天理の黄昏:おさづけって効くの?プラシーボ効果?おさづけの真実

天理の黄昏天理の黄昏

新シリーズ『天理の黄昏』。
第3回目は「おさづけって効くの?プラシーボ効果?おさづけの真実」を投稿します。

『おさづけ』って何?
初めて耳にする方をいると思いますので、先ずは『おさづけ』について簡潔に説明します。

 

『おさづけ』とは?

「あしきはらひ たすけたまへ てんりわうのみこと」と唱えながら手振りを三回し、「なむ たすけたまへ てんりわうのみこと」と唱えながら、三回、痛む所を直肌に撫でさすります。これを三回繰り返します。

病平癒を祈願し、上記作法を他者へ取次ぐと不思議なご守護がいただけます。

過去、おさづけの理が許し出されて以来、教勢は燎原に火を放つ程の勢いで伸びたそうです。
ある場所では病院から患者が消えたとか、消えないとか…いえ、消えたと聞いております。
まあ、昔の話なので事の詳細は分かりませんが、おさづけを取次ぐだけで病人が沢山助かり教勢が伸びたのは歴史的事実です。

でも最近、

おさづけが効かない!

との呟きも頻繁に聞かれます。

『おさづけ』? 不思議奇跡じゃなく『プラシーボ効果』だろ?

そんな呟きも、これまた頻繁に耳にします。

『プラシーボ効果』とは『偽薬効果』。偽の薬を本物と思い込み病気が治る現象ですね。

有効成分が含まれていない薬を投与され、機序がないにも関わらず、患者は薬が効くと思い込んでいることにより、病状に改善・回復の兆しが見られること。もっぱら思い込みの力によって実際上の効果・影響が表れること。「プラセボ」などとも言う。

『プラシーボ効果』のメカニズムを研究している博士も存在し、”期待や快楽によって、免疫力が高まる”等の研究結果が発表されています。

『おさづけ』? 不思議奇跡じゃなく『プラシーボ効果』だろ?

私はこんな呟きを聞く度に疑問が沸々と湧いてきます。

それで納得できるのか?

 

心と体の不思議なメカニズム

偽の薬を本物と思い込んだとしても、心に芽生えた安心感は本物です。
安心の心により、体に良い効果が現れたのも真実です。
これは可笑しな現象では無く、”元々備えられている人体の仕組み”と考える方が妥当です。

安心・喜びを心が感じると『体に善影響』
不安・不足を心が感じると『体に悪影響』

このような体を神様が創ったのです。

そして、神様が創った人体の仕組みに対して、人間が勝手に”プラシーボ効果”と名付けただけ。

注目すべきは”心と体の不思議な関連性”であるのに、”プラシーボ効果”とレッテルを貼ることで、『不思議な現象』を『当たり前の現象』へ貶めるに留まらず、自らの可能性を閉ざしているのです。

『病名』にも同じことが言えます。

例えば『癌』。
異常な細胞が発生する現象を『癌』と名付け、レッテルを貼ることで、『癌』と診断された患者の心は『癌の心』に固まってしまい、死の意識にから逃れることが困難になります。

安心・喜びを心が感じると『体に善影響』
不安・不足を心が感じると『体に悪影響』

ならば、『癌』とレッテルを貼ることが病平癒の大きな妨げになるのでは?
『癌』とレッテルを貼ることで、かえって病の進行を早めることに繋がるとしたら?

癌の治療方法も進化しているとはいえ、依然として死亡原因の一位に君臨しています。
癌=死の式は、一般的感覚として広く浸透しています。
しかも医者という病気に対する最高権威の貼ったレッテル。

『癌』

誰がこのレッテルを覆し、安心感と喜びを感じることが出来るでしょうか?

そこに”おさづけの難しさ”が潜んでいるのです。

安心・喜びを心が感じると『体に善影響』
不安・不足を心が感じると『体に悪影響』

“おさづけ”を取次がれる側も、取次ぐ側も、病名のレッテルを覆して安心感・喜びの心を得られるのでしょうか?

世の権威より、神の威を心の芯に置き、安心感・喜びの心で”おさづけ”を取次ぐことが可能でしょうか?

病院には患者が溢れ、『病気になれば真っ先に医者を頼る常識に染まった意識』を、『神を頼り切る意識』に立て替えることが本当に可能なのでしょうか?

もちろん難しい問題です。

それは神様も重々心得ていて、”みかぐらうた”にこんな言葉を残しています。

一ッ ひとのこゝろといふものハ うたがひぶかいものなるぞ
二ッ ふしぎなたすけをするからに いかなることもみさだめる

先ず、神を証明するために、不思議奇跡を見せる必要を説かれています。

事実、信仰の浅い人が取次いでも、不思議な救けをお見せ頂ける事が多々あります。

 

『不思議な救け』とは?

