この世は『心通りの理』が支配しています。
この仕組みが何の為にあるかと言えば、もちろん人間が喜ぶためにあります。
心を使えば形が動くから『心が成就する喜び』を味わえるのです。
ほんどの人が無意識に心を使いますよね。
心を使えば形が動く・・・と当たり前に信じているから『心が成就する喜び』を味わう機会が少ないだけで、思ったことが思った通りに動くことは素直に嬉しく、思いが強ければ強いほど喜びはひとしおです。
心を込めてお客様に接したら大口の契約をGetした!
この喜びはなんでしょう?
大口の契約を取れたことでしょうか?そのお陰で給料がアップすることでしょうか?
それもありますが、もっともっと根本的な喜びは『心の成就』にあるのです。
心の成就=心が叶うこと。つまり心通りに物事が運ぶことです。
くだらないことでも『心の成就』が叶うと大喜びしてしまいます。
やったー!!1分間息を止められた!
どうでもいいですよね?
でも本人からすれば『心の成就』した味わいです。
息を止める新記録の達成感は『心の成就』に起因しているのです。
それほど物事が心通りに成るということは大きな喜びであると同時に、神に授けられた根源的喜びなのです。
つまり人間は『心の成就』を味わうために生きている・・・と言って過言ではありません。
『守護通りの心』は負の循環をつくりだす
しかし大抵の人は『心通りの理』に支配されている現実を知りません。
図B1を参照してください。
これは過去に蒔いた心の種が『心通りの理』により心通りの守護をいただき、『心通りの実』がなった瞬間を一枚の図に表わしました。
どうやら突然怒鳴られて困惑している様子です。心当たりも無い様子。
もしかしたら気が付かない内に相手に迷惑を掛けたのかも知れません・・・でも、そんなに怒鳴ることないですよね?
図B2を参照してください。
あっ、怒鳴られてカッなり怒鳴り返しました!あらあら大変です。喧嘩になって怪我しなければよいですが・・・。
このように大抵の人は図B2のような反応になるのではないでしょうか?
まあ、怒鳴り返さないにしても、腹が立ったり、嫌な感情は拭えません。
自分が見た、聞いた、触れた形、物事に対して、見たまま、聞いたまま、触れたままの心を使ってしまう・・・これが『守護通りの心』です。
怒鳴られたのは『心通りの守護』の結果ですが、図B2の場合は『守護通りの心』をつくってしまったのです。
これを『負の循環』と言います。
『負の循環』とは、本来、喜びの循環が目的で定められた心通りの守護が『喜べない循環』をつくりだすこと。
図B1の時、『なんで私が怒鳴られなければならないのだ!心通りの守護?そんな心運んだ憶えは無い!』・・・と言いたいことでしょう。
でも何故、人間の喜びを願う神が、わざわざ喜べない守護を返すのでしょうか?
ここでもう一度図B2を参照してください。
相手の『怒り』に対して『怒り』返しています。
もし『そんな心運んだ憶えは無い』なら、『怒り』の感情が出るはずがありません。
これは、過去から現在に至るまで『怒り』の感情を抱え込んでいた証拠です。
今、こうしていとも簡単に『怒り』の感情が湧き出る現状を鑑みれば、過去にも無意識か意識的に『怒り』の感情を使っていても不思議ではありません。
図B1を見れば、なんて理不尽で酷い相手なんだ!と思うかもしれませんが、大きな枠で捉えたら同じ穴のムジナなのです。
『怒り』の感情を抱えたままでは神の望む『喜び尽くめの人生』は実現できません。
だから形を鏡として自分自身の心を映し出させるのです。
喜びの循環こそ『正の循環』
図C1を参照してください。
今回、怒鳴られている綠の人は『心通りの理』に従い『魂の視点』で世界を見ています。
『魂の視点』に立てば、魂一つの自分以外は全て『借りものの理』つまり神の世界なのです。
怒鳴っている相手は『借りものの理』に映し出された過去を映す鏡なのです。
そこでみどりの人は考えました。
図C2を参照してください。
『こんな怒りに満ちた心が自分にあるなら、早いところ取り除かなければ大変な事になる!同じ様に誰かに怒鳴り傷付けてしまうかもしれない(>_<)』。
そして心の底から相手に謝り、自分自身が抱え込んでいた『怒り』を見せてくれた神への感謝を捧げました。
図C2は、一つ喜べない原因を抹消できたことで『喜びの種』が蒔かれ『喜びの循環』つくりだし、『心通りの理』を『正の循環』へと改善したのです。
これで二度と怒鳴られることはないでしょう。
『心通りの守護』と『守護通りの心』、アナタならどちらを選択しますか?
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