今回の投稿はシンプルな疑問を検証してみます。
題して…
全人類が天理教を信仰したら世界平和は実現するのか?
全人類が天理教を信仰してくれたら…
こんなIf、天理教信者であれば、一度や二度、イヤイヤ、もう毎晩のように妄想するのではないでしょうか?
そして、その未来を願い続けていることと存じます。
それ故に今回の問いに対して、当然のことながら、天理教を信仰している方々は『YES!』と答えると思います。
それでは天理教以外の方は?
筆者の考えでは、天理教以外の方に聞いても『YES!』と答えると考えます。
筆者の答えも『YES!』。
なぜ『YES』かと言うと、これは天理教の好き嫌い、または知る知らないに関わらず、一つの思想の元に結束すれば国同士・人間同士が争う理由がなくなる…という論理的根拠からの『YES!』。
勿論、その思想が平和を目指すことが前提であり、天理教の思想が世界一列陽気ぐらしの実現であるなら、平和の対義である戦争状態に陥る可能性は限りなくゼロに近づきます。
しかし、この趣旨ならば、『平和を目指す思想』であれば天理教に限らず、他宗教・政治団体・秘密結社でも漏れなく世界平和は実現すると言えますね。
平和(へいわ、英: peace)は、戦争や暴力で社会が乱れていない状態のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C
一つの思想の元、世界から争いや戦争状態は無くなれば、人々は幸せに暮らせるでしょうか?
もし、その思想が徹底した共産管理主義で、財産・住まい・衣服・食事・仕事も全て平等の名の元に強制的に決められ、学問・レジャー・娯楽も思想に適した内容しか許されず、自由恋愛も禁止され、婚姻から出産まで管理されるとしたら?
まあ、生活が保障されるし他人の指示に従って生きる方が楽と感じる人もいるかもしれません。
しかし、この思想が合わない人間は不幸を感じるでしょう。
思想が自由であれば、戦争や他人の幸福を奪うことも自由の範疇なので、どちらも一長一短ありますが、もし万人が完全に幸せを感じられる思想があれば、一つの思想に結束する方が理想的ですよね。
それでは、天理教の思想ならどうでしょうか?
天理教では『感謝・慎み・たすけあい』のスローガンを掲げていますが、これは人間創造の元の神(月日)の目的が『人間の陽気ぐらし(遊山)を見て共に楽しみたい』である事から、天理教信者の信仰目的も『世界一列の陽気ぐらし』であり、その為に必要な思想が『感謝・慎み・たすけあい』という三つのワードに纏められていると思われます。
故に、天理信者にとって最大の関心事は『陽気ぐらし』の実現に他なりません。
そこでタイトルの文字を少し変更してみました。
Q:全人類が天理教を信仰したら陽気ぐらしの世界は実現するのか?
『感謝・慎み・たすけあい』をベースにした『陽気ぐらし』の思想は、世界平和の実現に加え、万人に幸せを感じさせる完璧な思想に思えますが?
しかし、天理教以外の方々は『NO!』と答えると思います。
筆者の答えも勿論『NO!』。
『感謝・慎み・たすけあい』という高邁な思想が世界の主流となれば、全ての人間にとって住み良い社会になる事は間違いないでしょう。
それでも、答えは『NO!』。
なぜ『NO!』なのか?
その理由を説明する前に、天理教が目指している『陽気ぐらし』について少し調べてみましょう。
天理教のHP『陽気暮らし』のページに詳しい解説が掲載されています。
人間世界の創造主である月日親神様は、『人間の陽気暮らしを見て共に楽しむため』に人間創造を始められました。
以下はその根拠を示す神様のお詞。
いまゝでと心しいかりいれかへて
よふきつくめの心なるよふ
(おふでさき 十一号53)月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから
(おふでさき 十四号25)皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。
めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。
(おさしづ 明治30年12月11日)
そして、同ページには『陽気ぐらし』をQ&A形式で解説しています。
Q:陽気ぐらしとは何ですか?