昔、信仰を嫌う伯父が脳梗塞で倒れ、半身麻痺で片足が動かなく入院していた時の事です。
母が伯父の動かない足に”おさづけ”を取次いだところ、その瞬間に微動だにしない足が動き出したのです。

その様は正に不思議奇跡。

これまで安心感・喜びの心が体に善影響を与える話をして来ましたが、そんな範疇を遙かに凌駕した『不思議奇跡』。
『科学的見解・一般常識』では思議出来ない、医者も驚くような不思議奇跡。

私自身も初めて”おさづけ”を取次いだ時には、目の覚める様な不思議を見せて頂きました。

それは私が若い頃の話。
祖父の葬式前夜、祖父の亡骸の傍で親族一同泊まっていたのですが、飼い犬が散歩中に足を怪我して血を流し、一晩中甲高い声で『ヒィーン、ヒィーン』と鳴いていました。
皆、その声で眠れず難儀していたので、従姉妹と犬の面倒を見ていた私は『そうだ、こんな時こそ”おさづけ”を取次ごう』と思い、従姉妹がトイレに入った隙に(ちょっと恥ずかしいので)、怪我をしている犬の足に取次ぎました。
すると、その瞬間。ピタリと犬の鳴き声が治まったのです。
トイレから出て来た従姉妹は『あれ?鳴き止んだじゃん』と驚いていたので、『実は”おさづけ”を取次いだのさ。”おさづけ”って効くんだね』と返したところ、『えっ?寿限無って”おさづけ”持ってないじゃん』と訝しげな従姉妹。
『えっ?”おさづけ”って誰かから貰うものなの?』驚いた私に従姉妹の追撃『しかも動物に取次ぐのは駄目なんだよ』。
私は動揺しながらも『でも効いたじゃん!』と答えましたが、内心は驚きと感動で胸一杯でした。

もちろん私のは正式な”おさづけ”ではありません。子供の頃に取次いで貰った母の見よう見まねです。
それでも、その後も現在に至るまで、正式な”おさづけ”は拝戴しないまま、我流の”おさづけ”で沢山の効能に与っております。

 

『不思議な救け』は不思議の入り口

“おさづけ”を拝戴していない者が、”おさづけ”を語るな!と言われそうですが、だからこそ別の視点から『おさづけの効能』に目を向け、研鑽を続けて来られたのかも知れません。

先ほどの”みかぐらうた”の一節。

二ッ ふしぎなたすけをするからに いかなることもみさだめる

『不思議な救け』とは、『如何なること』を見定めるための神様の手引き。

それでは『如何なること』とは何か?

それは『不思議奇跡』よりもっと大きな『不思議そのもの』。

病気が魔法の様にパッと治れば不思議に感じますが、当たり前に感じている日常の方が遙かに巨大な不思議ではないでしょうか?
自分の体と言いながら、体の中身を見たことがありますか?
細胞分裂、消化、栄養の吸収…自分が体の管理をしているのでしょうか?
寝ている間も、心臓は鼓動し、呼吸が止まることもありません。
一体、誰が自分の体を管理しているのでしょうか?
人体の仕組みを研究すればするほど神秘が鮮明になるだけで、世界中の優秀な頭脳を集めても『髪の毛一本』人間が造り出すことは不可能。
体の全てのパーツが人智を超えた神秘の結晶。

そうです。
私達人間は常に不思議に生かされ、不思議の中で生活を営んでいるのです。

不思議が神様。
神様が不思議なのです。

だがら不思議奇跡で神の方へ心を向けさせ、神の心を説き聞かし、不思議を神の守護と心得て、安心感と喜びの心で日々陽気にくらして欲しいのです。

 

神様の世界に病気は存在しない?

そもそも神様の世界に病気は存在しません。

三原典の一つ、”おふでさき”に病について言及されています。

なにゝてもやまいとゆうてさらになし
心ちがいのみちがあるから(三号 95)

人間は体の不調・異変を病気と称しますが、神様は『心得違い』と諭します。

このみちハをしいほしいとかハいと
よくとこふまんこれがほこりや(三号 96)

そして心得違いとは八つの埃(おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん)と教えられる心使い。

何故人間は『心得違い』と言われる『悪しき心使い』をするのでしょうか?

