天理教の疑問 – 天の定規で何が計れるの?

天理教の疑問

天理教には『天の定規』なるものが存在する
その定規で計れば自分の誤りや心得違いが正され、神様が思召す陽気づくめの道を狂いなく通れるという優れた道具らしい。

『天の定規』の出所は、『稿本天理教教祖伝逸話篇』に掲載されている逸話31『天の定規』に掲載されているので、天理教信者なら殆どの人が知っている有名な話です。

31.天の定規
教祖は、ある日飯降伊蔵に、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみてくだされ。」と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」と、仰せられ、更に続いて、「隙がありませんか。」と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「少し隙がございます。」とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うていることでも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」と、お教え下された。

もちろん、現物として『天の定規』が存在するわけではなく、『天の定規』=『神の教理』ということになる。

『神の教理』と言えば、月日の社である教祖(おやさま)の教え。『みかぐらうた』『おふでさき』、教祖(おやさま)の後継として神の御用をつとめられた本席様(飯降伊蔵)の『おさしづ』であり、この御教理に自らの心を照らし合わせた時に、目には見えないが確かに存在する『天の定規』により心の狂いを正すことができるのです。

神様の思惑(御教理)と、自身の心を見比べて狂いはないか?誤りはないか?心得違いはないか?などと、常に自身の心に定規を当て、心の向きを軌道修正しながら、『正しい道を通る定規』として用いることができる物差し。

つまり『天の定規』を持つ天理教信者は真っ直ぐに『陽気ぐらし』の道を邁進し、最短のルートで辿り着くことが可能という訳です。

しかし、『天の定規』を使う上で一つ忘れてはならない注意事項があります。
それは『天の定規』を「他人を計る物差し」として使わないこと

悩む女性

天理教を信仰しているのに身上事情ばかりの人生…
どうして私ばかり酷い目にあうのだろう?

諭す女性

『天の定規』で計ると、アナタの信仰には心得違いがあります。
我が身思案を捨て去り、もっと教会に尽くし、人をたすける心で通ることが正しい信仰です。

一見「諭す女性」は信仰的に正しい発言をしたように思えますが、『天の定規』は私達が日常的に使う「直線定規・方眼定規・三角定規」と同じで簡単に使えるように見えて、使い方が非常に難しいのです。

工作したことがある方ならご存じだと思いますが、定規を正しく使ったつもりでも、寸法に狂いが生じる経験は誰しも一度や二度あると思います。
工作用紙に定規を当てて線を引くのも、定規を抑える力と線を引く力の加減で定規がずれたり、定規の厚みにより線を引く角度で微妙な誤差が生じてしまいます。

1mm程度の誤差なら問題ないだろう?
細かいことを気にしてたら人救けなんて出来ないよ!

いえいえ、大問題です。
もし建築や精密機器の図面なら1mmの誤差で命取り!
執刀医が目測を1mm誤り動脈を傷つけでもしたら本当に命に係わる大問題です。

しかし基準となる定規が正確無比なら、それに合わせて図面を引いたり、メスの位置を調整すれば問題は起こらず、大切な命を救うことができる訳です。

でも、それは違うよね?
だって『みかぐら歌』の十下り目に「六ッ むごいことばをだしたるも はやくたすけをいそぐから」と教えられてるじゃん!
人を救ける為なら他人と言えども『天の定規』で誤りを諭してあげえるのが正解だよ。

それは、正確無比に『天の定規』を使える神様、そして教祖(おやさま)だから言える言葉です。

人間に対する神様の思いは『みかぐら歌』の五下り目に歌われています。

六ッ むごいこゝろをうちわすれ やさしきこゝろになりてこい

優しい心、それが人間に対する神様の願い。

優しい心もなく、どんなに素晴らしい教理を振りかざしても、相手に伝わるのは自身の心根。
優しい心が無ければ『天の定規』は他人を傷つける凶器にも成り得るのです。

定規

それを踏まえて、二人のやり取りをご覧ください。

何よ!偉そうに!
私の信仰に心得違いがあるですって!
他人のお供えでぬくぬくと生活しているアンタになんか言われたくないわよ!

