。
だからこそ教祖は、命を25年縮めてでも『つとめ大切』を伝えられたのです。
それでは明治二十年から133年経過した現在の私達は、『つとめ』の神意をしっかり理解しているのでしょうか?
なぜ?おつとめするの?
もし、子供に尋ねられたら何て答えますか?
その答えは合っていると自信を持って言えますか?
四ッ ようこそつとめについてきた これがたすけのもとだてや
(みかぐらうた 第五節 六下り目)つとめさいちがハんよふになあたなら 天のあたえもちがう事なし
(おふでさき 第十号 34)
この二首のお歌だけ見ても、『つとめ』に込められた「神様の思惑の巨大さ」を伺い知ることができます。
『つとめ』をするのに充分過ぎるくらい価値がある内容です。
しかし、この二首をもって『つとめ』の神意を理解した!…と言っても無意味なこと。
教祖の教えは「実践教理」。
教え通りに実践し、教え通りの効能が現れなければ、本当の意味で神意は理解できません。
つとめの教え → つとめの実践 → つとめの効能 → つとめの理解 → 喜び
これ以外に『つとめ』を理解する方法はありません。
つとめの実践 → つとめの効能 → つとめの理解 → 喜び → エンドレス…
この繰り返しにより『つとめ』の理解をアップデートすることで、『つとめ』に運ぶ喜びもアップデートし続けるのです。
これが「陽気尽くめの信仰」。
五ッ いつまでしん/゛\したとても やうきづくめであるほどに
(みかぐらうた 五下り目)
ゆえに私達は
なぜ?おつとめするの?
と問い続ける必要がある訳です。
続く理
私は天理教を信仰する家庭で育ちましたが、父はサラリーマン、母は専業主婦で、神棚を祭ってあるだけの一般家庭。
病気になれば当然のように病院に行くし、『おつとめ』も習慣的に毎日行っている訳ではありませんでした。
要するに「ゆる~い信仰を信条としたごく平凡な一般家庭」。
だから、たまに家で『おつとめ』を始めると無性に嫌な気持ちになり、大人になればなるほど嫌な気持ちは強まりました。
何が嫌かというと…
『おつとめ』の意味が分からない
これに尽きます。
- 意味の分からないことに大切な時間を費やしたくない
- 意味の分からないことは楽しく感じません
- 意味の分からないことに心は動きません
自分を弁護する訳ではありませんが、これは極々一般的な考え方ではないでしょうか?
しかし!
ある師との出会いを境に状況は一変したのです。
師から教えていただく『つとめ』の意味はとても刺激的でした。
先ず兄が師から教えを聞き、次に両親、祖母へと伝わり、「ゆる~い信仰」が何時しか「意味のある信仰」に変ったのです。
そして最後に私。
『つとめ』の意味を知って以来、毎日『つとめ』に運ぶようになり、結婚し四人の子供を授かった今でも、家族揃って『つとめ』に運び続けています。
しかし、ただ意味を知っただけなら、こんなに長続きしなかったでしょう。
どんな深い意味が籠もったものでも、毎日同じことの繰り返しには必ず飽きが来ます。
ダイエットでも痩せる「効能」が無ければ長続きしません。
いくら「神様が教えた大切なつとめ」だとしても、「効能」が無いものを続けることは苦痛以外の何ものでもありません。
どんな立派な計画でも『続く理』が無ければ頓挫してしまいます。
逆に言えば「効能」があれば長続きするのです。
毎日毎食後に必ず歯を磨きますが「歯磨きが飽きたから明日から歯を磨かない!」なんて事はありませんよね?
歯磨きは飽きる飽きないの問題ではなく、歯磨き自体に「虫歯を予防し口臭を抑える」などの効能があるから毎日止められないのです。
ご飯だって毎日三食いただきますが、例え「もう食べるの飽きた!面倒くさい!」と思ったとしても、食べないワケにはいきませんよね?
