天理用語の解説 『いんねん』
『いんねん』とは?
- 生まれ持った因縁
- 先祖代々因縁の土地
- 因縁の戦い
- 因縁を付ける
「因縁」は世間一般でも「関係」に近い意味で使われていますが、教祖が言われる『いんねん』も同じ意味なのでしょうか?
教祖が『おふでさき』で諭されている箇所をピックアップしてみました。
この月日もとなるぢばや元なるの
いんねんあるでちうよぢさいを (8-47)にんけんをはじめだしたるやしきなり
そのいんねんであまくたりたで (4-55)月日より三十八ねんいぜんにて
あまくだりたる元のいんねん (7-1)月日よりそのいんねんがあるゆへに
なにかいさいをはなしたいから (7-2)
これらのお歌を大まかに説明すると、
人間創造の元の神、実の神、月日親神様の思惑に由来する関係性
もっと簡単に説明すると、
神様の思惑が原因で人間が存在している
天保九年十月二十三日に月日親神様が天降ったのも、中山みき様を「月日の社」と定められたのも、人間に心と体があるのも、世界に難儀不自由が渦巻き新型コロナウィルスが蔓延するのも、全ては神様の思惑に起因する『いんねん』と言うわけなのです。
『いんねん』の理論
「因縁」とは元々仏教用語です。
物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁。
すべての物事はこの二つの働きによって起こる。因 + 縁 = 結果(物事)
少し難しいですね?
これを、花が咲く工程に置き換えて説明すると・・・
種を眺めていても花は咲きませんが、土に種を入れ、水をやり、太陽を浴びることで花が咲きます。
花という(結果)に対して、種が(因)で、土、水、太陽などが(縁)。
縁(間接の条件)は「土、水、太陽など」
結果(物事)が「花」。
種 + 土、水、太陽など = 花
この公式に、人間と神様の関係に置き換えてみると、
神様の守護が(縁)。
人間が(結果)ということになります。
神様の思惑 + 神様の守護 = 人間
この様に、神様の思惑に起因することを
元の『いんねん』と言います。
それでは、それぞれの項目をもう少し詳細に調べてみましょう。
元の『いんねん』
神様の思惑(因)
人間の陽気ぐらしを見て共に楽しみたい
神様の守護(縁)
人間が陽気ぐらしするために守護を与える
人間(結果)
陽気ぐらする人間の完成・・・?
最後は「?」マークですね。
元々の『いんねん』に従うなら結果は
陽気ぐらしする人間の完成!
のはず・・・
当然「?」マークは付きません。
しかし、今、世界の現状を見れば陽気ぐらしには程遠い難儀不自由が渦巻いています。
今さえ良ければ我さえ良ければの酷い心、その心から生じる様々な犯罪、社会問題、そして世界を震撼させている新型コロナウィルス・・・
神様の思惑する人間が完成しているとは言い難い現状です。
では何故、現状の人間は未完成なのでしょうか?
何故、元の『いんねん』通りに陽気ぐらしが出来ないのでしょうか?
それは
神様の守護(縁)
に秘密があります。
神が定めたルール
人間の陽気ぐらしを見て共に楽しみたい
これが、この世の元始まりに芽生えた意識。
この、たった一つのアイデアから広大な宇宙、悠久の人間創造がスタートしました。
しかし、
これは神様の心に閃いただけの無形のアイデア。
このアイデアを有形にし、人間の陽気暮らしを実現させるには綿密な計画が必要です。
そこで元の神、月日親神様(二神)は道具衆(八神)を引き寄せ、人間創造を手伝う約束を交わした後、それぞれ守護の役割を分担し、月日道具衆(十神)は一手一つとなり人間創造の大プロジェクトに取り掛かったのです。
そして、人間を守護するにあたり厳格なルールを定めました。
月日道具衆が、それぞれの判断、思いつき、気まぐれで守護を与えてしまえば、それは神様が主体の世界であり、ルール無用な不条理が支配する混沌の世界になってしまいます。
何を芯として頼り、何を基準とすれば陽気ぐらしが実現するのか?
