天理の黄昏:おやさまは存命で働いているの?

天理の黄昏天理の黄昏

新シリーズ『天理の黄昏』。
第1回目は「おやさまは存命で働いているの?」を投稿します。

『天理の黄昏』?
『天理』とは天の理、つまり天の法則。
この世人間世界を遍く支配する法則です。

でも『黄昏』?

【黄昏】たそがれ
薄暗くなった夕方。夕ぐれ。比喩的に、盛りを過ぎ、勢いが衰えるころの意にも使う。

天の法則が黄昏れるって…意味不明ですよね?

先ず『天理』から考えてみましょう。

 

天理とは?

天理とは先ほども説明したように、天の法則。

そんな法則が存在するの?
疑問に思う方も多いと思います。
でも法則と意識していないだけで、人間は様々な法則の下で存立しているのです。

天の法則を解りやすい例えで説明しましょう。

人体、アナタの体を考えてみてください。
人体は、水、食料、空気、太陽など様々な外的要素によって保たれており、人間は地球という枠組み、もっと言えば宇宙という広大な枠組みの中で存立を許された存在。
誰一人、この枠組み、この支配から逃れて存立することが出来ません。

上記例を『天の法則』と説明されたら、まあ納得出来るのではないでしょうか?
目に見えた事実なら反論する余地はありません。

しかし世の中には『人間が遍く幸せに暮らす法則』を説いた人物が存在しました。
天理の名を冠した宗教団体の開祖「中山みき」(1798.6.2~1887.1.26)。その人です。

 

中山みきが説く天の理

中山みき、教内では「おやさま」と呼ばれています。
寧ろ「おやさま」を中山みきと呼ぶ信者は一人もいないと思います。

「おやさま」は【神の社】として神様が入り込む【人間社】(にんげんやしろ)。
本来、【社】(やしろ)とは神様が祭ってある建物、所謂神社ですね。
「おやさま」の場合、建物ではなく中山みきの体を【社】として、神が在住し、神の思惑を明かし、人間を救けるのです。

信仰の無い方が聞いたら一笑に付す戯言かも知れません。

しかし、見えない目を開かせ、医者も匙を投げる重篤患者の命を救い、様々な不思議奇跡を為したのは歴史的事実です。

ただ神様の目的は不思議奇跡ではなく「天の理を開示」すること。

一ッ ひとのこゝろといふものハ うたがひぶかいものなるぞ
二ッ ふしぎなたすけをするからに いかなることもみさだめる

これは「おやさま」が残された三原典の一つ「みかぐらうた」の言葉です。

“人の心と言うものは疑い深いものなるぞ
不思議な助けをするからに如何なることも見定める”

神様にとって不思議奇跡は飽くまで『天の理』を説き聞かす入り口に過ぎません。

でも人間が神様を求める理由は何でしょうか?
神様に全く興味がない、信仰なんてクソ食らえ…と対岸にいた者が意を決して、信仰の川を渡る理由。
それは疑い無く「不思議奇跡」を求めてのこと。

医者にも見放された病気を助けて欲しい…
人間の知恵では解決出来ない問題を治めて欲しい…
是が非でも不思議奇跡が欲しい…

実際、おやさまは沢山の不思議奇跡で悩める人々を救いました。

でも人々は目下の難儀不自由を解決するために不思議奇跡を求めているのです。
不思議奇跡は医者薬の代替。
弁護士、警察、銀行等の代替として不思議奇跡を求めている訳です。

勿論、それは不純でも何でも無く、純粋な動機です。
その姿勢を批判している訳ではありません。
事実、「おやさま」に救けられた殆どの信仰者は『不思議奇跡』を起点として、信仰の道に入った訳ですから…。

あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと

上記は「みかぐらうた」の第一節。

”悪しきを払って助けてください 神様”

『悪しき』。
病気、貧困、災害、紛争…この世は悪しき事象が蔓延しています。

病気には医者薬、貧困には経済的支援、災害には災害対策、紛争には平和会議など、様々な問題に人間は対処している様に思えます。
しかし、この言葉の真意は…

“悪しきを払えるのは神様以外には存在しない”

なのです。
人間の力でまだ何とか出来ると考えている方は、決して神様を求めません。

“いや、もう神様以外に助かる道はない
神様、どうか悪しきを払って助けてください”

