物質の最小単位をご存じですか?
物質の基本単位は、原子→原子核と電子→陽子と中性子→クォークと、玉ねぎの皮をむくように姿を現わします。
タマネギの皮を一枚一枚剥いていけば、最後には何も残りません。
タマネギの皮はゼロになります。
当たり前ですよね?
しかし「タマネギの皮むき」を逆再生したら?
皮も形も何も無い『ゼロ』の状態から突然、一枚目の皮が現われます。
ゼロが1になる瞬間。
『神』がはじめて物質を創造した瞬間です。
物質がこれ以上遡れない最小単位は『ゼロ』。
『無』なのです。
これを形が存在しないことから『無形』と呼びます。
『無形』イコール『神』。
『神』は無形で姿形はありませんが、『心』もあり『全知全能の力』もあります。
宇宙誕生の起源は『ビッグバン』と言われていますが、『ビックバン』が物理現象である限り、『ビックバン』以前にも物理があると考えるのが当然です。
物質の起源を探求し、これ以上遡れない宇宙誕生の起源が『神』という存在。
私たちはこれまで『神』を姿形ある有形の存在として想像を巡らしてきました。
白い髭を蓄え、杖も持ち、後光が差している。
『神』を有形としてイメージすると、途端に胡散臭くなります。
『神』を有形としてイメージすると、こんな疑問も湧いてきます。
じゃあ、『神』を創造したのは誰なの?
またタマネギの皮論争に逆戻りです。
そもそも私たちが抱く『神』のイメージは余りにも貧困で汚れすぎています。
「神様ってナニ?」と100人に質問したら、それぞれ多種多様な考え・イメージで答えると思います。
雲の上に住んで人間を監視し、時々天罰をくだす。
100万円の壺を買えば御加護がいただける。
神の名の下に宗教戦争!これは聖なる戦いだ!
このパンケーキ美味い!マジ神だわ!!
・・・もう何が何だか解りません。
それじゃ人間と大差ありません。
その上、運命を左右し天罰まで下するなら恐怖の対象でしかありません。
私たちは常に『神』のご機嫌を伺いながら、ビクビクと震えて暮らすしかないのでしょうか?。
もし『神』が存在するなら、正しく公平で、人間を難儀苦悩から遠ざけ、喜びを与え続ける存在であって欲しいものです。
病気より健康、貧困より富裕、不作より豊作、戦争より平和、死より生・・・人間が望むもの全てを公平に与えてくれる存在でなければ、わたしは『神』と認めたくありません。
こんな素晴らし存在なら、誰でも『神様、神様』と恋慕う筈です。
だって、人間の力で実現不可能な願いを叶える存在なら『神』と呼ぶに相応しいと思います。
そんな『理想的な世界』に成っていない現実こそ、『理想的な神』が存在しない確かな証拠・・・
と言われても仕方がありませんが、それは単に、これまで抱いてきた『神概念』が真実と乖離していたに過ぎないのです。
『無形』の性質
『無形』とは姿形が無く、物質、時間、空間に縛られない完全に自由な存在。
そして『有形の創造者』。
『観測可能な宇宙の半径は137億光年~』と推察されていますが、それほど巨大な宇宙を創造し包含し、どの時間帯、どの空間にも存在できる『不思議な存在』なのです。
そう『無形は不思議』なのです。
人間の英知では絶対に理解できない『神秘の領域』なのです。
しかし、理解できないからと言って脅威や恐怖を感じる必要はありません。
『神秘の領域』は理解できなくても、『神秘が存在する理由』は『神のことば』で理解することができます。
『人間の喜びを見て共に楽しむ』ための人間創造。
『神』は人間の喜びのために存在するのです。
人間の喜びのためだけに『全知全能の力』を行使しているのです。
例えば・・・
これは『神』も同じです。
『神秘の領域』が解明されなくても、『神』の存在に喜びを感じられれば、それ以上『神秘』を探求する理由は必要ありませんよね?
でも、ここで一つ問題が発生します。
『神』の存在を感じると言うことは『無形』を感じると言うことです。
要するに、『無形の神』が『有形の人間』を守護している実感がなければ、『神の守護』と認識して喜ぶことはできません。
口先では、いくらでも「『神の守護を喜んでいる。』と言えますが、実際に『神の守護』を感じるには『無形を感じる能力』が必要になるのです。
先ほども説明したように、無形は姿形が無く、見ることも、触れることもできません。
それでは無形を感じるには、如何なる能力が必要になるのでしょうか?
『無形の神』を感じる『無形の魂』
『魂』も『神』同様に無形です。
『神』の御霊から分かれたのだから当然です。
『無形の魂』は『無形の神』を感じることができるのです。
しかし、それは『神の思想』で魂に目覚めた後の話。
『人間の思想』を覆し『神の思想』で思考し続けることは簡単ではありません。
先ずは日常生活の簡単なことから『無形』を感じる練習をしましょう。
日常生活で『無形』を感じるコツは無形は不思議と認識することです。
この当たり前にできている事を『不思議』と感じることで『無形』を感じられるようになります。
当たり前にできていることは、全て『心通りの理』から成っています。
『無形の魂』が生み出す心を『無形の神』が受け取り『有形として守護』しているのだから、当たり前に感じていた全てのことは『ゼロ』から創造された『1』なのです。
人間は心を使う度に『不思議』を見ているのです。
『不思議』を当たり前に思い、感動も喜びもなく毎日を暮らしているのです。
これまで当たり前と思っていたことを急に『不思議』と思うこと中々難しいものです。
『不思議』なら『不思議』なりの根拠がなければ、そう簡単に『不思議』を感じることはできません。
そこで『不思議』を感じる一番の方法が、『三つの理』を体現することです。
今までなら喜べなかった困難の最中(病気や様々なトラブルなど)に、『三つの理』信じて喜びの種を蒔き、その『心通り』に『喜びの実り』をいただけば、自然と『不思議』を実感することができます。
頭痛・歯痛・熱が不思議に治まった!
様々なトラブルが不思議に解決した!
等、普通では有り得ない『不思議』が現われたら、『無形の神』が創造する『有形の世界』を垣間見ることができるのです。
『三つの理』は心を使える人間なら誰でも『不思議を体感』することが可能です。
必要なのは、少しの理解と少しのチャレンジ。
先ずは小さい処から『三つの理』を試してみてはいかがでしょうか?
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