確実な指針を示さなければ人間の心は混乱するだけ。
陽気暮らしに定まることは叶いません。
人間の陽気ぐらしを実現するには、神であろうと絶対に変更出来ない絶対不変なルールが必要。
そして、この世を遍く完全に支配する絶対的ルールが必要なのです。
そこで月日は三つのルール(理)を定めました。
人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。
たった一つの心より、どんな理も日々出る
先ず第一。
『身はかりもの』
この世に存在する全ての形、
人間の身体と環境(衣食住、地球、太陽、宇宙・・・)は全て『かりもの』。
人間には髪の毛一本、細胞一つ作ることが出来ない神様のもの。
この『かりもの』のお陰で、人間は寝ている間も心臓が止まらず、傷も自然に治癒し、年齢に合わせて身体も成長します。
これは身体だけではなく、地球を回転させ、太陽を燃やし、宇宙全体をバランス良く運行しているのも『かりもの』のお陰。
もし、身体も環境も人間自ら管理・メンテナンスする必要があるなら、一瞬も気を休める暇もなく陽気ぐらしどころではありません。
そして第二。
『心一つが我がもの』
この世の主人公は人間です。
人間が神様の顔色を伺いながら暮らすようでは陽気ぐらしと言えません。
人間が自由に心を使うことが喜びの絶対条件。
人間の『心自由』は神様さえ絶対に奪えない人間のもの。
何を思い、何を発想できるのも『心自由』を神様が厳守しているお陰。
『心自由』のルールがあるから、どこまでも最高の喜びを求めることができるのです。
最後に第三。
『どんな理も日々出る』
いくら身体が『かしもの』でも人間に使えなければ意味はありません。
いくら『心自由』でも身体を動かせなければ意味はありません。
神様は人間の心自由を最大限に発揮させるため最高のルールを定めました。
それが『心通りの守護』です。
人間が心を使う度に神様が受取り形を守護するルール。
内部の仕組みは知らなくても、人間が入力した命令を一瞬にして解析・計算・出力するコンピュータのように、守護の仕組みは知らなくても、人間が心を使えば一瞬にして心通りの守護を現す不思議な神技。
人間にとって超便利で有り難いルールなのです。
この三つのルールを用いれば人間は必ず陽気ぐらしができる。
人間が喜びの心を使い続ければ、心通りの守護も喜びの形になるのは理の必然。
しかし!
世界には喜べない形が溢れている状態。
人間が陽気ぐらしを実現していない理由は明白です。
なぜ?
人間がルールを知らずに喜び以外の心を使うのが原因。
『心通りの守護』が本来、神様が想定した通りに運用されず、不足通り、不安通り、怒り通り、欲望通り・・・に、喜べない形が蔓延しているのです。
この様に、
神様の思惑通りにならないのは、人間の『心自由』が原因・・・
おや?
ここにも(因)がありますね?
そうなのです。
人間が『心自由』であるが故に、心通りの『いんねん』が発生していたのです。
心通りの『いんねん』
これまで説明してきたのは、
神様の思惑に起因する元の『いんねん』。
しかし、ここで発生しているのは・・・
神様のルール(心通りの守護)に起因する心通り『いんねん』なのです。
そのルールの結果、思わぬ難儀不自由の形(病、争い、天災、疫病等)が『いんねん』として、人間自身を苦しめていたのです。
これは人間自身の心が生み出した『いんねん』であり、神様にも手出しすることは出来ない人間独自の『いんねん』なのです。
形として現れた『いんねん』。
病気、夫婦親子など人間関係の縺れ、様々な事情のトラブル、争い、天災、疫病・・・
世界中の明晰な頭脳が束になっても解決できない『いんねん』。
これら人間にとって好ましくない『いんねん』を抹消する方法はあるのでしょうか?