これは「藁にも縋る心境』。
この時点で人間が求めているのは飽くまで不思議奇跡。

そんな人間に神様は以下のように説きます。

ちよとはなし かみのいふこときいてくれ
あしきのことはいはんでな
このよのぢいとてんとをかたどりて
ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし

「みかぐらうた」の第二節。

“ちょっと話 神の言うこと聞いてくれ
悪しきの事は言わんでな
この世の地と天とを象りて
夫婦を拵えきたるでな
これはこの世の始めだし”

病気や様々な問題、所謂カタチの解決を願っている人間に対して「神様の話を聞いてくれ」と説く神。神に助けを求めるなら、神の話を聞いてくれなければ、助けるに助けられない。
逆に考えれば、神様の話さえ聞けば、人間は全ての悪しきから救われると言うこと。

しかも神の話に”悪しき”は無い。
神様の話によれば、”悪しき”とは神を知らない人間心の産物なのです。

七ッ なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるほどに

“難儀するのも心から 我が身恨みであるほどに”

悪しき(難儀)とは、人間の“悪しき心”がカタチとして現れたもの。
神様の話には一切悪しきはない。
要するに、神様の話を聞き分ければ、人間の心から”悪しき心根”は消えると同時に、世界から悪しきカタチが無くなり、神が思惑する”陽気ぐらし”を実現できる法則。

悪しきカタチの原因である、悪しき心を排除すれば、この世から病気など様々な難儀不自由も消える…というシンプルな法則

そう、神様は第二節で”天の法則”、つまり『天理』を明かされたのです。

この世の”天と地”、つまり神を象りて創造された人間。
人間は神の分け御霊。
神様と同じ魂から生まれ、体など全てのカタチを借りて、人間として生を受けた神の子。

神様が人間創造を思い立った理由。

人間の喜びを見て共に楽しみたい

この言葉こそ、全知全能の存在が見出した喜びの究極。
神の魂から生まれ、神と同じ性質を持つ人間ならば、神と同じ思いを共有して”永遠の陽気ぐらし”を実現する可能性を秘めている…

早足ではありますが、これが大まかな天理です。

本来ならこのまま、第三節、第四節…と『天理』を解説したい所ですが、今回の主題『おやさまは存命で働いているの?』から逸れてしまうので、続きは又の機会に譲ります。

さあ、ここからが本題。
本当に「おやさまは存命で働いているの?」

 

存命の働きとは?

“おやさまはご存命でお働きくだされている”

こんなセリフを、おやさまを信奉する方の口から頻繁に耳にします。

そもそも“存命の働き”とは一体なんでしょう?

おやさまが明治二十年(1887)正月二十六日に現身をお隠し(死去)された時、全ての信仰者が愕然としました。
信仰の芯を失った哀しみは当然として、おやさまは常々”115歳まで生きる”と断言され、信者は皆、おやさまの言葉を信じて付いてきた訳です。
それ故に、おやさまが90歳で出直しされる理由が皆目見当が付きません。
このまま全員路頭に迷うしかないのか?…。

だが、おやさまは弟子の飯降伊蔵に『扇のさづけ・言上のゆるし』を渡していました。
これは『扇を持って神意を伺う』不思議なさづけあり、おやさまから最も信頼の厚かった飯降伊蔵に神意を伺うのは自然の成り行きでした。

そして、飯降伊蔵の口を通して”おやさま”が現身をお隠された神意を語り始めたのです。

飯降伊蔵の口を通しているが、これは紛れもない”おやさまの言葉”

そう、これこそが『おやさま存命の印し』

飯降伊蔵の体に入り込み、おやさまがご存命の如くに神意を語る。

これこそが『存命の働き』に他ならない。

それなら何故、信者達は口を揃えて
“おやさまはご存命でお働きくだされている”
と語るのでしょうか?

地場(この世の元始まりの地点、教団の聖地)が安寧に保たれているからでしょうか?

しかし、それは飽くまで神様のお働きです。
神様は、地場だけではなく、世界に遍く守護を拵え、世界一列のためにお働きくだされているのです。
それとも信仰者にしか見えない『存命の働き』が存在するのでしょうか?
もし存命で働いているなら、何故、一言も言葉を語らないのでしょうか?