そうやって人を批判する心が『天の定規』に合っていないの。
酷い言葉だったかも知れないけど、これはアナタを救ける為に言っているのよ。

だから、アンタにそんな事を言う資格があるのか!?って言ってるの!
アンタだって私の事を批判しているじゃない!
他人がする批判は悪で、自分の批判は正義?すがすがしいほどダブルスタンダードだわ!

私は『天の定規』でいつも自分の心を正しています。
やれやれ、そんな強情な心では何言っても無駄ね。
(いつまでも身上事情で苦しむしかないわね。自業自得よ!)

このように全然話が通じないことってありますよね?
同じ信仰をしているのに、どうして信仰に対するすれ違いが起きてしまうのでしょうか?

「悩める女性」が怒っている原因を見ると、「諭す女性」の言動に腹を立てているようです。
「悩める女性」は『天の定規』ではなく、「諭す女性」の言動を見ていますが、それに対して「諭す女性」は『天の定規』を見ている…つもりのようです。

なぜ「つもり」と書いたかと言うと、「諭す女性」は相手の批判に対して、自身の正論で対抗し相手を批判ているからです。
実はこの行為自体が『天の定規』とズレているのです。

お道の用語に『見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと。』という有名なフレーズがありますが、これは本席様のおさづで度々諭される『いんねん』の御教理を誰かが簡潔にまとめたフレーズだと思われます。

明治二十一年五月
銘々身の内かりもの八つの道、世界の処へ皆映してある。皆いんねん。いんねんなら世界の鏡に映しある。どんな難儀な/\者も皆映してある。

先ず第一に『天の定規』に合わせていると言うなら、相手に批判された段階で「これは私の因縁」と心得るべきであり、相手のことばかり批判して、自分が見ている因縁(自分に向けられた批判、怒り)を顧みようともしないなら、『天の定規』が正しく使われているとは言えません。

もし「諭す女性」が、『見るも因縁、聞くも因縁』として自身の心を優しい心に治め、相手も穏やかな心に治まるなら、『天の定規』を正しく使えた証拠。
なにより相手の救かりを願っているなら、先ず自分に向けられた怒りに対して「批判」という油を注ぐのではなく、自身の怒りが相手の心に映っていると認識し、相手の怒りが穏やかに治まる心使いに全力を注ぐべきなのです。

何よ!偉そうに!
私の信仰に心得違いがあるですって!
他人のお供えでぬくぬくと生活しているアンタになんか言われたくないわよ!

ハッ!
(私ったら自分の恵まれた状況も弁えず、苦しんでいる方に偉そうに諭していた。なんて高慢な人間なんでしょう。バカバカバカ、私のバカーーー!)

アンタにそんな事を言う資格があるの!?
なんか言ってみなさいよ!!

ごめんなさい。
あなたの言う通りです。心得違いは私の方。
毎日一生懸命働いてお供えしてくださる貴女に感謝こそすれ、私が諭すことなんて何もないのに。
本当に恥ずかしいわ。

え?ああ、その~
わ、わたしの方こそ言い過ぎたわ。
私の暴言を受け止めてくれてありがとう。少し心がスッキリしたわ。
ごめん。優しい貴女に甘えてしまったわね。

まるで作り話のように(笑)綺麗に治まりましたが、まあ、こんな感じで、自分の心通りに動くのが、他人や世界という鏡に映した『見るも因縁、聞くも因縁』という教え。

他人や世界を見て『天の定規』に合っていない。と言うのは簡単です。
しかし、その発言は全く無意味であり空虚なもの。
どんなに他人や世界へ『天の定規』を当てたとしても何の影響もありません。
それで人が救かる、世界が救われる…なんて現象は1mmだって起きません。