ご飯は命の源だって誰でも知っているし、ご飯を食べなければ力が出ず、楽しい遊びすら出来なくなります。
要するに「効能」があれば続けられるし止められません。
これが『つとめの効能』を見ることの重要性なのです。
つとめの効能
社会生活を営んでいれば時間は貴重ですよね。
『おつとめ』をするには、まとまった時間が必要になり、仕事をしていれば『おつとめ』に費やす時間さえ惜しいと思うことも屡々。
『おつとめ』に時間を費やす分、仕事に費やす時間が少なくなります。
普通、仕事で問題が発生したまま解決の目処が立たなければ、仕事をほったらかして『おつとめ』する心境にはなりません。
そもそも仕事が気になって『つとめ』に身が入りません。
それが普通の感覚であり、私も屡々、この感覚に縛られていました。
『つとめ』の意味を知れば、何を差し置いても『つとめ』に運ぶ価値があるワケですが、現実には自分の思い通りに事は運びません。
世の中は私の都合だけで動いているワケでは無いからです。
「仕事」を優先しなければ会社も困るし、社会の歯車が一つ狂うことに繋がります。
これが一般的思考。
同時に『つとめ』の意味を知りながら、『つとめ』より『仕事』を優先することは、信仰者が抱える大きな矛盾でありジレンマ。
ここに葛藤が生まれます。
『仕事』の優先順位が高くなればなるほど、葛藤も大きくなり気持ちがスッキリしません。
『つとめ』の存在自体が心を掻き乱す状況は正に本末転倒。
これは明治二十年「命捨てても」の追体験といって過言ではありません。
状況の重い軽いはあるとしても、あの日以来、私達信仰者は常に「命捨てても」の問いを投げかけられているのです。
「信仰は人生の保険」でもなく「保身の為」でもない。
教えの意味を深め、喜びの味わいを深め、陽気尽くめに暮らすための信仰。
ある時、この矛盾と決別するために『つとめ一条(つとめ第一の生活)』に心定め直しました。
例え問題が解決しなくても、途中で仕事を切り上げ『つとめ』に運ばせていただくと決心し、後は神様に凭れて『つとめ』に心の標準、生活の芯を合わせました。
すると…
なんという事でしょう?
不思議な事が起きたのです!
『おつとめ』の最中にパッと問題解決のアイデアが閃くのです!
これまで『おつと』の時間を犠牲にし、問題解決に取組んだとしても、数日たっても問題が解決しないこともありました。
それが『おつとめ』に時間を費やした分、問題解決に費やす時間が大幅に短縮され、結果的に時間が創造される不思議な現象が起きたのです。
それでは下記図式で問題解決に要する時間を比較してみましょう。
問題解決に費やす時間【通常時】
問題発生! → 問題の原因究明(1時間) → 問題の長期化(24時間) → 問題解決!
合計25時間 (´×ω×`)
問題解決に費やす時間【おつとめ時】
問題発生! → 問題の原因究明(1時間) → おつとめ(1時間) → 問題解決!
合計2時間 (*゚∀゚*)
差し引きで23時間も創造された事になります。
ちょっと傍から見たらバカバカしい話かもしれません。
しかし、これが一過性の現象なら「単なる偶然だった」と考えを改めるところですが、一度や二度のことではなく、それ以来仕事自体が問題なく順調に運ぶようになり、難なく『おつとめ』に運べるようになりました。
“人間の都合”を捨てて、『つとめ』を急き込む“神様の都合”に合わせることで、自分の世界により良い好循環が現れたのです。
さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/゛\あり、それ/゛\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで
正にこの”おことば”通り。
この世界は“人間の都合”の前に“神様の都合”で動いているのです。
人間の喜びを見て共に楽しむ
この“神様の都合”にマッチする心定めなら、神様は真っ先に受け取り「人間が思う以上の好都合」を現わし、神を慕う人間の心にお応えくださるのです。
これは人間が運ぶ『つとめ』により“創造原理が好循環に働いた結果”。
そして、これはほんの一例で、その他にも『つとめの効能』は枚挙に暇がありません。
心が鎮まり、体の疲労が回復する。頭痛や発熱、歯痛、腹痛などの症状が治まる。災害時に川の氾濫を塞き止め、水不足時に『雨乞いのつとめ』、冬期オリンピックで雪が足りない時に『雪乞いのつとめ』など、『つとめの効能』を目の当たりにして来ました。
このように、『つとめ』に運ぶことで確かな効能を頂けるのだから、マンネリや義務的に運ぶだけでは単なる時間の浪費。実に勿体ない。
なぜ?おつとめするの?
しっかりと意味を再認識して『つとめ』に向かわなければ、神様の思惑とズレてしまい、結果的に「効能」も貰い損ねてしまうのです。
”みかぐらうた”は意味の塊
”みかぐらうた”は意味の塊です。
求めれば求めるほど意味は深まり理解も深まる“無限なる神の叡智”。
この意味を深め続けることで、神様の思いと寸分違わぬ『つとめ』に近づけるのです。
つとめさいちがハんよふになあたなら 天のあたえもちがう事なし
(おふでさき 第十号 34)
だからこそ、私達は思考し続ける価値があるのです。
なぜ?おつとめするの?