きゝたくばたづねくるならいうてきかす よろづいさいのもとなるを

みかぐら歌の第四節、よろづよ八首で神様は断言されています。

“聞きたくば訪ねくるなら言うて聞かす 人間が知りたい全ての真実を”

何故、現在の教団には『訪ねたら神様が答えてくれる』仕組みが存在しないのでしょうか?
本席(飯降伊蔵)以降、おやさまが他の者を使い「言葉を降された」公式な記録は存在しません。

自然災害、戦争危機、疫病の猛威、難病奇病…
こんなに悪しき事情が多い現在の私達に、何故”おやさま”は語りかけてくれないのでしょうか?

もう神意は全て語り尽くしたから、後は人間が勝手に悟れ…と言うことなのでしょうか?

“おやさま”の言葉は『みかぐううた・おふでさき・おさしづ』の三原典しか残されていません。

しかし、おやさまが残した『みかぐらうた』『おふでさき』は平仮表記で一見誰にでも解りやすいが、古い言葉で書かれているので、現代人が一読で意味を理解するのは非常に困難。
その上、お歌形式で抽象的かつ象徴的に書かれているので、人によって様々な解釈を許してしまうアバウトな側面を抱えています。
本席を通して残された『おさしづ』に至っては、本席の言葉を筆で速記しているので、言葉の正確な意味、文章の区切り方が難しく、その上、当時の背景も絡んでくるので、素人が手を出したら即死するほど難解な教義です。否、玄人でも正確な意味は理解できないと思います。

この様に説明すると、「いや、教内には意味を理解している人、研究者も大勢いる!」と反論されるかも知れません。

ならば、何故、教勢は衰退する一方なのでしょうか?
何故、依然として世界に悪しきは蔓延し、陽気ぐらしは実現しないのでしょうか?

私は以前、”神意損失”を実感する体験をしました。

その昔、ある大教会に結婚の挨拶に伺った時のこと。大教会長奥様から『”おさしづ”を読みなさい』と言われました。奥様が言うには『知り合いで”おさしづ”を三回読まれた方がいます。その方が言うには”おさしづ”を読むと、なんとなく神様の心が解る…らしい』とのこと。

私はその時『一体何の冗談を聞かされているのだ?』と真剣に思いました。

大教会の奥様とあろう者が、自分は教典を読まず他人に勧める?
しかも”おさしづ”を三回読んでも(なんとなく)しか神様の心が解らない?

それを可笑しいとも思わず他人に諭せる混迷とした状況。
これこそ完全に神意を見失っている確たる証拠ではないのか?

そもそも『おやさま存命』なら、こんな混迷は起こり得ないのです。

今直ぐに神意を伺い知る仕組みが確立されていれば、間違い、悟り違いは直ちに改められ、悪しきは払われ、教勢は伸びる一方のはず。

 

結論

“おやさま存命で働いているの?”

答えは“NO!”です。

少なくとも地場では『存命で働いていない』。
これがわたくし寿限無の見解です。

飽くまで寿限無個人の見解です。
私の活動範囲は狭く、教内を隅々まで見て回った訳ではありません。

偏見や思い違いも多々ありかもしれません。
もしご意見があれば、返信して教えていただくと助かります。

でも、もし私の見解通り本当に『おやさまは存命で働いていない』のなら、この先、私達信仰者は何を頼りに道を進めば正解なのでしょうか?

いや、正解も何も、私達は神様に見捨てられたのでしょうか?
いや、いや、神様の目的は人間の陽気ぐらしの筈では?
このまま人間を捨て置くなど創造者として無責任極まりない。
目の前に神様がいたら断固として抗議します。

それとも今後、本席以来途切れている“おやさまの言葉”を頂ける日が来るのでしょうか?
その時、私達は、その言葉が“おやさまの言葉”と認識することが出来るのでしょうか?
それとも『おやさまの天啓を語る不届き者』として“異端者”扱いするのでしょうか?

『天理の黄昏』

それは“存命のおやさま”を失い、夕日の如く沈んで行く教団の姿。

だけど私は全く悲観してはいません。

SNSの世界では、これまでバラバラだった信仰者達の意識が共有されはじめています。
これまで盲信的だった信仰から脱し、教団の方向性に疑問を呈する方々。
おやさまの言葉を求めて自己研鑽に取組む方々。

SNSという「世界の意識を一つに纏める神のツール」によって、信仰者の意識もやがて一つの集合体となり、新時代の信仰が幕を開けることでしょう!

