新シリーズ『天理の黄昏』。
第1回目は「おやさまは存命で働いているの?」を投稿します。
『天理の黄昏』?
『天理』とは天の理、つまり天の法則。
この世人間世界を遍く支配する法則です。
でも『黄昏』?
【黄昏】たそがれ
薄暗くなった夕方。夕ぐれ。比喩的に、盛りを過ぎ、勢いが衰えるころの意にも使う。
天の法則が黄昏れるって…意味不明ですよね?
先ず『天理』から考えてみましょう。
天理とは?
天理とは先ほども説明したように、天の法則。
そんな法則が存在するの?
疑問に思う方も多いと思います。
でも法則と意識していないだけで、人間は様々な法則の下で存立しているのです。
天の法則を解りやすい例えで説明しましょう。
人体、アナタの体を考えてみてください。
人体は、水、食料、空気、太陽など様々な外的要素によって保たれており、人間は地球という枠組み、もっと言えば宇宙という広大な枠組みの中で存立を許された存在。
誰一人、この枠組み、この支配から逃れて存立することが出来ません。
上記例を『天の法則』と説明されたら、まあ納得出来るのではないでしょうか?
目に見えた事実なら反論する余地はありません。
しかし世の中には『人間が遍く幸せに暮らす法則』を説いた人物が存在しました。
天理の名を冠した宗教団体の開祖「中山みき」(1798.6.2~1887.1.26)。その人です。
中山みきが説く天の理
中山みき、教内では「おやさま」と呼ばれています。
寧ろ「おやさま」を中山みきと呼ぶ信者は一人もいないと思います。
「おやさま」は【神の社】として神様が入り込む【人間社】(にんげんやしろ)。
本来、【社】(やしろ)とは神様が祭ってある建物、所謂神社ですね。
「おやさま」の場合、建物ではなく中山みきの体を【社】として、神が在住し、神の思惑を明かし、人間を救けるのです。
信仰の無い方が聞いたら一笑に付す戯言かも知れません。
しかし、見えない目を開かせ、医者も匙を投げる重篤患者の命を救い、様々な不思議奇跡を為したのは歴史的事実です。
ただ神様の目的は不思議奇跡ではなく「天の理を開示」すること。
一ッ ひとのこゝろといふものハ うたがひぶかいものなるぞ
二ッ ふしぎなたすけをするからに いかなることもみさだめる
これは「おやさま」が残された三原典の一つ「みかぐらうた」の言葉です。
“人の心と言うものは疑い深いものなるぞ
不思議な助けをするからに如何なることも見定める”
神様にとって不思議奇跡は飽くまで『天の理』を説き聞かす入り口に過ぎません。
でも人間が神様を求める理由は何でしょうか?
神様に全く興味がない、信仰なんてクソ食らえ…と対岸にいた者が意を決して、信仰の川を渡る理由。
それは疑い無く「不思議奇跡」を求めてのこと。
医者にも見放された病気を助けて欲しい…
人間の知恵では解決出来ない問題を治めて欲しい…
是が非でも不思議奇跡が欲しい…
実際、おやさまは沢山の不思議奇跡で悩める人々を救いました。
でも人々は目下の難儀不自由を解決するために不思議奇跡を求めているのです。
不思議奇跡は医者薬の代替。
弁護士、警察、銀行等の代替として不思議奇跡を求めている訳です。
勿論、それは不純でも何でも無く、純粋な動機です。
その姿勢を批判している訳ではありません。
事実、「おやさま」に救けられた殆どの信仰者は『不思議奇跡』を起点として、信仰の道に入った訳ですから…。
あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと
上記は「みかぐらうた」の第一節。
”悪しきを払って助けてください 神様”
『悪しき』。
病気、貧困、災害、紛争…この世は悪しき事象が蔓延しています。
病気には医者薬、貧困には経済的支援、災害には災害対策、紛争には平和会議など、様々な問題に人間は対処している様に思えます。
しかし、この言葉の真意は…
“悪しきを払えるのは神様以外には存在しない”
なのです。
人間の力でまだ何とか出来ると考えている方は、決して神様を求めません。
“いや、もう神様以外に助かる道はない
神様、どうか悪しきを払って助けてください”
これは「藁にも縋る心境』。
この時点で人間が求めているのは飽くまで不思議奇跡。
そんな人間に神様は以下のように説きます。
ちよとはなし かみのいふこときいてくれ
あしきのことはいはんでな