『いんねん』と治める
本席様は身上事情に対する伺いに対して『いんねん』を諭されていました。
下記は『おさしづ』の一例です。
明治二十五年四月十七日
植田イノ四十才身上願
さあ/\尋ねる事情/\、身上一条さあいかなるという処、さあ/\尋ねる。身上一条の理、案じる事要らん。なれど一時一つ心という、一つ万事心に掛かるであろう。思いは日々であろう。よく諭し、成るも一つ成らんも一つ、いずれ/\遠くは言うまでやあろうまい。何で成る。成るも成らんもいんねん一つ。いんねんこれ一つ治めるなら、一時治まる。
成るも成らんもいんねん一つ
身上(病)に成るも成らないも『いんねん』一つの問題と諭されています。
十分に喜べる守護の中にありながら、ルールが分からず不足の心を沢山使ってきた『いんねん』。
ルールを知らなかったとは言え、自らの心通りの守護なら結果に文句を言うことは出来ません。
まあ、文句を言ったところで、その不足がまた心通りに受け取られるだけ。
全く以て非効率。
だから神様は、
いんねんこれ一つ治めるなら、一時治まる
身上に成るのも自分の心が生み出した『いんねん』と治めるなら、
身上も治まる・・・
と、続けて諭されたのです。
薬も飲まず医者に掛らずとも、『いんねん』と治めただけで身上が治まるなら、これ以上有り難い解決方法はありません。
しかし・・・
『いんねん』と治める・・・とは、一体どんな意味でしょうか?
『いんねん』だから我慢、我慢・・・ということでしょうか?
そんな訳ありませんね。
我慢で病気が治まったら、世界中からとっくの昔に病気は根絶されています。
それでは
『いんねん』と治める・・・とは?
『いんねん』と『たんのう』は二つ一つ
別の『おさしづ』に、その諭しが明記されています。
明治二十五年一月二十日
増野松輔身上だん/\迫り願
さあ/\尋ねる/\、尋ねる事情/\。尋ねる事情は前々以て諭したる処、前々いかなる理諭したる、いんねんという理諭したる、一つ心どうりでさしづに及んである。一度二度迫りて仕方が無いと言う。少しなあと言えば、又じいと戻る。是非と言うてあろうか。前々大層、さあ/\迫りたる。十分たんのう、十分治めてやりてくれるがよい。
身上が心通りの『いんねん』と諭していても、『いんねん』だから仕方が無いと、我慢、諦めの心境に陥る。
これでは『いんねん』の理論を理解していることにはなりません。
『心どうり』の身上なら、今度は喜びの心を運べば『心どうり』に身上が治まる・・・
これが『いんねん』の理論。
今まで、
十分に喜べる守護の中にありながら、ルールが分からず不足の心を沢山使ってきた『いんねん』。
それなら、
これからは『いんねん』の理論を弁えて、
難儀不自由の中にあっても喜びの心を使い、
喜びの『いんねん』を運べばいい。
神様が用意してくれた『心通りの守護』という有り難いルールがあれば、もう何の心配もない。
全ての『いんねん』は自分の心一つに掛り、自分の心一つで治められる心通りの与え。
『心通りの守護』こそ人間にとって最高の喜び。
身上(病)は守護が欠けているわけではない。
神様は何一つ欠けることなく『心通りの守護』をくださる。
欠けていたのは守護を喜べぬ自分の心。
『心通りの守護』を理解するからこそ、心通りの『いんねん』に不足なく、
十分満足、十分『たんのう』の心を運べるのです。
『いんねん』と治め、身上治まる方法は『たんのう』の心。
この様に、
身上事情のお伺いに対して『いんねん』と『たんのう』は、二つ一つの切り離せない諭しとして、難儀不自由に悩み苦しむ心を治め、多くの人間を救い上げてきたのです。
身上さとしの注意
身上事情を諭す時、
ルール(因)を明確に理解していなければ、
心(縁)と身上事情(結果)だけに捕らわれてしまい、その結果、相手の心使いが悪いと責め、反省を促し、却って喜べない状況に追い込んでしまいます。
相手を救けようとして諭しているのに、相手の苦しみを更に助長し追い詰める愚行は避けたいものですね。
- 親に従わず逆らうから腎臓を病む
- 親、上級の態度を見て不足するから目を病む
- 理の運び方(お供え)が悪いから足を病む・・・などなど
正しい『いんねん』、正しい『たんのう』を諭せるように、
神様が定めたルール(因)を確りと理解して、相手を十分満足、十分堪能させてあげてください。
それが本当のお救けです。
最後に少し寄り道します。
理の仕込み
もしかしたら疑問に感じている方もいるかも知れないので補足します。
『いんねん』 = 因縁 ?
何故、神様は仏教用語を流用したのでしょうか?
教祖の教えは仏教に影響を受けたものなのでしょうか?
教祖は月日の社です。
つまり教祖の言葉は、元の神、実の神、月日親神様の言葉。
人間世界を創造した因(もと)の心を表した言葉です。
もし、教祖が仏教から影響を受けたなら、神様が仏教から影響を受けたということになり、神様より仏教の方が因(もと)・・・?