”みかぐらうた”の意味を深めずして『つとめの効能』など夢の又夢。
そして「思考する」ということは「意識を高める」ということ。
要するに意識的に『つとめ』に向かへば、『つとめの効能』にも自覚的になり、“神様のすること為すこと”が次第に見え始めて来るのです。
そうなれば『つとめ』は楽しくなり、益々意味を深められる仕組みになっているのです。
『おつとめ』なんか、ちゃっちゃと済まして、早く布教やひのきしんの実働へ向かおう!などと頓珍漢なことを言っていませんか?
『おつとめ』こそが神様の本懐。
信仰者は『おつとめ』さえ”神様の思惑通り”に運べたら、他に何をする必要が無いほど、人は救かり、人は集まり、教会は大繁盛すると思って間違いありません。
それが『つとめ』に込められた理。
それほど『つとめ』とは人間にとって“大仕事”であり、神様から見たら“大手柄”なのです。
与えるために教えた『つとめ』。
神様は与えたくて仕方がないのです。
効能を求める心は欲?
「効能」を求めることは「欲」でしょうか?
いや、私には欲はありません。効能など求めていません!
これは大きな誤解です。
それでは“陽気暮らし”を拒否しているも同じこと。
「効能」とは『創造原理』が動いた証拠。
人間が運ぶ『つとめ』を神様が受け取り『創造原理』を働かせ、より良い守護を形に現わしてくださるからこそ、陽気尽くめの世界が実現する可能性があるのです。
そして「効能」とは“神様の思い”と“人間の心”のズレを計る「バロメーター」でもあります。
もし『つとめ』に運び続けても一向に「効能」が見えて来ないとしたら?
神様が嘘を言ったのですか?
違いますよね?
つとめさいちがハんよふになあたなら 天のあたえもちがう事なし
(おふでさき 第十号 34)
「効能」とは“天の与え”の入り口なのです。
“天の与え”とは人間の体、衣食住、地球、太陽、宇宙・・・この全てが『つとめ』によって成り立っている「守護の賜」。
人間にとって極々当たり前の日常こそが“天の与え”なのです…
しかし残念ながら今の私達にはそこまでの感受性はありません。
これまで当たり前に感じていたものを急に“天の与え”と言われても、理屈では分かっても感受性が伴いません。
心から“天の与え”と実感できなければ、当然、口ばかりで喜びは伴わない。
だからこそ、実際に「効能」を見ることで“天の与え”という不思議を感じる感受性が磨かれ、その磨かれた心が「当たり前の日常」を“天の与え”と実感させるのです。
そもそも、神様は人間にとって“不思議な存在”なのです。
無から有を創造したり、宇宙を創造したり、体に命を宿し動かしたり・・・人間の叡智では絶対に計り知ることができない“不思議な存在”なのです。
その“不思議な存在”が与える守護を“不思議”と感じるためには、与えを受ける人間にも“不思議を感じる能力”が必要不可欠。
磨かれた感受性があればこそ、日常的に“天の与え”を感じて「陽気尽くめの人生」を送ることができるのです。
まとめ
何故、教祖が25年寿命を縮め、側近を「命捨ててても」の心境に追い込んでまで『つとめ』を急き込まれたのか?