“夕日は沈んでも、必ず日は昇る”

何時か必ず『存命の働き』に触れる時が訪れると固く信じています。

おわり

コメント

  1. 坂井明久 より:

    おやさまの教えに、事実と時代と理の解釈に誤解があるようです。
    存命のおやさまは、沈みもしないし、夕景でもない。
    みきさまは、日々お働きになられています。実社会という現場で、細密な天理においてです。

    病助けは、人間が求めているのは、筆者の言葉では、以下とされます。
     医者にも見放された病気を助けて欲しい…
     人間の知恵では解決出来ない問題を治めて欲しい…
     是が非でも不思議奇跡が欲しい…
     実際、おやさまは沢山の不思議奇跡で悩める人々を救いました。
     でも人々は目下の難儀不自由を解決するために不思議奇跡を求めているのです。
     不思議奇跡は医者薬の代替。
     弁護士、警察、銀行等の代替として不思議奇跡を求めている訳です。

     これは間違いです。
     医者の手余りを助けるのが道の大です。医者の手で解決できるようなお助けは、医者薬の代替ですが、そんな程度では、おやさまのおさづけの理ではない。
     ましてや、人間技の、弁護士、警察、銀行等の代替として、おさづけがあるのではない。不思議奇跡を求めているのではないという事です。お判りのはずです。

     このエピソードも批判しておきます。間違いが前提にあります。
     大教会長奥様から『”おさしづ”を読みなさい』と言われました。
     奥様が言うには『知り合いで”おさしづ”を三回読まれた方がいます。その方が言うには”おさしづ”を読むと、なんとなく神様の心が解る…らしい』とのこと。
     私はその時『一体何の冗談を聞かされているのだ?』と真剣に思いました。
     大教会の奥様とあろう者が、自分は教典を読まず他人に勧める?
     しかも”おさしづ”を三回読んでも(なんとなく)しか神様の心が解らない?

     おさしづとは天理教会本部発行の公刊本(おさしづ縮刷版)では、全七巻6331頁です。これを、文字を飛ばさず、落とさず三回読むという事の大変さ、したことないのでしょう。

     初代しんばしらの実兄である梶本松次郎は、明治24年5月29日に身上からおさづけの理をいただいていて、明治24年11月3日出直し。35歳。死亡の原因であるが、コレラであると基本的に理解している。この関係のお指図だが、「東京名が先」という日の到来が告げられた三日後に大工の伊蔵を本席にというおさしづがあって、その日に「いよいよ俺はこんな事してどうもならん、と、思うな」と叱られた松次郎がいた。
     その関係のおさしづだけでも、
     
