魂人間。
およそ25年前、この耳慣れない言葉を聞きました。
魂人間を提唱したのは、我が魂の師『空』。
『空』さんは熱心な天理教の布教師でしたが、ある日、一人娘に天啓が降り、その数年後には空さん自身にも天啓が掛り、2009年に死去されるまでの間、沢山の神の真意を降された不思議な方です。
天理教を知らない方のために補足すると、天理教内では開祖中山みき(1887年没)、その一番弟子の本席・飯降伊蔵(1907年没)以降の天啓は一切認めていません。
もし教内で天啓などの動きがあれば異端として排除されます。
勿論、空さんも例外ではありません。
天啓の噂が本部の耳に入り、教務課の方が空さんの布教所へ視察に訪れました。
その方は、空さんと数時間会談し『おつとめ(天理教における最も重要な祭儀)』を見た後に本部へ帰りましたが、特にお咎めやペナルティなどは無く、天啓者として認められる事も無く、様子見状態のまま時は過ぎました。
末端の小さな布教所なので体制に影響はないと判断したか?
理が通った空さんの話と『おつとめ』へ向かう真摯な態度に少なからず肝銘を受けたか?
実際は解りませんが、その後も空さんは神の真意を降し続けたのです。
そもそも何故、空さんと一人娘に天啓が掛ったのでしょうか?
空さんは、名も無く貧しい天理教教会の次男として生を受け、成人後は貿易関係の事業で成功し順風満帆な生活を送っていましたが、ある日突然会社が倒産し多額の借金を抱えることになりました。
途方に暮れた空さんは天理教の修養科(3ヶ月間の修養生活で神様の教えを学ぶ場所)に志願し、そこで教祖(開祖中山みき)の教えに衝撃を受け、修養科卒業後も再就職せず単独布教の道を歩まれたのですが、空さんは一つの疑問に突き当たります。
天理教信徒なら誰でも抱く疑問。
本席(飯降伊蔵)以降、なぜ天啓が無いのか?
教祖(中山みき)は確かに言われた。
きゝたくばたづねくるならいうてきかす よろづいさいのもとなるを
これが天理教が抱えるジレンマ。
人間が判断に迷うとき、神に真意を尋ねたら何時でも即答えを頂ける仕組み。
教組・本席存命期間は、確かにこの仕組みが確立されていたが、今は『みかぐらうた』『おふでさき』『おさしづ』の三原典しか残されていない。
教組が御用した『みかぐらうた』『おふでさき』は平仮表記で一見誰にでも解りやすいが、古い言葉で書かれているので、現代人が一読で意味を理解するのは非常に困難。
その上、お歌形式で抽象的かつ象徴的に書かれているので、人によって様々な解釈を許してしまうアバウトな側面を抱えています。
本席が御用した『おさしづ』に至っては、本席の言葉を筆で速記しているので、言葉の正確な意味、文章の区切り方が難しく、その上、当時の背景も絡んでくるので、素人が手を出したら即死するほど難解な教義です。否、玄人でも正確な意味は理解できないと思います。
その昔、妻の付き合いで、ある天理教の大教会に挨拶に伺った際に、教会長奥様から『おさしづを読みなさい』と言われ驚いたことがありました。
(こんな難解な教義を薦めるからには、奥様自身『おさしづ』の真意を悟れているのか?)
しかし奥様が仰有るには
『うちの教内にはおさしづを3回読まれた方がいます。』
(ほうほう)
『その方が言うには、おさしづを読むと神様がなんとなく解るそうです。』
(えっ?)
(奥様は読まれていないの?しかも、なんとなく??)
色々混乱して『ハイ、分かりました』と言うのが精一杯でしたが・・・。
まあ、大教会とは言え、ほんの一例で全体を評価するつもりはありません。
天理教の中には真剣に教義に取組み、研究している方々も沢山いると思います。
しかし、この教義に対する混乱を生み出しているのは、紛れもなく天啓者不在の状況。
天啓者が存在し、教義の意味を説き聞かす仕組みがあれば、教義の混乱は起きようが無いのです。
それでは空さんが本席以降の天啓者不在の穴を埋める後継者なのでしょう?
空さん自身、布教中に同様の疑問に駆られ、天啓(本部は認めていない)があった場所に赴き、実際に自身の目で真偽を確かめたそうです。
殆どは教組の教えとは似て非なるものと感じたそうですが、その中でただ一つ『ここだ!』と直感した場所がありました。
そこは1918年に天啓騒ぎを起こして追放された『茨木基敬』の流れを汲む場所。
『茨木基敬』の天啓は代々弟子に引き継がれ、最後の天啓者に空さんは相まみえたのでした。
空さんは茨木一派の系譜の末席で教えを仰いでいる内に、一人娘に天啓が掛り、やがて空さん自身にも『神のことば』が降りるようになる・・・。
本席が死去した付近から『茨木基敬』の天啓が起きていたので、この経緯で考えると正当な後継者に見えなくもありません。
本部は認めていませんが、本部員もただの人間です。
真偽は誰にも判断できません。
そう、私自身にも正直なところ真偽を判断することは出来ません。
天啓を信じることも出来るが、もし天啓が虚言だとしたら、嘘を盲目的に信じて生きることになる。
又、天啓を疑うことも出来るが、もし天啓が真実だとしたら、真実を知らないまま嘘で固められた人生を生きることになる。
天啓者、否、これは信仰全般に言えることですが、信じる信じないは結局自己満足でしかありません。
本人が信じて、それで幸せなら真偽なんて必要ないのです。
似非宗教に欺されて財産を巻き上げられても、信じている本人が幸せなら真偽など意味を成さないのです。
私にとって天啓の真偽は大した問題ではありませんでした。
問題なのは天啓の内容です。
天啓で神は何を語るのか?
神は何を教えたいのか?
その教えは人間にとって有益なものなのか?
その教えは万人を幸せに出来るのか?
それは自身で試し確認できるのか?(ここが重要)
私が天啓を拝読した答えは、正に神と呼ぶに相応しい内容でした。
もちろん一読で理解した訳では有りません。
読んで意味を理解しても、その意味を実際の生活に落とし込み、教え通りに生きることが叶わねば、教えを聞いた価値がありません。
『人間思想』の中で育ち培われた心根を、『神の思想』に変える行為は一朝一夕には難しく、魂人間の基本中の基本である『どんな中でも喜んで暮らす』ことが途方も無い偉業に感じられました。
それでも長い年月の間、空さんの弛まない教えのお陰で、少しずつ、魂で心をコントロールする方法を会得し、『理』が実働する様子を垣間見、『どんな中でも喜んで暮らす』偉業が現実味を帯びてきたのです。
1996年2月26日から始まった空さんの天啓。
その内容、それは魂人間を誕生させるための手引書でした。
魂人間のルーツを辿ると俄然、宗教色を帯びてきますが、これは一宗教に限定された出来事では無いと確信しています。
神は宗教を作るために天啓を降した訳では無く、全人類普遍の智として天啓を明かされました。
神が天啓で明かした『神の思想』。
その思想を我が心として生きるなら、世界中の誰だろうと等しく『病まず・弱らず・年を取らず115歳定命』が実現し、絶対不変の幸せを掴むことが出来るのです。
魂人間を提唱したのは空さんですが、魂人間とは人間創造を始めた神の最終目的であり、魂人間が誕生した瞬間から万人が幸せに暮らす魂文明が開化する・・・それが神の筋書き。
これは宗教ではありません。
人間本来の生き方。
魂人間のルーツを辿れば人間創造の神、その『神の思想』に辿り着くのでした。
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