陽気ぐらしとは、私たちをはぐくみ育てる大自然を司る親神様の恵に感謝し、そのご守護に生かされ生きている喜びを身体いっぱいに感じながら、私たち人間が互いに尊重し合い、救け合って暮らす、慎みある生き方です。Q:どのようにして陽気ぐらしを実現するのですか?
人間創造の目的である陽気ぐらしへのたすけの手立ては、教祖を通して教えられました。それが「つとめ」と「さづけ」です。多くの信仰者が「つとめ」と「さづけ」を通して困難・苦労を抱える人々にたすけの手を差し伸べることで親神様が望まれる「陽気ぐらし」という生き方が世界中に伝わっていきます。Q:悲しくつらい出来事は世の中にたくさんありますが、それでも陽気ぐらしはできるのですか?
日常生活に生起する出来事には、それがたとえ病気や問題といった辛く苦しい人生の節となるような出来事であったとしても、そこには「あなたを陽気ぐらしに導きたい」と願う親神様の思召が込められているのです。天理教では「心通りの守護」と教えられます。人生に起こった出来事を通して今までの心遣いを振り返り、教えに照らして日々の心遣いを改めること大切です。いかなる境遇にあっても、心の用い方一つで陽気ぐらしへの道を切り開くことができるのです。
この解説を読んで改めて質問を繰り返します。
Q:全人類が天理教を信仰したら陽気ぐらしの世界は実現するのか?
この解説を読めば尚更、天理教以外の方々は『NO!』と答えると思います。
筆者の答えも変わらず『NO!』。
では、天理教を信仰している方々は?
『全人類が天理教を信仰したら陽気ぐらしの世界は実現する』と言えるでしょうか?
もしかしたら自信を持って断言できる方は少ないのでは?
そんな印象を持ちます。
なぜなら現状の天理教を信仰している方々を見れば、先のHPで解説されてる『陽気ぐらし』を実現している様には全く感じられないからです。
天理教が解説する『陽気ぐらし』が世間の目に映っているとは到底思えません。
天理教の本拠地である地場には沢山の信者が訪れますが、その方々は『陽気ぐらし』を実現しているのでしょうか?
いえいえ実現できる道理がありません。
だって信者に模範(ひながた)を示すべき真柱や本部員ですら『陽気ぐらし』を実現していなのだから、彼らを指針としている末端の信者に陽気ぐらしが実現できる道理が無いのです。
えっ?
根拠はあるのか?
それでは、先ほどのQ&Aに沿って、現在の天理教団が『陽気ぐらし』していない理由を反論していきます。
Q:陽気ぐらしとは何ですか?
陽気ぐらしとは、私たちをはぐくみ育てる大自然を司る親神様の恵に感謝し、そのご守護に生かされ生きている喜びを身体いっぱいに感じながら、私たち人間が互いに尊重し合い、救け合って暮らす、慎みある生き方です。反論:
真柱はじめ天理教本部一同は末端信者のお供え(献金)により一方的に救けられ暮らして居るのでは?
大教会、教会も同様ですが、末端信者が汗水流した代価に恩を着て暮らして居るのでは?
その恩に報いるため、末端信者に何を返しているのか?
少なくとも天理教の上下関係において救け合いが成立しているとは言い難い。Q:どのようにして陽気ぐらしを実現するのですか?
人間創造の目的である陽気ぐらしへのたすけの手立ては、教祖を通して教えられました。それが「つとめ」と「さづけ」です。多くの信仰者が「つとめ」と「さづけ」を通して困難・苦労を抱える人々にたすけの手を差し伸べることで親神様が望まれる「陽気ぐらし」という生き方が世界中に伝わっていきます。反論:
宗教年鑑 令和元年版の統計では天理教の信者数が1,201,587人と記載されているが、宗教年鑑 令和5年版では天理教の信者数が1,151,639人と減少しています。
令和だけ見ても年々信者の絶対数が減り続ける中、「つとめ」と「さづけ」で一体何人の困難・苦労を抱える人々にたすけの手を差し伸べられたと言うのか?
この数字が物語るのは「陽気ぐらし」という生き方が伝達されていない事実。Q:悲しくつらい出来事は世の中にたくさんありますが、それでも陽気ぐらしはできるのですか?