    3月25日(陰暦3月1日)
     午前12時、梶本松治郎、父上障りにつき願い。
     身の内の処へ知らせ掛けたるは、年の病でこうなるか、冷え込みでこうなるか。心の立てを替えてくれるがよい。年の迫りてか、時節の迫りてか、追々どうもならん。何と結構やな、よう根気も尽してくれた。これよう楽しみ、いよいよ俺はこんな事してどうもならん、と、思うな。よう聞き分け。いついつまで結構、何と偉い人と、善い人やな、と、言われ、楽しみ。心尽すよう。ようしっかりと聞き分け。幾重の尋ねもしてくれ。
     3月25日(陰暦3月1日)
     梶本松治郎、子息国治郎身上障りにつき御願い。
     さあ治まり、芯なる聞き分け。さあさぁ一度二度順序いかなる処、順序今一時なる処、小人/\さあ一寸大層順序分からんであろ。何にも難しい/\一条も、思えば速やか理、よう思案してみよ。何処に隔てない助け一条の理、一つ危うき処何かの処、よくよく聞き分けねばならん。何かの事、一時分かる。何かの何箇年、一つ理分かる/\。成る成らんではない。よう聞き分け。一時運ぶ処一時安心治まる。治まらん順序、道暮らす聞き分け。一つ安心事情を運ぶ。
     押して、順序運びにつき願い。
     道を以て理を諭す。身の処早速速やか、一寸順序見分け聞き分け。幾重習い見にゃならん。これまで順序伝えない。段々その理、それ日々の理、一寸心得の理これまで理、縁なきところ縁なき一つ定め、一つ治め。世界のところ、理を聞き分け。何かの処借りもの自由自在、名々一つ心、順に道悟り、よう聞き分けならん。神は隔てはないで。しかと聞き分け。
     押して願い。
     さあ聞き分け。神というは隔てない。内々とも人間身の内貸しもの順序よう聞き分け。世界のところ幾何人、順序の理を見て聞き分け。鏡屋敷、鏡ならどういう事もこういう事も皆な映る。善き事悪しき事映るであろ。これは前生/\身に現われる。鏡いかなる心定め、タンノウ/\心定めるなら、やれやれ。タンノウなくては受け取るところ一つないで。
     たんのうできない梶本さんに「やれやれ」とみきはあきれ果てているとわかる。
     関連してのおさしづは、
     明治20年3月
     梶本松治郎、父上の身上願い。
     たゞ口を借り言うではないで。今の処では何処にもないで。ようこそ怪しき処で遁れ、大望の道であった。これからどんどん話し通して掛かれ。どうしよ、こうしよ、どうでも貸しもの。天然自然名々に誠さい定め、実さい定め。身の処心なくてならんなれども、名々兄弟。これはこうじゃ、神の指図、神を恨む事は少しもない。そこで難しい事は言わん、難しい事せいとは言やせんで。分からんところ分かるで、国々一人でもあったら分かるで。遠いから見てもほゞ分かる。まあその心組みで定めてくれ。又内々なるところ、親一つ何ぼでもどんと定め。道は道、違いないで。三才児、生れ三才の心に成って明日は楽しみ。一つ定め何にもない、三才児穏やかに暮らす。何よりそこで結構/\。こうして行かねばならん。まあまぁ三才児三才心に成りて、三才の心に成って何も要らん、機嫌好う遊んで結構/\。心配ないよう改め替え。
    3月
     梶本松治郎、父上の身上願い。
     さあさぁよう聞き分けねば、身の内の処、何でも彼でも、身の処何でもない。それそれ処、身障りどういう事に思う。大層天然(自然で)なる事なら、どうにも(思うことはない)。こういう事も、誠一つ積みおくなら(鮮やかと云う)。それを知らずして、こうしたら早かろか(と人間心で)、段々道を埋(うず)んで了い(分からんようになる)。風呂敷に(教祖ひながたの)理(の)五十年を(包んで)、この所(ぢば)にある。(この理が)分かるまい。皆々(この理を)それぞれに伝え(てくれ)。(神の)話し通り違わんで。話し通り(に)、世上から(見ても)実の道、誠(の道)になる。こうするは不都合なれども、名々思案して、こうせにゃならんとは言わん。名々家内、神の貸しもの、実が承知なくばならん。三十年十五年、話し通り気使いない。神の言う事目に見えん。神の言う事悪い事は言わん。名々心定まらんから分からんのや。神と言うて尋ねる。尋ねるという事は前々話してあるで。

     こういう話題を、全巻通して読むのである。
     通常は、本部員は音読である。声に出して読む。
     全巻を3回読んだら、うっすらとでも感じ取れたのは、きちんと読んだ証拠であるが、おさしづの正しい読み方ではない。
     けれど、梶本松次郎さん、唐人コロリで、コロナで死んだとぐらいは分かってほしい。

     存命のみきは、世界を支配する。
     それは日々まんべんなくであり、差別なくである。

     あなたのお助けで病の治った方がいて、理が見えなくなっておられるのでしょう。
     115才がみきの寿命だと、お筆先には書かれていません。

    確認します。115才は序命なのです。
    第三号一〇〇
    このたすけ百十五才ぢよみよと
    さだめつけたい神の一ぢよ(3-100)

    それなのにじょうみょうと、読んでしまった。
    だから注釈、解釈は出たらめ。

    ・読み方(ひらがな)
    このたすけ百十五才じょうみょうと
    さだめつけたいかみのいちじょう
    ・読み方(ローマ字)
    Kono tasuke hyaku ju go sai jomyo to
    Sadame tsuketai Kami no ichijo
    ・注釈
    親神の心としては、人間に定命を百十五歳と定めたいのである。
    (註)かんろだいが出来、天から降らして下さるかんろを頂いたならば、定命まで置いて下され、更に、それ以上心次第でいつまでもこの世に置いてもらえるのである。
     
    よくわかりますよね。

    • jyugemjyugem より:

      坂井明久様、沢山のコメントくださりありがとうございます。
      最近、このサイトを開いていなかったので返信が遅れました。
      最初は怒涛のコメントに驚きましたが、よくよく読ませていただくと真剣で熱心で温かい方だと感じました。
      私も坂井様のコメントを良く読ませていただき、自分の悟り違いや思い込み等を正していけたらと思います。

      一つ質問させてください。坂井様は現在に天啓は必要と考えておられますか?