神様が望んでいるのは、御教理を聞いた人自身が『生きる天の定規』へと成人することです。

先ほどの「諭す女性・悩める女性の押し問答(仮題)」を見ても分かる通り、人は他人の立ち振る舞いを見ます。
『天の定規』などと言っても、実際に存在するのは教祖(おやさま)、本席様が残された親神様の御言葉(御教理)。
有難い有難いと崇め眺めているだけでは何の意味もありません。

そこに意味を持たせられるのは、神様の言葉を『天の定規』として1mmの狂いなく当てはめようと心得た信仰者のみ。
御教理という目に見えない『天の定規』で自身の心を正し続けることで、いつの間にか『天の定規』が具現化された生きる『天の定規』へと成人するのです。

これが『天の定規』を用いる人間に神様が望むこと。
自分自身が生きる天の定規』へと成人し、神様の心を他人や世界へ映し出す生きた雛形に成人することを望まれているのです。

目に見えない『天の定規』より、目に見えた生きる『天の定規』の方が誰でも理解しやすいし、その人の立ち振る舞いを見るだけで御教理の尊さ、素晴らしさが浮き彫りにされるのだから、神様の思いが伝わるスピードは幾何級数的に速まる訳です。

天の定規』を別の言いかをすれば、『教祖(おやさま)のひながた』。

ひながた通りの人間が量産されて世界中に『教祖同様の人間』が溢れたら、他人や世界に絶大な影響を与えるのは明白であり、他人の意識・世界の常識さえも劇的に変えてしまうパワーがあることは、教祖(おやさま)を信奉する信仰者なら何よりも理解できるはず。

『天の定規』で自分自身を真っ直ぐな生きる天の定規』へと磨き鍛えあげる。
それが神様の本意であり、信仰の本質。

でも一口に『天の定規』って言われても、その場その場に合わせて沢山ある御教理から選別するのは難しいわよね?

そうね。今の心使いを『八つのほこり(をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん)』に当てはめるのも一苦労だわ。

もし『天の定規』の使い方に迷うことがあるなら、御教理を単純化したらどうでしょうか?

御教理は教祖(おやさま)の逸話、『みかぐら歌』『おふでさき』、本席様の『おさしづ』と膨大にあるように思いますが、神様が人間に治めて欲しい要点はさほど多くはありません。
そして神様の思いを凝縮すると、神様が人間に望まれているのは『優しい心』
もっと正確に言うなら…

他人の喜びを見て共に楽しむ心

この心は、月日親神様が人間創造を思いついた究極の理
『人間(他人)の喜びを見て共に楽しむ心』こそ喜びの究極

その心に狂いがなければ『天の定規』から外れていないと思って間違いありません。

優しい心?
天理教の信仰者は皆さん穏やかで優しい方ばかりだよ。

何を今さら。

そうよね。

優しい心なんてみんな持ってる。
でも人を救ける時には相手の為を思って厳しく接することも優しさじゃない?

そうですね。
優しい心は誰でも持っています。
五歳の子供でも、一般の主婦も、凶悪犯も、オ〇ム真理教の教祖だって持っています。

でも相手の為にならない優しさは独りよがりのエゴに過ぎません。
そして現状、どんな人でも『優しい心』だけで生きられる人間は一人もいません。
優しい心に成れる時もあれば、成れない時もある。それが本音。
人間思案で思いつく『優しい心』は、神様の言われている『優しい心』とは似て非なるものです。

人間だもの。しかたないわよ。

そうよね。
私達は人間で神様には成れないのだから。

神様には成れませんが、神様と同じ心には成れます。
実際に『みかぐら歌』『おふでさき』『おさしづ』を読んで神様の思いが分かった人たちは優しい心に成れるのではありませんか?