日常生活に生起する出来事には、それがたとえ病気や問題といった辛く苦しい人生の節となるような出来事であったとしても、そこには「あなたを陽気ぐらしに導きたい」と願う親神様の思召が込められているのです。天理教では「心通りの守護」と教えられます。人生に起こった出来事を通して今までの心遣いを振り返り、教えに照らして日々の心遣いを改めること大切です。いかなる境遇にあっても、心の用い方一つで陽気ぐらしへの道を切り開くことができるのです。反論:
天理教の信仰者は身上の仕込みを頂くと、神様ではなく当たり前の様に医者薬を頼るのでは?
教祖が諭し一つで身上を治められたのは『心通りの守護』の働き故。
『心通りの守護』は心の治め方一つで身上も治まる道理なのに、『医者薬も神様の守護』と自らの信心を欺き、表面的な治療を『神様の御守護』と嘯く信仰態度は、自身の心根に向き合わず人間心を放置しているも同じこと。
これら筆者の反論に対して、天理教信者なら逆に反論した気持ちもあるでしょうが、これは一つの意見として受け取っていただきたい。
教祖(おやさま)の教えに照らし合わせるなら『世界は鏡』です。
もし本当に天理教団が『陽気ぐらし』を実現しているなら、世間へ向けて布教活動しなくても自ずと伝わるはずです。
しかし現実には信者数は減少の一途。
『真実誠は一粒万倍』ならば、1人の陽気ぐらしが実現したら10000人に伝わるのが道理。
現状の天理教団と信仰者を見れば、その未来を察することは可能です。
現状で陽気ぐらしが実現出来ていないのに、どうして未来において実現できると言えるのでしょうか?
えっ?!
まだ道半ば??
教祖が出直されてから140年近い年限がたつと言うのに、未だ陽気ぐらしは実現していません。
本席様が出直された以降、親神様の啓示を頂けない年限が長く続いていると言うのに、この先、陽気ぐらしが実現できる根拠は何処にあるのでしょうか?
後何年信仰を続ければ陽気ぐらしの世界が訪れるのでしょうか?
世界を見渡せば、戦争、ウィルス、自然災害、貧困・飢餓、モラルハザードなど、陽気ぐらしには程遠い現実が蔓延していますが、その一方で、平均寿命は延び、あらゆる面で生活が豊かになり、社会インフラ・社会福祉の充実など互い救け合いの精神も育まれ、昔よりは陽気ぐらしの世界へと移行している面も間違いなくあるでしょう。
しかし、そこに天理教団の働きはあったのでしょうか?
天理教の機関紙や信者たちのSNSに目を通すと、むしろ世間の後追いをしている感が否めません。
最近では若い信者を中心に、時代遅れの教義解釈(陰気で封建的な)に異を唱える風潮も出てきましたが、世間の感覚から比べたら周回遅れ、『ようやく天理教も世間の感覚に少し近づいて来た』と呆れられるのが関の山。
先ほどのQ&Aで反論した通り、世界で唯一『陽気ぐらしへの道筋』を知っているはずの天理教団が、自らの教義を実践せず、真実誠の種蒔きをしていないのだから、陽気ぐらしの実が成る道理がありません。
そして『NO!』を突き付ける最大の根拠とは!