自分で自分の命を心配しても意味の無いこと。
自分で自分の命を守る方法など、人間思案の中には存在しません。
「命そのもの」が月日道具衆の『つとめ』で守られ、「命」に付随する体、生活、環境、全ての形が難儀不自由なく成り立つ現実を理解させるために『つとめ』を急き込まれたのです。
そして人間の運ぶ『つとめ』が一粒万倍の守護となって遍く世界に行き渡る様を目撃し、『つとめ』の価値に喜び勇み、人間自らの『つとめ』で世界一列を陽気尽くめに創造するため…
こんな壮大な目的の元に『つとめ』が教えられたのです。
要するに『つとめ』の完成なくして“陽気暮らし”は実現しないのです。
さあ、いよいよ次回から本編”みかぐらうた”の解説に入ります。
超解説みかぐらうた一覧
■みかぐらうた本編
コメント
記事に、当時、教祖から『つとめ』を急き込まれていた、眞之亮(しんのすけ)以下、側近の信仰者達ですら『おつとめ』の意味を理解している者は一人もいませんでした。
これは嘘です。そして真柱への侮辱です。真之亮は、つとめの意味をご承知だった。
考えてもみてください。
このたびハうちをふさめるしんばしら はやくいれたい水をすまして(3-56)
・読み方(ひらがな)
このたびはうちをふさめるしんばしら はやくいれたいみずをすまして
・注釈
この度は、人々の心を澄まして中山家の後継者として、又道の中心たるべきしんばしらを早く入れたい。
(註)うちをふさめるしんばしら本歌御執筆の明治七年には、真之亮様は九才になられ、
御出生前から、しんばしらの真之亮と呼ばれて将来中山家の後継者となり、又道の中心となられることに定めておられた。そして真之亮様は早くからおぢばへ来ておられたが、一日も早くおぢばに定住させたい、とお急込みになったのである。本教ではお道の中心と仰ぐ方を真柱様と申し上げる。
三号八註参照すれば、・注釈
親神が心から急き込んでいるのは、一日も早く中心を定めたいという事である。
ここでは「かんろだい」を指す。
またあわせて真柱(後の中山眞之亮初代真柱)も指す。
とある。
親神が選んだお方が、つとめの理を知らないとは、嘘も白々しい。
残念だ。
池田大作という故人となられた方が、創価学会という偽仏教団体づくりに、題目唱えなさいと、朝弁の勤行(おつとめ)を、徹底させた。
それと同じ、偽天理教づくりは、おやめなさい。警告します。
残念です。
池田大作は、正月26日に、SGI(創価学会インターナショナル)会長になり、
公開の場に出られなくなった状態で、
イエスの神罰の数理13年で、中山みきの送りの数理正月三十日(130)の数理で、
あの世に送られた。
偽宗教には、神仏の、返しがあります。
残念です。
おやさまは三つ身に付くと教えられました。
嘘をついていると、真柱はつとめの理も知らないという嘘が身に付きます。
貸し物借物の理も説かず、おつとめしなさいと説いていると、嘘が身に付きます。
早ければ、三日で、三月で、三年で、13年で、・・・返されます。
第十二号一一二
これからハうそをゆうたらそのものが うそになるのもこれがしよちか
嘘はついたものに、処置が出ます。
こうして教えましたから、もう知らぬ間ではありません。
ひとこと、匂いを、かけました。
筆先に理を知らせる(予言)を開始したみきは、明治7年に筆先6号でろくぢを解き明かす。元の理という教理を説き起こした。その筆先6号でみきが天日火の海で海は津波と説いたことは、世界をろくぢに均すという手段としての神の返しの天災を教え示したもので、明治20年みきは本席おさしづ(お指図・天啓の書)では天災は高山をくり抜くあかしとし、神の立腹の数理5の3乗という年限で明治20年(1887年)を1として
嘘ではない、真実の話です。
みきは数えて125年(5×5×5=125年)を予言したが、そのもとは筆先16号で、明治14年(1881年)に「十分詰んだ」日の到来を告げていた。
『けふの日ハもふぢうふんにつんてきた なんときつれにでるやしれんで(16-76)』『つれいくも一寸の事てハないほとに をふくみへるがたれもしろまい (16-77)』『いかほとのたかいところとゆうたとて もふけふからわもんくかハるで(16-78)』と、予言したのであるが、「なんとき」とは災難の時を示して、
「つれにでる」は連続して起こすの意味である。天災国家日本の到来を1881年に予言し明治14年(1881年)に正月晦日の理、13段の数理、130年の理で、2011年東北大震災の立腹となる