  2. 坂井明久 より:

    私も寿限無さんとおんなじで、子供の頃に病たすけた体験があり、私の子どもの頃には、何人ものお助け職人さんが天理教会つくっていて、目をかけて下さって、ご教授頂いた。
    本部で、おさずけを頂いて、非公式ではなく公式のお助け人になった。
    ただし私のおたすけはひな型に基づいて、
    「話医者」もすれば「二の切り」も使えばで、手振り、の授けは、数パーセントしかない。
    一言までで皆助けるを、基本のひな型としている。

    自己紹介はそこまでで止めます。

    一昨日、腰痛の方がいますからと、申し出られて、本人から「助けて下さい」と願いあり、
    昨日、「治りました」の報告と礼があって、以後は無関係である。
    本人から「助けて下さい」は大原則で、言葉できちんと依頼あって、みきの助けをねがう。
    この30年に限定すれば100%の治癒である。
    常に日に5,6人の依頼はある。必ず助かる。

  3. 坂井明久 より:

     その女性が18才頃の時だと思う。高校生で、夏休み利用の家出する危険があって、両親が、止めようがないというので、私は高校の先生と両親を相談させて、学校側の強い態度で、本人を家出させないで、済ませた。
     この時、これは始まりであるとの理を、関係者にはお知らせしたが、7年経って、就職し遠く家を離れた彼女に、左足靭帯が伸び切るという大けがであった。医者は、伸び切っていて治療できないと告げたという。
     医者の手余り助けるが道の大であるから、ご両親の依頼には、本人が助けてを願うかを確認して、本人が「たすけてください」というので、今の職場から家に帰り養生すると決めさせて、お助けした。といっても、お助けしますと告げただけであるが、無事に回復した。足は何ともない。
     アトピーが本人にひどく、助けて下さいと言うので、おねがいし綺麗になった。
     これも一歩づつである。
     だが病気助けは、因縁事情の道にあり、病気さえ治ればよいという単純なものではない。
     天理の法則で病気を助けるなんて、ありえない。
     みきのお慈悲が、病気を助ける。もっと先の深い因縁事情を心得てである。

  4. 坂井明久 より:

     今日、お話をした女性は、長男のお嫁さんが逆子の妊娠だという。
     長男夫婦は、逆子を治してほしくで、神の手を持つと称する祈祷師を訪問したが、一緒に願い出た3人の内一人だけ、治らなかったという。
     私は、嫁さん本人の願いがなければ、無理として、次の事実を告げた。
     以前に逆子の妊婦さんにたすけをと求められたが、「この子生まれなければよかったのに」という妊婦さんの精神状態があっての逆子の場合には、本気で、生まれて欲しいと願う気でないと、逆子さえ治ればよいというわけではない。
     その妊婦さんは帝王切開せず、普通分娩したが、へその緒が胎児の首に巻き付いて、首を絞めていて、産声がでなくて、振り回して、やっと息ができたという出産だった。
     普通にお医者さんで、帝王切開して頂くが良いか、神様で切らずに出産か、神様からの知らせをまって、本人の意思を確かめて、神頼みかを決めましょうとした。
    何が胎内で起きているかは、みきさまはご存じだが、人間は、医者と言えど見えていない。

  5. 坂井明久 より:

     この女性は、眼球を強打し失明寸前で、助けてほしいと願いがあった。目の神経が完全に切れていれば、治りようがないので、私は、みきにおつなぎ下さいとお願いした。ほんの一か所が神経がつながっているという御守護を頂いた。
     医者は当初全治3か月の診断だったが、医者に任せておくと神経の糸を壊しかねないので、この女性に「神様だけで治しましょう」と提言し、女性は、分かりましたと、医者の提案する手術など全て拒否した。
     一ヶ月で、治癒した。
     そういう経験から「逆子を治して」と言い出したのだろうが、目は目、逆子は逆子、事情も病理も違う。
     逆子のさかという事は、順逆の相違があるである。
     頭が下がっていなくて、上がっているのが逆子であるから、嫁さん本人において誰に頭を下げていないかの見極めが、つまり夫を馬鹿にしているという話題からはいるわけで、前の男を夫より上だと思っているなどと、諭したら、逆子治る前に、夫婦が壊れる。

  6. 坂井明久 より:

     出産そのものの現場と、産後の妊婦の介護をしたら分かるが、加えて帝王切開には、メスを入れるのであり、切られた一の道具の激痛は、簡単に治らない。
     この痛みが、必要なほど、嫁さんには、迷いがあるという事で、
    この女性の願いは、良い嫁さんなので、痛い目見たほうが良いとおもう。

     お助けは現場ごとに教理が変わる。
     天理教なら、みき一筋ではないのか。
     寿限無さん。甘く見ないほうが良いですよ。天理を。

  7. 坂井明久 より:

    お言葉で夕景と言えば、これがお指図にある。
    明治二十二年一月十五日午後十一時十分
    本席御障りに付再度伺
    さあ/\うん/\、さあ/\/\/\前以って、さあ/\前以って、まあひょっとの心、めん/\さっぱりと思わく立たんから潰そと言うて、あちらへ廻りこちらへ談示して。さあ/\しっかり聞け。何時分からん。何時人間というものは、分からん者に分からん者が付く。世界の悪肥え、だん/\思やん付け。天理教会やってみよう。一つ道だん/\悪が添い、天理教会、めん/\も天理教会同じ一つの理を祀る。皆人間の心を寄せ、だん/\心を寄せて相談する。分かり難ない中に思やんある。何名の中多くの中、一人の身一つ計らう一つの理に、又計らえばよかろう/\/\。さあ/\よかろう/\。どうでも一つ運ぶ処、悪の司今に吹かそうか、明日に吹かそうか。日々押されたる悪、とんとさっぱりなあ外れた。又中に悪一つ立て替え。締まれ/\。何でもめん/\何でも一つ集めて来る。相談々々、悪の相談して居る処が見えてある。知らんから身に知らせある。この理、諭して置かねばならん。余程用心頼む。すっきり出せん。悪の処悪の理が寄って居る。さあと言えばさあと言う。おうと言えばおうと言う。日々悪がめん/\手柄と言うから、用心手当せねばならん。日の暮れ/\用心せねばならん。朝の処どうしても居られん。日暮日暮何処から始まるかも知れん。悪が取って了うたら、一名一人ばら/\。一名の手柄して了もたら、おうと言えばおうと言う。夕景々々どうもならんで。

     おさしづを読めば、夕景とは、「夕景々々どうもならんで。」そのものである。

     天理教会やってみよう、そういう悪意があると、明治22年に告げていて、3年後がある。「三年以前に諭したる。」のお言葉がある。紹介する。

    明治二十五年七月二十七日
    前おさしづより一同決議の上左の項を分かちて願
    第一さあ/\尋ねるであろ/\、一二三との印を打って尋ねる。第一の事情に諭してある。一寸には分かろまい。どうでもこうでも、及ぼすだけは及ばさにゃならん。三年という、千日というて定めたる。千日先というはこうなる。三年以前に諭したる。一時の道という。これは悟り違い、聞き違い、取り損い。よう聞き取れ。あった事情を諭すやない。先々の事情を諭す。道によって千筋という。これからという。一つの理というは、事情は日々諭して居る。寄り来る者には諭さにゃならん。修理という、肥えという。修理が抜けてもなろまい。肥えが抜けてもなろまい。行先にはどんな所も出来る。なれど修理せば実はのるやろ。又一時身の処不足なる。日々の取扱い、一時運び難くい処から尋ねる事情、何でもないと思えば何でもない。なれど思えば思うだけの理はある。先のはこうや、今のはこうや、と又の理を拵えてはどうもならん。どれだけの物でも、何程値打のある物でも、世上に一つの理が無ければ、何にもなりゃしょうまい。何でもない処から始まりた道を思やんせよ。分かる。夜と言えば夜、昼と言えば昼。一つの事情より一つの理が無けりゃならん。事情の理を聞き分けにゃ、何度でも同じ事。遠く所から出て来る。皆話を伝え、詰まった処は諭さにゃならん。いつ聞いても同じ話やなあと、聞き取らさにゃならん。前々さしづに、所々高い所出けるという。道に高い低いの理は無けねども、心の理により高い所出ける。思い過ぎより仇となる。日がある談じ掛け。一時一つの道という。放って置かれる理と、放って置かれん理とある。今の深きと思う心が間違う。前々より深き理がある。事情を聞き分けるなら皆分かる。これよく聞き取って、一時の理に治めにゃならん。