誰でも教祖(おやさま)の優しさには憧れるし、そういう人間に成りたいと思うはずです。
しかし、『優しい心』が続かない。
一時的に『優しい心』に成れても、形を見ては無意識に不足し、誰かを見ては当然のように非難する。人間思案で培った癖性分にはなかなか打ち勝てない。
気を抜くと『かしもの・かりもの』を忘れ、我が身思案が心の中身を占領している。

要するに、『優しい心』が身に付いていないのです。

理由は簡単。
御教理に徹していないからです。

これは単に練習量の問題でもあります。

神様の教えを聞けば一時的に『他人の喜びを見て共に楽しめる優しい心』に成れますが、その心がなかなか身に付かないのは単に練習量の問題。
人間思案で生きてきた年限は、毎日人間思案を練習して生きてきたという意味なのです。
故に、これまで身に付いた人間思案を超える量の神様の心に触れて『優しい心』を練習し続ければ、神様の心で思案する癖が必ず身に付きます。

人の喜びを見て共に楽しんでいる時、私達は『八つのほこり』を一つも使っていない事に気が付きます。
人の喜びを見て共に楽しんでいる時、『八つのほこり』は一掃されるのです。

惜しみもない、不足もない、憎しみもない、自己愛もない、恨みもない、腹立ちもない、欲望もない、高慢もない…

『他人の喜びを見て共に楽しむ』という神様と同じ次元の『優しい心』を共有するだけで、陽気ぐらしを実現した生きる『天の定規』として他人の指針となり、教祖(おやさま)のひながたを象った現在の『生きる天の定規』として世の模範と成るのです。

その時、あなたは完全なる喜びの主体。

『天の定規』で計れるものは喜びの心。
『天の定規』で自身の心を照らし合わせたら、どれだけ喜びが不足しているのか鮮明になります。
喜んでも、喜んでも、喜び足りない神様の守護に溢れた人間の世界。
『かしものかりもの』と『心通りの守護』が無ければ一秒たりとも生きられず、1mmたりとも動けない人間。
『天の定規』で徹底して『優しい心』を練習し続ければ、嘘偽りない澄み切った心、一点の曇りもない喜びの心が本心として定着するのです。

さあ、教祖(おやさま)の教えという『天の定規』で日々自らの心を計り続け、喜びに1mmの狂いがない陽気ぐらしを謳歌しましょう!

と、綺麗に終わらせたいところですが、最後に注意点を一つ上げておきます。
それは、『天の定規』自体が狂っているケース。

『欲があるなら止めてくれ神の受け取りできんから』
だから財産をそっくりお供えすれば有難い御守護に与れる。

『理の親』の言うことは黒でも白と言え。
親を立てることが理を立てること。これが信仰の極意。

上級の教会にひのきんすれば徳積みになり、末は結構な暮らしを送ることができる。徳積みは幸せの貯金なのよ。

元の教えを捻じ曲げて独自に自称『天の定規』を拵えても、それは『天の定規』ではなく、単に人間の考え…つまり人間思案に過ぎません。
しかし現状のお道は自称『天の定規』で溢れている感があります。

まあ、それは仕方ありません。
だって現在進行形の『天の定規』である天啓が途絶えているのだから。

いずむ
いずむ

それじゃあ、
天理教は間違いを抱えたまま衰退し、やがて消滅する定めなの?

世の中の誰も必要としなくなれば間違いなく自然淘汰されます。
続く理がなければ、どんな巨大な組織や権力でも続く道理がありません。

続く理とは『喜び』です。
独りよがりではなく、皆の喜び。

そして『御教理』が教えているのは正に『続く理(喜び)』なのです。
人間思案で立ち行かず心倒しそうな時でも、神様のお詞に目を向け、心を傾けるなら、人間思案を超えた『喜び』が生まれ、その小さな種が運命を変えるのです。

だからこそ『御教理』の研究こそが最重要課題なのです。
神様の教えられる『御教理』以外に末代まで続く理は、世界中どこを探しても存在しません。

大切なのは『御教理』を研究し、そして身に付けること。
自分自身が陽気ぐらしする為の教理であり『天の定規』なのだから、他人に向けず、自分の心を磨くための道具として用いること。
そして、他人の癖性分や嫌な一面、愚かな振舞や酷い犯罪を見た時も、他人に教理を向けたり非難するだけではなく、それが自分の中にも潜む人間心の性分と知り、自身も同じ過ち・同じ轍を踏まぬように、他人の姿こそ鏡に映し出された自分の本性と自覚すること。

