立教185年(令和4年/2022年)12月7日発行の天理時報に心温まるエッセーが掲載されていた。
#信仰エッセー
成人へのビジョン(9)共に見上げる月
エッセイストは可児義孝(Kani Yoshitaka)さん。
twitterでご尊顔を拝することができるが、若くて、なかなかのイケメン。
その上、こんな素晴らしいエッセイを執筆できる才能の持ち主。
まだ道半ばの夫妻が成人への道を歩む「信仰の気付き」を、限られた文字数の中に美しく簡潔にまとめられている。
たくさんの時報読者をほっこりさせること請け合いで、彼の性格の良さが文面から溢れ出ている。
流石天下の天理時報!人材の宝庫!
それに比べて筆者はどうだ!?
天理時報に掲載された記事の揚げ足をとり、一人精神的勝利に酔いしれる哀れな元イケメン。
彼のエッセイに比べたら、私の投稿などゴミだ!クズだ!便所の落書きにも劣る鬼畜の所業だ!
ああ、自分が恥ずかしい!消えてなくなりたい!!
穴があったら入りたい!
神様、人間失格な私をどうかお救いください!
あしきをはろうてはすけたまえ天理王の命ぉぉおおおーーーーーーーーー!!
・・・と、ここまでが前提。
エッセイを賞賛していることが大前提。
以上を免罪符(なるのか?)として、いつもの様に時報いじり・・・否、天理教機関誌『天理時報』の行間を読み解き、紙面の中では伝えきれない親神様の思いを独善的に・・・否、読者の皆様と共に考察してみたいと思いまーす。
それでは早速、素敵なエッセイ『共に見上げる月』をご紹介しましょう!
おつとめ衣の裾を破ってしまいました。 翌日は自教会の祭典日です。
「ごめん、裾破っちゃった! 直せる?」 「また? この忙しいときに!」。妻の言う通りです。 そこで、次のように言ってみました。
「ねえ、仮に最高の奥さん。 だったら、 こんなときなんて言うのかな? ちょっ と演技してみてよ」 「・・・大丈夫ですよ、 後で縫っておきますね」。 グッときます。 「最高だね。・・・・俺の勝手な妄想だけど、 究極の奥さんバージョン言っていい?」 「何?」 「あなたって、人がいいから、 下で人に道をお譲りになって、きっとそのときに引っ掛けたんでしょう。 大丈夫です」
そして、こう続けます。 「この最高の奥さんを1カ月続けてくれる?」。即座に 「バンクするわ!」 と妻。 迷いのない清々 しい返答でした。
思わずクスッってなりました。
だって彼ったら、「また? この忙しいときに!」と文句を言う妻に対して謝るどころか、まるでメイドや巫女のコスプレを懇願するが如くに「理想の奥さん」を演じさせ、『グッときます。最高だね。』などと自らの性癖・・・否、性分を吐露しているのだから。
しかも妻の方は夫の恥ずかしい要求に素直に従ってしまうカオス状態。
なんだ?
最高の夫婦ではないか!?
しかし、ここまで読んで、ある既視感に襲われた。
なんだっけ?
あ、そうそう。
最近話題になっている「お嫁さん応援マガジン YOME-YOME」だ。
”主人の望む「私」こそ、私がなりたい「私」なのかも知れない。”
天理教婦人会 河原町支部が発行している『YOME-YOME』は、
「主人を立てれば(決して卑猥な意味ではない)夫婦関係は上手く行く」のコンセプトが物議を醸し、一部良識ある天理教徒からの批判に晒されていた記憶がある。
”主人のしたい時は絶対に断らない、というのがマイルール❤(夜のYOME=YOME)”
やっぱり卑猥な意味かもしれない・・・
『YOME-YOME』が女性側の視点なら、今回のエッセイは男性側の視点で語られた『YOME-YOME』的思想。
何気ない会話の中に「主人を立てれば夫婦関係は上手く行く」をベースとした、主人側の本音が垣間見られた気がした。
”私の望む「理想の奥さん」こそ、妻がなるべき「究極の奥さん」なのかも知れない。否、そうあるべき!”
要するに『主人は一方的に理想を押しつけ、妻は主人の望みに全力で答える』
それが良き夫婦。
これが道が理想とする夫婦像。
「妻は夫に尽くすもの。夫を立てるもの」という誤った教理?というか、一部の天理教的価値感から由来するものなのか?
それとも彼が単に風変わりな性癖・・・否、性分なのか?
