人間とはなにか?
ある高名な哲学者が「人間は考える葦である」と言ったとか、言わなかったとか・・・。
すいません、言いました。
この言葉を残したのはフランスの哲学者、ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 – 1662年8月19日)。
『人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。』著書「パンセ」の一節
パスカルは知れば知るほど偉大な人物です。
しかし、いくら偉大な人物だからと言って、300年以上も前の言葉が、遙かに文明が発達した現在にも『名言』として生き残っているのも不思議なこと。
人間とはなにか?
有史以来、人類が挑んで来た普遍的な問い。
この問いに対する答えとしては、時代を超えて心に響く『名言』なのでしょう。
300年以上経過した現在でも「パスカル」の名言が通用する、その裏を返せば未だに人類は問い続けているのです。
この問いに対して明確な答えが未だ見つかっていないのです。
何故でしょう?
確かに人間は存在し、世界中で生活を営んでいるというのに、人間とはなにか?自分はどこから生まれ、なにを目的として生きるのか?この問いに答えられる人間が一人もいないなんて・・・。
でも答えられないのは当然です。
だって人間は自分の意志で生まれたわけではありません。
両親が望んで生まれたとしても、生命を創り、宿したのは両親の力でしょうか?
違います。
生命を創造する不思議奇跡を起こせる人間はいません。
人間は創造された側の存在。
創造者に聞かなければ人間存在の確かな答えを知ることは不可能です。
しかし、時を遡ること凡そ180年前、その不可能が可能になる事件が起きました。
人類史上希に見る大事件。
人間の創造者である『神』が直々に人間創造の元の理が明かしたのです。
それが本ブログ『魂人間GoGo!』で取り上げている『神の思想』であります。
『神の思想』によれば、人間という存在は『神』の一方的な思いから創造されました。
『人間の喜びを見て共に楽しみたい』
その一方的な思いゆえ、自分の意志とは関係なく誕生し、自分の意志とは関係なく死去するのです。
人間にとって最も重要な『生と死』の瞬間に、自らの意志は介入できません。
それなのに生存している間は、喜び、幸福を求め続けるのです。
人間の喜びを見ることが『神』の目的なので、『喜び』を追い求める指令が魂にインプットされており、その魂から自然に湧き起こる指令に抗うことはできません。
ゆえに、全ての人間が生きる目的は『喜び』を追究することなのです。
自殺や犯罪を犯す動機も、突き詰めれば『喜び』の追究が発端と言えます。
ここまで説明すると、人間とは、まるで『神の操り人形』のように思えるかもしれません。
しかし、それは全くの誤解です。
何故なら、人間には『心自由の理』があります。
人間の心はいつでも如何なる状況でも完全に自由。
そして、その『心通りに守護』をいただける・・・ということは、人間は『神の操り人形』どころか、神は『奴隷』のように人間の喜びのために尽くしているのです。
『奴隷』とは言葉が過ぎましたが、それほど、いつも側に付き添い喜びを与え続けているのです。
『体』は神のもの、『体が動く』のは神の力、心以外は全てが『神』です。
鏡を見れば、そこに映るのは自分ではなく『神の姿』。
世界を見渡せば全てが『神の現われ』。
正に神の懐に抱かれ、そして守られて、人間として存立しているのです。
人間は生きているだけで喜びを感じられる存在です。
太陽の日差しを浴びるだけで、そよ風に吹かれるだけで、波の音を聞くだけで、星の数を数えるだけで、家族や友人達の笑い声を聞くだけで、人の幸せそうな姿を見るだけで、ほんとうに何でも無いことで喜びを感じられる存在なのです。
魂に曇りさえなければ『喜び尽くめの人生』が十分に可能な存在なのです。
魂を曇らせるのは『人間の思想』。
『人間の思想』にサヨナラして、『神の思想』を思考の台に据えるなら、人は誰でも、魂で感じ、魂で考え、魂で喜ぶ、魂人間として生まれ変われるのです。
そして『神の思想』通りに『病まず・弱らず・老いず・喜び尽くめの人生』を実現できるのです。
人間とはなにか?
『神の思想』をよくよく思考すれば、自ずとその答えが導き出されるのです。
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