という訳の分からない状況になってしまいます。
この世に初めて神様が現れたのが天保九年十月二十三日。
この日、人類史上初めて神様の言葉が降されました。
この時、もし全く理解できない未知の言語を神様が使用したら?
人間に理解させることは非常に困難になります。
計画的に人間創造を進めてきた神様がそんなミスをするわけがありません。
初めて聞く神様の言葉をすんなり聞けるように、知恵の仕込み、文字の仕込みをして、下準備を整えてきたのです。
仏教の教義として意味を精査し、一般的な用語としても広く認知されたからこそ、神様から『いんねん』と聞いた時、大凡の意味を汲み取ることが出来るわけのです。
しかし『いんねん』と「因縁」の意味は似て非なるもの。
神様が『いんねん』と諭す時、
その言葉は人類が初めて聞く『神語』として語られるのです。
私達が認知している「因縁」の意味を超えた、深い神様の思惑が込められてた『神語』なのです。
『いんねん』だけではありません。
神様の使う言葉には、全て神様の深い思惑が込められており、『神語』として常識に囚われず、襟を正して耳を傾けなければ、神意を見失う危険をはらんでいます。
深い神様の思惑・・・
この世を遍く支配するルール(理)を諭す『神語』は、それ故に 理の仕込み と言われています。
知恵の仕込み、文字の仕込み
理の仕込み
先程も説明した通り、初めて聞く『神語』として深い神様の思惑をどこまでも探求してください。
それが陽気ぐらしに繋がる確かな道筋です。
まとめ
『いんねん』に良いも悪いもありません。
心通りの結果があるだけです。
現れた『いんねん』を良いか?悪いか?判断するのは、それぞれの心次第。
従来通りに不足するか?
それとも、『いんねん』と治めて『たんのう』するか?
どうぞ『心自由』からご決断ください。
終わりに『おふでさき』から一首、
魂の『いんねん』に関する諭しをご紹介させていただきます。
高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひい (13-45)
高山(御上、裕福、上流階級)に暮らす者も、谷底(下々)に暮らす者も魂の『いんねん』は同じ。
元の『いんねん』には上下の区別はなく、同じスタートラインにいました。
その同じ魂が、心通りの『いんねん』により、高山、谷底のごとく差異が生まれているのです。
例え今、高山で悠々と暮らしていても、元の『いんねん』が分からなければ『たんのう』出来ずに、心通りに『いんねん』が翻り、いつ何時谷底へ落ちるかしれません。
逆に、谷底で細々と暮らしていても、元の『いんねん』を治め『たんのう』すれば、心通りに『いんねん』が翻り、瞬く間に高山に上がるかもしれません。
もちろん、高山が良くて、谷底が悪いという訳ではありません。
どこで暮らしていても『いんねん』がわからなければ、心の底から喜んで暮らせません。
『たんのう』するチャンスは皆平等。
元の『いんねん』を治め、スッキリ『たんのう』できる者に陽気ぐらしの実感が訪れるのです。
これで『いんねん』の解説を終わります。
コメント
おやさまは、お釈迦様予言の下生の弥勒菩薩です。
天理教立教は陰暦天保9年10月26日・陽暦1838年12月12日であるが、みきの生誕はお釈迦様予言の数理上の出来事で仏教での釈迦再臨の予言と五五百歳の予言、及び仏教の末法思想に所謂三時の数理とに深く関係を持つ。以下に解説する。
五五百歳はお釈迦様の死後の、2500年を予言したもので、500年の5段階を示す。第一の500年は悟りを開く者が多い期間(解脱堅固)、第二の500年は瞑想を行う者が多い期間(禅定堅固)、第三の500年は仏の教えを熱心に聞き学ぶ者が多い期間(多聞堅固)、第四の500年は仏塔や寺院を建立する者が多い期間(造寺堅固)、第五の500年は互いに自説に固執して争う者が多く、正しい教えが損なわれてしまう期間(闘諍堅固)であるという。仏教団体は、五五百歳は仏教の衰退を予言、人心の乱れを予言したとの説を説く。これは信仰組織運営上に生じた、信仰集団の経営上から生まれた、いわゆる故意の誤解であると見立てられ、予言解釈に間違いがある。