みきは、高山をくり抜くあかしとし、神の立腹の数理5の3乗という年限で明治20年(1887年)を1と数えて125年(5×5×5=125年は2011年で、明治20年のおさしづ予言の日は「3月11日」であり、
けふの日ハとは、本席が告げた3月11日そのもので、
3月11日(陰暦2月17日)午後12時 刻限御話し。
がその本席での予言である。
内も世界も十分と思うであろう。さあさぁ始め掛ける/\。どえらい山がある。ろくぢ/\という事も聞かせてある。山を刳り抜かねばろくぢでない。さあさぁ刳り抜くで/\。それぞれへも伝えておかねばならん。よう聞き分けて、じいとして見て居るがよい。 「じいとして」は地震事情を示し、東日本大震災は2011年 3月11日発生した 。
それで天理教はどうするのか、なすべきつとめは、何か、
1873年徴兵令施行 悪しき払いの歌と手ふり教授⇒13年 1886年清国三年続く旱魃。
1874年軍旗親授式 みき、初めて赤衣を着る。 ⇒13年 1887年黄河で壊滅的洪水。
1875年立憲政体詔書 一列澄ます甘露台 ⇒13年 1888米国大ブリザード。
1873年徴兵令施行 甘露台模型(雛型)制作 ⇒130 2003年 SARS新型コロナ。
1874年軍旗親授式 かぐら面を迎えに行く。⇒130 2004年スマトラ大津波
1875年立憲政体の詔書 ぢば定め ⇒130 2005年ハリケーンカトリーヌ
初代真柱が中山家に入る → 43年 関東大震災。
真柱継承者・かぐら初の勤め → 43年 阪神大震災。
三代真柱の真柱職に就任 → 43年 東北大震災。
天理教をなめるな! 東向いてるもの、西向けるのは一夜の間だ。
修理丹精は、私がします。
真柱の心得るつとめのりとは、
真柱の心得るつとめのりとは、
大社高山への、神の残念の、返しの、つとめの理である。
せかいろくぢの理振りである。
信仰者は『おつとめ』さえ”神様の思惑通り”に運べたら、他に何をする必要が無いほど、人は救かり、人は集まり、教会は大繁盛すると思って間違いありません。
それが『つとめ』に込められた理。
これは間違いです。そして大嘘です。
解説します。
みきは、天理教立教の目的を『やまいとてせかいなみでハないほどに 神のりいふくいまぞあらハす (1-25)』 『いまゝでも神のゆう事きかんから ぜひなくをもてあらハしたなり (1-26)』 『こらほどの神のざんねんでてるから いしやもくすりもこれハかなハん (1-27)』と、神の残念を説いていますから、「他に何をする必要が無いほど、人は救かり、人は集まり、教会は大繁盛する」は、ありえません。神の立腹を発揮させるのがおつとめです。
それより天罰のラッシュが出ることになります。
みきは神の残念の出ている状態では医者薬は無能であるを宣言して、とふじん医療の、黄帝思想の西洋医学そのものの医療崩壊を予め予言しました。
天罰の実例で、長男の内縁の妻のコロリ(コレラ)での死に、罰を見せています。
イエスキリストの13階段に由来の、「完成の意義・十字架」においての正月晦日の数理(130年)を示したのであって、明治2年(1869年)から、130年の1999年、国は実に無力な感染症法を制定したがこの人間の思い上がりをあらかじめ予言しておいて、神の掃除を予言していたみきです。
本物の宗教の「拝み」で病を治すに対して、高山の「医者と薬」で病を治すという、何れが治癒力を有するのか、オカルトと科学の力比べが、正月晦日1999年開始である。
人類における感染症は不老長寿に着手した中山みき天理教の「必ずかんろたいを建てる」事情の証明で、天理教は普請に例えるが、世界をろくぢに均す普請として胸の掃除がある。筆先1号で中山家の内内事情を台として筆先に理を知らせるを開始したみきは、明治7年筆先6号でろくぢを解き明かす。
元の理という教理を説き起こし、筆先6号でみきが天日火の海で海は津波と説いた。
これは、世界をろくぢに均すという手段としての神の返しの天災を教え示したものです。
明治20年みきは本席おさしづ(天啓)では、天災は高山をくり抜くあかしとし、神の立腹の数理5の3乗という年限で明治20年(1887年)を1として数えて125年(5×5×5=125年)を予言したが、お指図の刳り抜くのそのもとは筆先16号であり、前もってみきは、明治14年(1881年)「十分詰んだ」日の到来を告げていた。それで、『けふの日ハもふぢうふんにつんてきた なんときつれにでるやしれんで(16-76)』 。『つれいくも一寸の事てハないほとに をふくみへるがたれもしろまい(16-77)』 。『いかほとのたかいところとゆうたとて もふけふからわもんくかハるで(16-78)』と、みきは予言したのであるが、この予言に言う