答えは簡単ですね。

神様の守護を知らないからです。

神様の守護を知れば、
自分がどれほど与えられているか解る。
自分がどれほど恵まれているか解る。
自分がどれほど守られているか解る。
自分がどれほど愛されているか解る。

神様の守護を知れば心は充分に満たされる。

心が満たされた者は、
他人を羨む必要はない。
他人に悪意を向ける必要はない。
他人を蔑む必要はない。
他人から奪う必要はない。

『心が満たされた者』は自然と『他人の喜び』に心が向くのです

だから神様の思いは一刻も早く、守護の本質を知って欲しい。
守護を実感して陽気に暮らして欲しいのです。

その為に体(身上)に障りを付けて、神の方へ心を向けさせるのです。

病気ではなく、身上の仕込み…
身上の仕込みは『守護を理解させる神の教育』

風邪も、ウィルスも、脳梗塞も、癌も…全ては『身上の仕込み』として一括りに理解し、意識を立て替える必要があるのです。

 

結論

昔に比べて”おさづけ”が聞かない。

そもそも『不思議奇跡』が神様の目的ではありません。
もし、それが目的ならバンバン不思議奇跡を現わして、病人を救ければ済む話。

神様は過去に、バンバン不思議奇跡を現わして沢山の病人を救いましたが、その結果、一時は教勢が上向きましたが、今は下り坂を転げ落ちている真っ最中。

そうなのです。
『不思議奇跡』で人間は救からないのです。

『不思議奇跡』を入り口として、その先にあるもっと大きな不思議…つまり『神様の守護』に目覚め続けることで、人間の魂は永遠の救けに与るのです。

肝心なのは目覚め続けること。

一度目覚めたら、目覚め続けてこそ、喜びも永遠に続くのです。

九ッ こゝまでしん\゛/したけれど もとのかみとハしらなんだ

どんなに信仰を続けても、本当の神様を知る驚きと喜びは益々高まるばかり。

五ッ いつまでしん/゛\したとても やうきづくめであるほどに

まるで玉葱の皮を剥くが如く喜びが現れる『陽気づくめの信仰』

神様のことばで自身の心から悪しきを払い、喜びの種を蒔き続け、理の真実を垣間見ることで熟成される『不思議の感受性』。

世の権威と言えど、全て不思議の上で成り立っているのです。
どんな名医でも、”かしもの(体)”動かなければ手術すら行えないのです。
血を止め、意識を回復させるのも不思議の領域。

『不思議の感受性』は世の権威を遙かに凌駕し、絶対的安心感・絶対的喜びの心で”おさづけ”と言う名の『理』を取次ぐことが出来るのです。

人を救ける心など簡単に育つものではありません。
ましてや世界救けの心など、途方も無い神の心。

だからこそ一度で諦めず、何回も何回も取次ぎ、その度に己の心に絶対的安心感・全体的喜びがあるか問い続けるのです。

それを取次ぐ相手に求める必要はありません。

己自身にその心あれば、神に伝わり、相手にも伝わるもの。

それが『理』。
それが『おさづけ』の心。

 

おわり

コメント

  1. 坂井明久 より:

    なにゝてもやまいとゆうてさらになし
    心ちがいのみちがあるから(三号 95)

    人間は体の不調・異変を病気と称しますが、神様は『心得違い』と諭します。

     これは、間違いです。

    人間は体の不調・異変を病気と称しますが、神様は『心ちがいの道』と諭します。

    心ちがう。簡単に言えば、人の心とちがうです。人間は動物の心も使えます。人と動物はちがう。

    一方の、心得というのは、広辞苑検索では、以下の通りです。
    こころ‐え【心得】
    ①承知しておくこと。また、わきまえておくべき事柄。たしなみ。狭衣物語4「おほかたの殿上人などの―にしつつ、あまた参らせし扇をば」。「登山の―」
    ②事情を理解して処置すること。はからい。狂言、花折「こなたのお―をもつて見せて下されい」
    ③考え方。判断。曾我物語5「あしき御―と存じ候」
    ④技術・技能などを身につけていること。「武芸の―がある」
    ⑤下級のものが仮に上級のものの職務をつかさどる時の名称。「課長―」

    心得違(読み)こころえちがい
    精選版 日本国語大辞典 「心得違」の意味・読み・例文・類語
    こころえ‐ちがい ‥ちがひ【心得違】
    〘名〙
    ① 心得を誤ること。道理にはずれた行為や考え方をすること。また、その人。心得損ない。
    ※政談(1727頃)三「本下賤なる人なれば才智有べければ不レ苦と言事も、亦心得違也」
    ※人情本・恩愛二葉草(1834)二「それは手前の得手勝手、罪を小岩へ塗(なす)らうとは、以ての外の心得違(ココロヱチガ)ひ」
    ② 思い違い。考え違い。誤解。心得損ない。
    ※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)四「すべての田舎唄は、濁音で音声がだみてゐやす。夫をうれしがってうたふは、チト心得違(ココロエチガヒ)たらう」

    病気は「心得違い」ではなく「心ちがい」。前世の前前世の心に戻っているということです。
    人間じゃない。と、端的には、そう解釈するのが正しい。
     ゆえに人間になれば、神の子人間になれば、助けかります。

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