     明治22年、2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
     明治天皇を神とする大日本帝国憲法は7章76条からなり、 第1章 天皇 第1条 天皇主権から始まる。 第1条 大日本帝国は、永遠に一つの系統を継承していく万世一系の天皇が統治する。 第2条 天皇の御位は皇室典範の決まりに従って、皇室の血を受け継げる男子が継いで行く。第3条 天皇は神聖だから非難したりしてはならない。天皇は政治をはじめ一切の事の責任を負わないし天皇をやめさせることもできない。 第4条 天皇は日本の元首で日本を治める権利を持ち、憲法の決まりに従って日本を治める。第5条 天皇は議会の協力と賛成をもらって法律を制定する。 第6条 天皇は議会が作った法律に判子を押して、世の中に広めてその法律を守らせるよう命令する。 第7条 天皇は国会議員を集めて、議会を始めさせたり、終わらせたり、中断させたり、衆議院を解散させたりする。(以下略)
    この帝国憲法制定の議会は枢密院で、伊藤博文は枢密院の議長であった。
     事実上の帝国憲法制定は伊藤博文がなしたもので、その最重要点はみきの模倣にある。みきは、われは元の神・実の神となのり、「われは天の将軍」と名乗った。
     「天皇は神」とは、みきの弾圧関係者の伊藤博文がみきを神とすることを妨害、が、維新政府を神の政府に祭り上げようという野心にとらわれたという事である。
     中山みきは、われは元の神実の神であると告げた。みきの死亡後、明治22年天理教の夕景をみて、みきは神ではないと思い込んだでろう伊藤博文である。
     天皇を神に仕立てて、伊藤が明治25年から2度目の首相を務めていたとき、朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに、7月に清軍と衝突、朝鮮の主権をめぐって意見が対立し、8月に日清戦争が起こる。翌年の明治28年(1895年)4月に、陸奥宗光とともに全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約の下関条約(馬関条約)に調印する。また、戦争前に陸奥がイギリスと治外法権撤廃を明記した条約を結び、条約改正に大きく前進させた。神の国帝国日本をである。

     みきのおさしづを甘く見ないことである。
     天理教の夕景を美しいと語る寿限無には、散華が必要である。

  8. 坂井明久 より:

    でも人々は目下の難儀不自由を解決するために不思議奇跡を求めているのです。
    不思議奇跡は医者薬の代替。
    弁護士、警察、銀行等の代替として不思議奇跡を求めている訳です。

    勿論、それは不純でも何でも無く、純粋な動機です。

     これは親神を馬鹿にしている見解です。

     お言葉に「医者の手あまりたすけるが道の台という」とあります。神が医者より上です。

     第九号一〇 こらほどの神のざんねんでてるから いしやもくすりもこれハかなハ
     第九号一一 この事をしらしたいからたん/\と しゆりやこゑにいしやくすりを

    死亡診断書が書かれましたが、脳死で、心臓が動いています。助けてください。
    この依頼には、10年と日を切ってお願いし、10年後に痛み再発で、もう3年延ばしていただきました。

     医者など、誰も、信頼していません。
     私がおたすけした方が、去年、某分教会から修養科に行って、憩の家の健康診断で、「こんな状態で生きているなんて」と、診断されて、その人、とんでもない難病を私が助けたと、ようやく知ったそうです。
     学会に報告したいと天理総合病院は言い、その方は、承諾したそうです。
     

     第六号一〇五 いまゝでハやまいとゆへばいしやくするり みなしんバいをしたるなれども

     医者で治せる程度なら、触りもしないが、医者の手あまりなら、本当のお助けです。

     

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