「なんとき」とは災難の時を示す。但し濁点が無いから助けるための災難で罰ではない。
「つれにでる」は連続して起こすの意味で、天災国家日本の到来を1881年に予言し明治14年に正月晦日の理、13階段の数理、130年の理で、2011年東北大震災となった。
高山をくり抜くあかしとし、神の立腹の数理5の3乗という年限で明治20年(1887年)を1として数えて125年(5×5×5=125年は2011年であるが、明治20年のおさしづ予言の日は「3月11日」であり、けふの日ハとは、本席が告げた3月11日そのもので、3月11日(陰暦2月17日)午後12時 刻限御話し がみきがその本席身体からの予言である。
おつとめは、大災害を生むのだ。
お勤めで素晴らしい御守護という嘘は、みき天罰の対象である。神の残念に詫びがない。
信者が、誰もいなくなっても、天罰がどんなに下っても、天理教は独り立ちしている。
つとめの教え → つとめの実践 → つとめの効能 → つとめの理解 → 喜び。
こんなでたらめ、説いたら大嘘です。
きちんと書いておきます。こんな嘘を見逃したら坂井明久にみきが天罰します。
つとめは、高山との戦闘行為です。以下に書きます。事実は嘘をつきません。
みきを弾圧した明治天皇は、天皇のなさる神事として、1873年1月10日 徴兵令施行、1874年1月23日 軍旗親授式 1875年4月14日立憲政体の詔書 を実行している。これを潰すつとめ。
💮 1873年徴兵令施行 明治五年壬申十一月二十八日
💮 天皇は明治5年国家保護の基(もとずえ)を立てると欲して軍団を構築すると宣言。
💮 天皇は明治7年1月23日「近衛歩兵第一連隊編制成ルヲ告ク 仍テ今軍旗一旒ヲ授ク 汝軍
人等協力同心シテ益々武威ヲ発揚シ以テ国家ヲ保護セヨ」の勅語を賜り、連隊長野崎貞澄
陸軍歩兵中佐は、敬デ明勅ヲ奉ズ 臣等死力ヲ竭シ誓テ国家ヲ保護セム,と奉答している。上記💮似て示した三種の、この世の最高位である天皇の神事は、大嘘であり、天罰される。
天罰は、この世の真実の神であるイエスの処刑の13日に由来する「審判の数理13」同じくこの世の真実の神である天理王命の筆先第一号三九の和歌、一寸はなし正月三十日とひをきりて をくるも神の心からとて に予言の数理「送りの数理130」にて、天罰している。
それとわかるよう、先ず、天皇と同じ宗教紋を掲げ、天皇の軍事にみきの神事を重ねた。
1873年徴兵令施行 みき、悪しき払いの歌と手ふり教授⇒ 13年1886年清国三年続く旱魃。
1874年軍旗親授式 みき、初めて赤衣を着る。 ⇒ 13年1887年黄河で壊滅的洪水。
1875年4月14日立憲政体詔書 みき一列澄ます甘露台教授 ⇒13年1888米国大ブリザード。
1873年1月10日徴兵令施行 みき甘露台模型(雛型)制作 ⇒130 2003年SARS流行
1874年1月23日軍旗親授式 みきかぐら面を迎えに行く。⇒130 2004年スマトラ大津波
1875年4月14日立憲政体の詔書 みき、ぢば定め ⇒130 2005年ハリケーンカトリーヌ
みきの神事と天皇の神事は審判の数理13、送りの数理130の年に、米中に天罰を返している。
この例に倣い釈迦の仏罰の数理の5×5×5の(5の三条・神の立腹の惨状)=125で見れば、
1873年 天皇徴兵令 悪しき払いの歌と手ふり教授、甘露台模型(雛型)制作
⇒125年
1998年7月 中国 洪水 被災者数 2.4億人。被害総額470億2000万ドル。連日の大雨に
より中国揚子江流域の水位は凄まじく上昇し、100年一回の大洪水になった。
1998年10月ハリケーン「ミッチ」 、ホンジュラス、ニカラグア
1874年 天皇軍機授与式 みき、初めて赤衣を着る、かぐら面を迎えに行く
⇒125年
1999年、6月、日本、平成11年6月豪雨災害
1999年、8月17日、イズミット地震(トルコ)、死者1.5万人
1999年、9月21:台湾大地震、死者2400人
1999年12月、ベネズエラで洪水・土石流、死者3万人
1875年 立憲政体詔書 一列澄ます甘露台つとめ教える、ぢば定めする
⇒125年
日本での災害は1986年以来14年ぶりに日本への上陸した台風はなかった。しかし、9