お釈迦様は「耳ある者は聞け、信仰を捨てよ、甘露の門は開かれた」とお説きになり、甘露の門が開き、信仰を捨てる過程そのものが五五百歳の予言の筋道である。
悟りを聞き瞑想し、熱心に学んだり、寺を建てたり論争したりは、世にある信仰者の行為で、信仰を捨てるに至る道筋が人間社会での五五百歳ということである。
五五百歳は5×5+百で=数理125。信仰の時代から信仰衰退への数理である。
三時の数理に言う「三時」とは、信仰と言う方法で宗祖の教えを習得した後に、信仰を捨てる過程の時代の[三時]ということ。正法、余法、末法の三時とされる。
正法時代は(解脱堅固)と(禅定堅固)の期間で1000年、余法時代は(多聞堅固)と(造寺堅固)の期間で1000年、法滅時代には互いに自説に固執して争う者が多く、正しい教えが損なわれてしまう期間(闘諍堅固)で500年と伝承されているが、合計2500年に意味があり、2500年は500をプラスすれば3000年となり、三時とは法滅の500を加えての3000年のことで、みきの教えに言う「3つ身につく数理」である。
信仰として神仏を敬った三時の後の最終段階が法滅で、それは正しく信仰を捨てた姿であり、法滅になれば、仏教の教団では人心は乱れるかに説くけれど、実は教団依存の信仰が捨てられて、ひとりひとりが自立し、その後の一人一人の信心により、甘露の門は開かれた姿になると、これが、お釈迦様の説いた法滅予言である。
天台宗開祖の最澄は、平安時代に僧兵が乱暴狼藉したことについて、末法の信仰とはそのようなものだとしているが、この最澄の末法思想は正しく、お釈迦様の予言の尊重であり、信仰を捨て去るとは、仏教を信仰するが大切の信仰組織依存から脱却した進歩した姿で、即ち成人である。信仰を捨てた姿に至る三時の道筋をお釈迦様は予言され、お釈迦様の予言の本質を知る人、最澄は1052年今より末法と、時来たりを告げた。日本の歴史年表に1052年今より末法と明示されているのは予言実現を予告したもので、最澄の知恵であり、神仏は実年数で、数理上の理を歴史に示すという、正しく予言の基礎で、正しく神仏存在の自己証明の基礎をなしている。
ゆえに信仰組織はお釈迦様の教えの書庫の役割を果たしていて、仏教団は、弥勒は立教当時の現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後、56億7千万年後の未来に、この世界に現われ、悟りを開き多くの人々を救済するとの未来仏予言を伝承した。
未来仏予言などのこうした宗教の予言の数理は全て実数で理解するを基本としており、仏教信仰組織でも、予言は弥勒数(3・6数)であると解説されているように、入滅後の56億7千万後の数理567は、5+6+7=18で、三×六=18と一致していて、弥勒数(3,6)の数理の数18であるとされるように、弥勒菩薩が仏滅の後、弥勒数に従い下生する予言は、仏の救済の最大予言で仏教団が語り継ぐ。
弥勒菩薩になるべきものが、世俗を捨てれば仏陀となり信仰を捨てれば、転輪聖王となる、このことを正しく見つめれば転輪聖王こそ「不死の門」を開くお方で、信仰を捨てよの実行での救済が可能なお方だと分かる。教えを聞く耳ある者なら転輪聖王は甘露の門を開けるお方と分かるだろう。この王が世に現れるときには天の車輪が出現し、王はその先導のもとに武力を用いずに全世界を平定するとされる。天の車輪が出現すれば世界平和が来る。これはお釈迦様の予言である。即ち弥勒菩薩は太陽神であり、天の車輪に導かれ全世界を平定する転輪聖王であるとされる。
1051年に余法終了。末法開始の1052年からミロクの数理180年の1232年まで、お釈迦様の教えで「この五濁の世に出現して六道の衆生を救済する菩薩」の時期に相当し、六道の道3×6=180年の期間に相当する。予法の終わり1051年 前九年の役で武士が政治権力を得る道が開き軍政開始となり、1052年からミロクの数理180年の1231年までの六道の道の間、嘘が跋扈状態の結果の天候不順は1231年(寛喜2年)の大凶作を生み、異常気象の中で1232年(寛喜3年)の春に収穫のはるか前に僅かな備蓄穀物を食べ尽くし飢餓に陥り、所謂春窮の状態となり各地で餓死者が続出し天下の人種三分の一失す被害で、まるで新約聖書の最後の審判の日の状態に陥る。