このよのぢいとてんとをかたどりて
ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし
「みかぐらうた」の第二節。
“ちょっと話 神の言うこと聞いてくれ
悪しきの事は言わんでな
この世の地と天とを象りて
夫婦を拵えきたるでな
これはこの世の始めだし”
病気や様々な問題、所謂カタチの解決を願っている人間に対して「神様の話を聞いてくれ」と説く神。神に助けを求めるなら、神の話を聞いてくれなければ、助けるに助けられない。
逆に考えれば、神様の話さえ聞けば、人間は全ての悪しきから救われると言うこと。
しかも神の話に”悪しき”は無い。
神様の話によれば、”悪しき”とは神を知らない人間心の産物なのです。
七ッ なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるほどに
“難儀するのも心から 我が身恨みであるほどに”
悪しき(難儀)とは、人間の“悪しき心”がカタチとして現れたもの。
神様の話には一切悪しきはない。
要するに、神様の話を聞き分ければ、人間の心から”悪しき心根”は消えると同時に、世界から悪しきカタチが無くなり、神が思惑する”陽気ぐらし”を実現できる法則。
悪しきカタチの原因である、悪しき心を排除すれば、この世から病気など様々な難儀不自由も消える…というシンプルな法則。
そう、神様は第二節で”天の法則”、つまり『天理』を明かされたのです。
この世の”天と地”、つまり神を象りて創造された人間。
人間は神の分け御霊。
神様と同じ魂から生まれ、体など全てのカタチを借りて、人間として生を受けた神の子。
神様が人間創造を思い立った理由。
人間の喜びを見て共に楽しみたい
この言葉こそ、全知全能の存在が見出した喜びの究極。
神の魂から生まれ、神と同じ性質を持つ人間ならば、神と同じ思いを共有して”永遠の陽気ぐらし”を実現する可能性を秘めている…
早足ではありますが、これが大まかな天理です。
本来ならこのまま、第三節、第四節…と『天理』を解説したい所ですが、今回の主題『おやさまは存命で働いているの?』から逸れてしまうので、続きは又の機会に譲ります。
さあ、ここからが本題。
本当に「おやさまは存命で働いているの?」
存命の働きとは?
“おやさまはご存命でお働きくだされている”
こんなセリフを、おやさまを信奉する方の口から頻繁に耳にします。
そもそも“存命の働き”とは一体なんでしょう?
おやさまが明治二十年(1887)正月二十六日に現身をお隠し(死去)された時、全ての信仰者が愕然としました。
信仰の芯を失った哀しみは当然として、おやさまは常々”115歳まで生きる”と断言され、信者は皆、おやさまの言葉を信じて付いてきた訳です。
それ故に、おやさまが90歳で出直しされる理由が皆目見当が付きません。
このまま全員路頭に迷うしかないのか?…。
だが、おやさまは弟子の飯降伊蔵に『扇のさづけ・言上のゆるし』を渡していました。
これは『扇を持って神意を伺う』不思議なさづけあり、おやさまから最も信頼の厚かった飯降伊蔵に神意を伺うのは自然の成り行きでした。
そして、飯降伊蔵の口を通して”おやさま”が現身をお隠された神意を語り始めたのです。
飯降伊蔵の口を通しているが、これは紛れもない”おやさまの言葉”。
そう、これこそが『おやさま存命の印し』。
飯降伊蔵の体に入り込み、おやさまがご存命の如くに神意を語る。
これこそが『存命の働き』に他ならない。
それなら何故、信者達は口を揃えて
“おやさまはご存命でお働きくだされている”
と語るのでしょうか?
地場(この世の元始まりの地点、教団の聖地)が安寧に保たれているからでしょうか?
しかし、それは飽くまで神様のお働きです。
神様は、地場だけではなく、世界に遍く守護を拵え、世界一列のためにお働きくだされているのです。
それとも信仰者にしか見えない『存命の働き』が存在するのでしょうか?
もし存命で働いているなら、何故、一言も言葉を語らないのでしょうか?
きゝたくばたづねくるならいうてきかす よろづいさいのもとなるを
みかぐら歌の第四節、よろづよ八首で神様は断言されています。
“聞きたくば訪ねくるなら言うて聞かす 人間が知りたい全ての真実を”
何故、現在の教団には『訪ねたら神様が答えてくれる』仕組みが存在しないのでしょうか?