彼が敬虔な天理教徒である以上、どうしても前者を想像してしまう。
だが、そんな三流ゴシップ記事のごとき下卑た妄想は、続く文章により儚く打ち消された。(チッ)
さて、妻にこう言ったものの、「理想の主人」なら、どうしただろう? そう自問すると、はて、自分でも驚くほど思いつきません。 最高の奥さんはパッと具体的なイメージが湧くのに理想の主人は、てんで曖昧です。 要するに、妻に求めるイメージばかりが強くて、 夫としての目指すべきありようが空っぽなのです。 こそれは恐ろしいことだと思いました。
なんだ、バランス感覚の優れた常識人じゃん。つまらん・・・否、流石は道の子。
そのままズルズルと性癖に流されず・・・否、癖性分の暗黒面へと流されず、すんでの所で思い止まったようだ。
夫としての目指すべきありようが空っぽ
でも、これは仕方がない。
元イケメンの筆者だって「理想の主人像」は分らない。
だって、それは夫ではなく妻が理想するものだから、妻に聞かなければ分るはずもなく、例え「理想の主人」を思い浮かべたとしても、それは単に主人側の独善的イメージに過ぎない。
勿論、彼も承知のようで・・・(チッ)
翌朝にそのことを打ち明け、話し合いました。 「理想の主人のあり方は分からないけれど、 お道をしっかり通ることで、自然と仲のいい夫婦になれるんじゃないかな」。 それは相手の理想に合わすでもなく、自分の理想を追求するでもなく、道の理に自らを合わせていくこと。 話していて、お互いストンと心に治まるものを感じました。
これは一見、道人として最高の落しどころ、ど正論に聞こえる。
「そうじゃ!そうじゃ!」と読者の喝采すら聞こえて来そうだ。
自身の理想、相手への理想は脇に置き、親神様が理想する道へと心を合わせる。
教組のひながたを慕う道の子、道人としてこれ以上ない夫婦の歩み方のように思える・・・のだが、なぜか違和感を拭いきれない。
なんだろう?
この違和感は?
なにか、こう、ストンと腑に落ちないのだ。
ストンと・・・
ストン!?
そう、違和感の正体はこの「ストン」。
彼は「お互いストンと心に治まるものを感じました。」と述べていたが、一体何がストンと治ったのか?
このストンに違和感を覚えるのだ。
なぜなのか?
その思いは次ぎの文章を読んで更に強くなる・・・
「天理教教典」には「一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せること」 とありま す。 表面的にでも人に合わせれば、争いは避けられます。 しかし、互いに心の底から幸せを感じられるかといえば、そうではありません。 相手でも自分でもなく、神様をみる。 月日は遙か遠くに見えますが、 共に見上げると、何か通い合うものが生まれるはずです。道を歩む中に、いつしか二人の心も治まっていく。 そんな実感があります。
- お道をしっかり通る
- 道の理に自らを合わせていく
- 神様をみる
- 道を歩む
道人には定番のセリフだが、問題なのはその中身。
- しっかり通る方法は?
- 道の理ってナニ?
- 神様の何を見るの?
- 正しい道の歩み方は?
その中身を明確に答えられる信仰者はいるだろうか?
恐らく一人もいないと思われる。
なぜなら・・・
- お道をしっかり通る
- 道の理に自らを合わせていく
- 神様をみる
- 道を歩む
もし、これが実現できたら凄いこと。
この道人定番のマニフェストを貫徹できるなら、それは「ひながた人間」の完成を意味する。
神か人か?!
もし、教祖に瓜二つの人間の誕生したら、天理教は再び燎原に火を放つが如く世界一列にその名を轟かすだろう。
果して天理教にそんな人間は存在するだろうか?
もし存在すると言うなら、なぜ教勢は衰退の一途を辿っているのか?