5は命濁、自他の生命の意義が見失われ、虚しいものにされることだが、三人に一人が疫病で死ぬ地獄の有様のその前に、歴史的には、生命の意義について来世の極楽への生まれ変わりに人生の意義を認める阿弥陀教の盛んな時があり、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽に往生するの信仰が天下の人種三分の一失す被害の生じる以前に先行して存在していて、奈良、平安の時代から京都太秦の広隆寺や中宮寺に弥勒菩薩が刻され祀られて、その義は、世の中が飢餓や飢饉、疫病などの流行時の弱者の請願のためであり、民衆が仏の救いを求めて、一日も早く弥勒菩薩に下生し如来に成仏し、釈迦如来に代わってこの世を浄化し安心の世の中が続く事を懇請する。だが、仏法の法は滅し、法滅の極みに、1232年の歓喜の大飢饉となり、この世の地獄という状態が日本中を席巻した。これは1231年からの異常気象下に発生した天災で、ウイルスのまん延がもたらした疫病による死を原因としていた地獄図である。
この末法開始から180年の武家と公家の権力闘争の中心人物、後鳥羽上皇の六道五濁は皆が知る史実で、欲と高慢と女色狂い、弾圧、それが後鳥羽上皇であった。
これより末法の1052年から予言の数理「五五百歳」は125年1177年、法然、比叡山延暦寺を降り、知恩院にて念仏を説く(浄土宗の始まり)で、新宗教が誕生した。
125年は立腹の数理5、五つ理を吹くの数理5の三乗で、実は極楽浄土への道明けで、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生するとの信心が誕生した姿がそこにある。
お釈迦様預言の56億7千万年は実数567年と数え、異常気象の1231年(寛喜2年)から567年は1798年で、われは天の将軍なりと宣言の、みき誕生となる。
この事については、歓喜の飢饉の時代を生きた親鸞の史実にも、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生するとの信心道開け先導の事実が残されている。末法の世、政治の乱れと人心の荒廃が歓喜の大飢饉を生み天災が襲う直前、経典研究に没頭していた親鸞は夢にてお釈迦様から厳しく叱責を受け布教に出たが、天の将軍誕生の先駆けとして南無阿弥陀仏の極楽浄土を伝えた親鸞の功績は偉大である。
お釈迦様の予言の3時の中で、末法の世で親鸞が叱責された1231年の数理56億7千万年の時は、1231年の567年後1798年である。その寛政10年1798年4月18日(西6月2日)みき誕生。天理市三昧田町に生まれた。予言の弥勒下生の実現となる。
天保9年・1838年10月26日(西12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教したみきは教祖、月日のやしろとなると年表に記され、下生の弥勒誕生を祝った者誰ひとりいない。時は法滅の時代、それも幕末の入り口である。お釈迦様の予言は法滅状態であり、そして誰からもみきが誕生した意義が理解されない状態は長く続き、今日ただいまも、今もみきが下生の弥勒菩薩であるとは坂井以外に知る人を知らない。今の所、坂井のみ、みきがてんりんおうである。弥勒菩薩であるを語る。みきは受け取る。
女は実在し、神の残念を、一方的に天罰し続ける。坂井は、女に、元の優しい親に戻ってと、お願いし続ける。
コメントありがとうございます。
何を伝えたいのでしょうか?
寿限無の怪しい天理教用語解説は釈迦を無視し、元を正しく説かない。。
これは、悪である。
第十号四八
しんぢつにこの元さいかしいかりと
しりたるならばどこいいたとて
第十号四九
このはなしなんとをもふてきいている
これとりつぎにしこみたいのや
第十号五〇
どのよふな事を月日のをもうにハ
にんけんもとをこれせかゑぢうへ
筆先には、元を仕込みたいとある。が、寿限無は、枝先を説くだけで、しかも怪しい。
みきに、呪詛する。
「しかも怪しい」
それって坂井氏の感想ですよね?
え?真柱って天啓者なの?
具体的に真柱の降した天啓を教えてください。