本席(飯降伊蔵)以降、おやさまが他の者を使い「言葉を降された」公式な記録は存在しません。
自然災害、戦争危機、疫病の猛威、難病奇病…
こんなに悪しき事情が多い現在の私達に、何故”おやさま”は語りかけてくれないのでしょうか?
もう神意は全て語り尽くしたから、後は人間が勝手に悟れ…と言うことなのでしょうか?
“おやさま”の言葉は『みかぐううた・おふでさき・おさしづ』の三原典しか残されていません。
しかし、おやさまが残した『みかぐらうた』『おふでさき』は平仮表記で一見誰にでも解りやすいが、古い言葉で書かれているので、現代人が一読で意味を理解するのは非常に困難。
その上、お歌形式で抽象的かつ象徴的に書かれているので、人によって様々な解釈を許してしまうアバウトな側面を抱えています。
本席を通して残された『おさしづ』に至っては、本席の言葉を筆で速記しているので、言葉の正確な意味、文章の区切り方が難しく、その上、当時の背景も絡んでくるので、素人が手を出したら即死するほど難解な教義です。否、玄人でも正確な意味は理解できないと思います。
この様に説明すると、「いや、教内には意味を理解している人、研究者も大勢いる!」と反論されるかも知れません。
ならば、何故、教勢は衰退する一方なのでしょうか?
何故、依然として世界に悪しきは蔓延し、陽気ぐらしは実現しないのでしょうか?
私は以前、”神意損失”を実感する体験をしました。
その昔、ある大教会に結婚の挨拶に伺った時のこと。大教会長奥様から『”おさしづ”を読みなさい』と言われました。奥様が言うには『知り合いで”おさしづ”を三回読まれた方がいます。その方が言うには”おさしづ”を読むと、なんとなく神様の心が解る…らしい』とのこと。
私はその時『一体何の冗談を聞かされているのだ?』と真剣に思いました。
大教会の奥様とあろう者が、自分は教典を読まず他人に勧める?
しかも”おさしづ”を三回読んでも(なんとなく)しか神様の心が解らない?
それを可笑しいとも思わず他人に諭せる混迷とした状況。
これこそ完全に神意を見失っている確たる証拠ではないのか?
そもそも『おやさま存命』なら、こんな混迷は起こり得ないのです。
今直ぐに神意を伺い知る仕組みが確立されていれば、間違い、悟り違いは直ちに改められ、悪しきは払われ、教勢は伸びる一方のはず。
結論
“おやさま存命で働いているの?”
答えは“NO!”です。
少なくとも地場では『存命で働いていない』。
これがわたくし寿限無の見解です。
飽くまで寿限無個人の見解です。
私の活動範囲は狭く、教内を隅々まで見て回った訳ではありません。
偏見や思い違いも多々ありかもしれません。
もしご意見があれば、返信して教えていただくと助かります。
でも、もし私の見解通り本当に『おやさまは存命で働いていない』のなら、この先、私達信仰者は何を頼りに道を進めば正解なのでしょうか?
いや、正解も何も、私達は神様に見捨てられたのでしょうか?
いや、いや、神様の目的は人間の陽気ぐらしの筈では?
このまま人間を捨て置くなど創造者として無責任極まりない。
目の前に神様がいたら断固として抗議します。
それとも今後、本席以来途切れている“おやさまの言葉”を頂ける日が来るのでしょうか?
その時、私達は、その言葉が“おやさまの言葉”と認識することが出来るのでしょうか?
それとも『おやさまの天啓を語る不届き者』として“異端者”扱いするのでしょうか?
『天理の黄昏』
それは“存命のおやさま”を失い、夕日の如く沈んで行く教団の姿。
だけど私は全く悲観してはいません。
SNSの世界では、これまでバラバラだった信仰者達の意識が共有されはじめています。
これまで盲信的だった信仰から脱し、教団の方向性に疑問を呈する方々。
おやさまの言葉を求めて自己研鑽に取組む方々。
SNSという「世界の意識を一つに纏める神のツール」によって、信仰者の意識もやがて一つの集合体となり、新時代の信仰が幕を開けることでしょう!
“夕日は沈んでも、必ず日は昇る”
何時か必ず『存命の働き』に触れる時が訪れると固く信じています。
おわり
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