もし、神様を見ながら、道の理に自らを合わせ、お道えおしっかり通り、道を歩む道人が存在すれば、ただの大工であった飯降伊蔵が本席へと引き立てられたように、お地場でも神様の御用が継続されていたに違いない。
月日の社、神の機械が不在した結果、お道では「銘々それぞれの悟り」が我が物顔で跋扈している、といって過言ではない。
そして、その風潮を良しとする信仰者は予想以上に多い。
「それの何かいけないの?」と訝しむ読者も多いかも知れないが、よくよく考えてみてほしい。
『悟り』とは『諭し』通りに理解すること。
『諭し』という正解があって正しい『悟り』ができる。
本来、神の諭し通りに悟るのが『道の理』の本質なのに、銘々それぞれの悟りが尊重されたら『道の理』を蔑ろにすることになる。
例えば数学のテストで、正解を無視した自分なりの答えを書いたとしよう。
その答えがどんなに奇抜でユニークでも結果は「0点」。
当たり前だが、こんな道理に反した「銘々それぞれの悟り」が、天理教界隈では公然と流布されているのだ。
これでは神様の思いを無視した「銘々勝手な悟り」。
- お道をしっかり通る
- 道の理に自らを合わせていく
- 神様をみる
- 道を歩む
耳障りもよく、なんとなく分った気持ちになれる言葉の羅列。
この夫婦が共に見上げようとしているのは、実は極めて漠然とした抽象的概念なのだ。
要するに、抽象的概念であるのに、彼らの胸に「ストン」とあっさり治ったことに違和感を覚えたのだ。
だが、この件で現行信徒を責める気は毛頭ない。
本来なら得ることが出来た『真実の悟り』に何重ものフィルターを掛けられた現状なのだから。
先人、理の親、一般信者が歴史の中で作り上げた「銘々勝手な悟り」という何重ものフィルターを・・・
今や道の理はカオス状態。
全ては本席以降、月日の社、神の機械が不在していることに原因がある。
本席以降も天啓が続いていたら、教組時代同様に間違いは常に正され、直接伺い立てれば必ず『真実の悟り』へと導かれる道の理が存在していたのだから。
きゝたくバたづねくるならいうてきかす よろづいさいのもとなるを
よろづよ八首の一節が虚しく響く・・・
まあ、今、これを語り始めると読者も混乱するので、この辺で止めておきますが、要するに一言で『道の理』といっても、銘々の悟りに相違があると言うことだ。
ここに来てようやく、違和感の正体が鮮明になった。
「道の理に自らを合わせていくこと」に「お互いストンと心に治まるものを感じた」
もし、元々、彼が抱いていた『道の理』が『妻は夫を立てるもの』だとしたら?
道の理 = 妻は夫を立てるもの
それならば、「お互いストンと心に治まるものを感じた」と言われても・・・
ストン = 妻は夫を立てるもの
なんだ!?
結局、元の木阿弥?
自らを合わせていくと定めた道の理が、銘々勝手な悟りによりカオス状態にあるため、結局、自らが慣れ親しんだ悟り(妻は夫を立てるもの)に舞い戻る?
夫婦揃ってひのきしんを誓い合い結ばれた夫婦なら「道の理に自らを合わせていくこと」は大前提。
それなのに、妻に「理想の奥さん」を演じさせた背景には、元々「妻は夫を立てるもの」という価値感を道の理に置いていた可能性はあながち否定できない。
月日は遙か遠くに見えますが、共に見上げると、何か通い合うものが生まれるはずです。道を歩む中に、いつしか二人の心も治まっていく。 そんな実感があります。
同じ「道の理」という方向性に心を置いていても、見上げているのが「銘々勝手な悟り」であるなら、結局、平行線の道を歩むことになる・・・
と言うワケだ。
こんな事を書くと可児夫妻を批判していると思われるかも知れないが、そうではない。
これは筆者を含め、天理教信者なら誰にでも当て嵌まる「信仰の落とし穴」。
漠然とした正しい思いはあるものの、明確な諭し、正確な悟りを得られない故に、正解を求める思考が脳内をグルグルと堂々巡りする不安定な精神状態に陥るのだ。
もちろん、この可児夫妻はお互いを高め合える良き夫婦だし、同じ道を共に歩めるのは素晴らしいことに間違いはない。
ただ、信仰とは時に人を盲目にする。
「信じること」を心の芯におく以上、歪んだ善を信じたら最後、歯止めの効かない狂気へと豹変してしまう。
実際、教祖のひながたを辿り、世界たすけを標榜する道の中で、歪んだ善による悲劇が幾度となく引き起こされている。
献金問題、貧困問題、二世問題、理の親によるパワハラ問題、人の尊厳を踏みにじる歪んだ悟り・・・
一部素行の悪い信者による暴走か?
他は真面目な信者ばかりだから問題なし?
道の中に陰の部分があるということは、月日の陽光を遮る暗雲が存在するということ。
その暗雲とは何なのか?
天理教団?
真柱?
本部員?
それとも一人一人の中にある我身思案?
これは、信仰を志す者が陥りやすい注意点であると同時に、道人一人一人がよくよく思案する必要がある緊急の課題に感じた。
以上、時報を愛する一読者として気付いた点を書かせて頂いたが、そもそも彼と私では、文学的才能、教理の研究と実行力、人を思いやる優しさ、品性、ルックス、毛量、歪んだ性癖に至るまで、月とスッポン、天と地ほどの差があるので、ただの取り越し苦労の上に、余計なお節介との誹りは甘んじて受ける所存にあります、ハイ。
まあ、元イケメンからの老婆心として軽く受け流してほしい。
何はともあれ、筆者に気付きを与えてくれた素晴らしいエッセイに出会えたのだから、時報と可児義孝さんには感謝しかありません。
本当にありがとう!
ビバ!時報!
ビバ!ラスベガス!
祭典の日、妻が縫ってくれたおつとめ衣に、 私は清新な気持ちで袖を通すのでした。
可児夫妻に幸あれ!
おわり
https://tamashii-ningen.com/tenri/tenrijihou_20230104/
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