実は、何を隠そう天理教の先人が示していたのです。
天理教の歴史のおいて、『世界中を天理教徒にする』を実践しようとした動きがありました。
その走りが大正から昭和初期頃にかけて行われた『教勢倍加運動』。
四百万ある信徒を倍の八百万にし二十万の教徒を四十万にしッ
二万の教師を四万にしッ
四千五百の教会を九千にするのでありますッ
すべての面で勢力を二倍に同化しようというのでありますッ
『劇画 教祖(おやさま)物語』
この様に信者に号令を掛け、鼓舞した結果、用木や教会は飛躍的に増えて『世界中を天理教徒にする』の理想に一歩近づいた…かに思えました。
しかし実際に増えたのは数字の上だけ。
天理教関係者なら御存じの通り、現在では増えすぎた教会が、信者数の実体に追い付かず、今では3分の2が教会の体を為さない事情教会と囁かれる始末。
教会や信者数を倍加して『世界中を天理教徒にする』を試みた結果、末端の信者は自教会や上級教会を支える為の負担ばかりが増加し、尚且つ、少しでも本部の方針に異を唱えるなら『不足・異端』として信心を断罪(セルフ断罪も含む)されるのだから、悪い状況が改善される訳がありません。
この歴史的事実が物語るように、例え数字の上だけ教会や信者を増やしても、理想通りに運ばないことは先人達が証明済みなのです。
人間心を幾ら増やしたところで、人間心は人間心。
数を増やせば自然と神心へとジョブチェンジする訳がありません。
『真実誠は一粒万倍』と教えられる通りに、1人の真実誠、つまり1人が陽気ぐらしを実現すれば10000人に伝わるのだから、『数ではなく1人の真実誠』が必要なのです。
現在の地場において、『1人の真実誠』があるかと言えば疑わしい限り。
Q:全人類が天理教を信仰したら陽気ぐらしの世界は実現するのか?
現状を顧みたら答えは『NO!』と言わざるを得ません。
そして、これとは別に、もう一つ『NO!』を後押しする根拠があります。
それは分派の存在。
wikipediaの情報によると教勢倍加運動と『時を同じくして分派団体が多く発生している』。
以下がその一覧。
天理教から直接分派した団体
- 転輪王教会(1865年、奈良県)
- 天輪王明誠教団(1888年、横浜市)明誠講社が教派神道神習教天輪王明誠教団として独立、1940年の宗教団体法施行に際し、神習教から独立するか残留するかをめぐって二派に分裂した
- 大道教(1900年、奈良県)飯田岩治郎が教派神道神道大成教大道教会として独立。戦後大成教から独立している
- 井出国子の朝日神社(1907年ごろ、兵庫県三木市)井出クニの神がかりにより独立
- 茨木一派(1911年、奈良県)茨木基敬の神がかりにより独立、真道会とも
- ほんみち(1925年、大阪府高石市)大西愛次郎の神がかりにより天理研究会として独立
- 太道教(1940年、東京都杉並区)中村しげの神がかりにより太道教々檀として独立
なぜ、ここで天理教の分派に触れたかと言うと、最初の疑問にあげた『全人類が天理教を信仰したら世界平和は実現するのか?』の問いにも深く影響を及ぼすからです。
分派の存在は、天理教の思想が一つに纏まっていない状況を如実に示しています。
つまり天理教の思想自体が一つに纏まらず、思想の対立を生んでいる状況なのだから、そもそも『一つの思想の元に結束する』という前提から外れてしまうのです。
もっとも分派は除外して、現在、お地場を占拠する宗教法人天理教の思想のみに世界を纏めるという趣旨であれば、『一つの思想の元に結束する』ことも可能と思われるかも知れない。
だが果たしてどうだろうか?
天理教の現状を見渡せば、今でも天理教批判は鳴り止まず、天理教信者の中にも不満を抱える者も多いと聞く。
この状況で『天理教の思想が万人に幸せを感じさせる』と言えるだろうか?
現天理教のシステム(集金や封建的な上下関係等)を最高の喜びに感じるのであれば、それも可能かも知れないが、現状を顧みたらまず『無理!』と言わざるを得ない。
本部・大教会などの上層部だけが富み、下々は貧しい生活こそ美徳と信じこまされ、上(親)に尽くすことが徳積みと教えられる状況だけを見ても、世界ろくじ(均一)に踏み均すと宣言された親神様の思想を真っ向から否定している。
自ら貧に落ちきることで既得利権(※)を崩された教祖(おやさま)の雛形など何処吹く風。
※中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる裕福な家柄。
人それぞれに因縁や徳分があるのは承知しているが、天理教の思想を持たない一般社会は貧困層のセーフティネットなどの社会福祉に力を入れて、因縁や徳分をフォローしながら皆が住み良い社会の実現に向けてとっくの昔に動いている。
一方、天理教団はどうだろうか?
信者を因縁で縛り、徳分に甘えて恩に恩を着ているのでは?