布教などとうつつを抜かしている暇があるなら、家族を含めごく身近な人達の喜びを見て共に楽しめる努力をすること。

自分の姿を周りが見て教祖の教えに興味を示さないなら、いくら口で説いたところで相手通じる道理はありません。
真の布教とは『匂いがけ』。
自分の姿から神様の匂いを掛けて、神様の存在を知ってもらうこと。

それは、もはや宗教の布教ではなく『喜びの伝播』。

と言うわけで、
『天の定規』とは、1mmも狂いのない喜びの人生を謳歌する為のマストアイテムなのです。

おわり

コメント

  1. 坂井明久 より:

    天の定規 この記事で、以下の投稿は 間違いです。

     『天の定規』などと言っても、実際に存在するのは教祖(おやさま)、本席様が残された親神様の御言葉(御教理)。
    有難い有難いと崇め眺めているだけでは何の意味もありません。

     そこに意味を持たせられるのは、神様の言葉を『天の定規』として1mmの狂いなく当てはめようと心得た信仰者のみ。

     神さまのお力は、教えてあげます。直接あなたの身体に、間違いを指摘、いつでもできます。
      
     神は、病気やケガ、苦痛で、直接間違いを指摘します。
     
     口先の教えが天理教ではない。ご忠告し、呪詛します。神さまお心を、お好きなように。と。

    • jyugem jyugem より:

      天の定規 この記事で、以下の投稿は 間違いです。

      それって坂井氏の感想ですよね?
      わたくし本投稿以来、病気も怪我もしておらず、まだ神様から間違いを指摘されていないみたいですよ?

  2. 坂井明久 より:

    神様の教えられる『御教理』以外に末代まで続く理は、世界中どこを探しても存在しません。

    大切なのは『御教理』を研究し、そして身に付けること。

     これも大間違いです。
     あなたの場合、天理教信者ですから、しんばしらを神と信じて、従うことです。
     諭達にあるように、まず貧乏しなさい、です。

     教理は、おこなうもの。
     貧乏しないければ、嘘つきです。偽天理教です。
     それで、省いていただきたいならと、呪詛しました。
     嘘つくということは、省いてほしいそのものです。
     月日には、嘘と追従、これ嫌い。名代なりと、すぐに退く。天理です。

     呪詛します。

    • jyugem jyugem より:

      真柱を神と考えている人って熱心な天理教徒でも稀ですよね?

      あ、わたくし貧乏はしているのでセーフですねw

  3. 飯田の演歌王 坂井明久 より:

    肝心なことは、みきが親神で、一瞬一瞬に知らせを出し導いていて、お休みが無いことです。
    また、
    真柱を神と考えていない人って、偽天理教です。
    人であっても、精神定め上の、存在ですから、
    真柱は人間でも、遺伝情報上の神です。人間もみな神の子ですが、真柱は、神の道具としての存在で、不自由です。

    貧乏するということですが、神の仰せに従っての貧乏は、理ですが、貧しければ教えの貧乏だとはなりません。
    理の親に尽くすというのも、みきのそうせよなら、絶対に尽くす。です。

    そうするな、なら、一円もだしません。
    神さまにいちいち伺い立てていく道ではない、けれど、お指図に伺いがあるように、いちいち伺うが、大切です。

    伺い立てて行くでなけれどです。
     
    伺っているうちに、みきから勝手に知らせが来ます。そこで根を掘っておくことです。
    しらせが、ちゃんとわかるようです。

    いま私は,戦場にいます。
    線状降水帯は、みきと人間の戦場においての、高山の支援者を、みきが財政的に、健康的に攻めています。

    貧乏して、高山を下支えすると、そんな方々への、一方的な天罰です。
    しんばしらは怖い。これが分からないで、お慕いしたりするのは、嘘です。大嘘です。

    戦場にお立ち下さる日を、楽しみにします。

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