月上旬から中旬にかけて、日本付近に停滞した前線と台風により全国的に大雨となっ
た。特に 11 日から 12 日にかけては、東海地方を中心に豪雨となり、河川の氾濫等で
甚大な被害(保険金支払見込額 1,000 億円、史上 4番目、自動車保険の支払が大)とな
った。地震・噴火災害は、有珠山噴火、三宅島噴火と地震、鳥取県西部地震と発生し、
特に鳥取県西部地震では、M7.3、被害が 1 府 9 県に及び、負傷者 138 人、住宅全壊
395 棟、半壊 2,583 棟、一部損壊14,938 棟と甚大な被害となった。
2000年2、3 月のモザンビークの洪水(100万人以上が家屋を失い、500 万人以上が被
害にあった)、8、10 月の北インドの洪水(数百万人が被害にあい、経済損失 US$12億)、
秋のベトナム・ラオス・カンボジア等の洪水(数十万戸浸水)、スイス・イタリアの南ア
ルプスの土砂崩れ等自然災害史上に残ると思われる巨大災害が発生した。ミュンヘン再
保険 会社によると巨大自然災害の数は、記録的多さである 850件を突破し前年より 100
件増え、90 年代の平均より 200件多く、1 万人が死亡した(前年は7.5 万人)。経済損害
は US$300 億(前年は US$1,000 億)、保険損害は US$75 億(前年は US$220 億)と損害額
は前年より少なかった。巨大自然災害の内、風害が保険損害の 73%である。
仏罰の数理でも、みきの神楽は、米国を厳しく天罰している。狙いは唐人ころりである。
事実に反する嘘はいけない
月日にハ うそとついしょう これきらい このさきなるわ 月日しりぞく 12号ー113
つとめの教え → つとめの実践 → つとめの効能 → つとめの理解 → 喜び。
これは、みきの天罰、あったらどうするか。天理教会は信者ゼロになる。
だが、一人お詫びする、坂井明久がいる。天理教は独り立ちする。
信仰を捨てよ、甘露の門は開く。釈迦である。
第十二号一一一 いまゝでハとのよなうそもきいていた もふこれからハうそハきかんで
第十二号一一二 これからハうそをゆうたらそのものが うそになるのもこれがしよちか
第十二号一一三 月日にハうそとついしよこれきらい このさきなるわ月日しりぞく
つをとめる。つ とめです。
一つ、二つと 「つ」で止める。
一段二段三段ひとつと、お言葉にあります、これを一つづつ登るのが順序の道です。
ただつらつらと教理を語るのでは、人を惑わすだけです。
一言だけ諭す。そしておたすけを見る。十代なかばの私は、一言しか諭さないを実行しました。
そういう、天理教しか、段は登れません。
みきの数理は、しんばしらの数理は、きちんと、今年10月10日の米国大ハリケーンに実現を見せている。
災害は、みきの返しである。
天理教だと騙るより、貧のどん底50年、せめても三年千日、どうだろう。
通れなければ、何かいても嘘である。
期待しましょう。この世界の荒木棟梁として、不老不死を念じる「寿限無さん」に。
、みき は、1870年 よろづよ八首の親筆の和歌で世界救済の月日の理意の予言を告げている。
みき の告げた理意は、世界救済の月日(年月)の到来の数理と闘い開始の神意である。
よろづよのせかい一れつみはらせど むねのわかりたものはない
そのはずやといてきかしたことハない しらぬがむりでハないわいな
このたびはかみがおもてへあらわれて なにかいさいをときゝかす
このところやまとのぢばのかみがたと いうていれどももとしらぬ
このもとをくはしくきいた事ならバ いかなものでもこいしなる
きゝたくバたづねくるならいうてきかす よろづいさいのもとなる
かみがでゝなにかいさいをとくならバ せかい一れついさむなり
一れつにはやくたすけをいそぐから せかいのこゝろもいさめかけ
戦い開始は宗教国家間の戦争の開始であると同時に元の神と偽の神、実の神と嘘の神の比較宗教において優劣を競う戦いであり、それは真実の神は誰かと言う闘いであるが、みきは、満月の数理150日において、世界の心に軍国主義発動となるを和歌で予言した。
今日の国際社会、ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスの戦いが実例である。その前に、
数理正月三十日 (130年後)の2000年,太陽活動を衰退させるとの実力行使をしてみせた。
何一つ、隙も無駄もない、みきである。
天理教は、理で攻めている。嘘の天理教を語る者は、「省く」と告げている。