自信を持って教祖の思想に正道と言えるのだろうか?
分派が派生する要因は、分派側だけに問題があるわけではなく、現天理教団の思想自体に分派を生み出す根を宿していると筆者は考えている。
つまり今後も思想の対立、分裂、分派の可能性はゼロではない。
まあ、これは了見が狭く行き過ぎた筆者の個人的感想かも知れないが、外部から眺めたら、その様に見える一面も自覚するべきだし、自身の考えに謙虚であることに越したことはない。
天理教信者が他宗教や国会議員の不祥事に眉をひそめる様に、周りも同じ様に天理教を見ているのだから、天理教団は教えに従い『世界を鏡』として己を顧みる信仰態度を崩すべきではない。
いつでも自身や組織をより良い方向へ改善できる。それが本当の心自由であり陽気ぐらしへの確かな道筋。
もし、その信心が無ければ『悪因縁の抹消』など言うだけ無駄、絵に描いた餅。天理教の発展など望むべくもなく、『感謝・慎み・たすけあい』のスローガンも鼻で笑われるだけ。
結論として、今の状況であれば、最初の疑問に対する答えも変更せざるを得ません。
全人類が天理教を信仰したら世界平和は実現するのか?
答えは『NO!』。
筆者は投稿の中で新たな気づきを得て意見を変更しましたが、今回の投稿以上に新たな気づきに出会えれば何時でも意見を変える心積りです。
感想、反論などお聞かせ頂ければ幸いです。
おわり
コメント
私達は人間で神様には成れないのだから とご意見ですが、
これは、ちょっとした勘違いです。
第七号一一一
この世の世界の心、勇むなら、月日、人間、同じことやで。があります。
教祖が出直されてから140年近い年限がたつと言うのに、未だ陽気ぐらしは実現していません。
本席様が出直された以降、親神様の啓示を頂けない年限が長く続いていると言うのに、この先、陽気ぐらしが実現できる根拠は何処にあるのでしょうか?
後何年信仰を続ければ陽気ぐらしの世界が訪れるのでしょうか? と疑問のようです。
啓示はもうある。
それが理解できないので、実現が遅れていますね。それだけです。
真柱はじめ天理教本部一同は末端信者のお供え(献金)により一方的に救けられ暮らして居るのでは?
大教会、教会も同様ですが、末端信者が汗水流した代価に恩を着て暮らして居るのでは?
その恩に報いるため、末端信者に何を返しているのか?
少なくとも天理教の上下関係において救け合いが成立しているとは言い難い。
今の時代、献金は減少です。信者でも、特別なことがなければ、一円もしないでしょう。
感覚が古い。
宗教の濡れ手でアワは、死語の世界です。PLだって儲からなくて・・天理教も儲からない。
貧乏通ることです。神の望みです。貧乏せ。いっぽん道です。
私達は人間で神様には成れないのだから とご意見ですが、
これは、ちょっとした勘違いです。
そんな意見は投稿していないと思いますが?
本文にありましたっけ?
天理大学岸学長の、関係で、老会長が生活保護を受けていた。それで、乗り込んで、年寄りを、面倒見ろと、坂井は説教しました。そしたら奥さんは泣いて、「私たち何もできません」という。
それが天理教の、しんばしらの身内の事情です。金があるだろうというのは錯覚で、誰も自由に動かせないのだそうです。
教会の信者に話しかけて、信者が教会に入って、老会長の生活ができるようにした。
天理大学大久保学長の裕福とはまるで違っていましたね。
教会を持っていると、献金で自由になる人もいる。大教会とか、有力分教会とか。
それって、かわいそうなのですよ。
必ずみきは、天罰する。本人の身体に攻撃もする、子ともに不自由な重病をだす。
呪詛してやれば、神さまは、お望み通り、天罰を返します。
理というものは、みきの自由自在です。教えておいてあげます。変な天理教見かけたら、かわいそうになあ、です。みきにお任せしたらよいのです。
天理教上層部でも色々ですね。
それにしても 天罰する みき って方恐ろしいですね。
jyugem より: 天罰する みき って方恐ろしいですね。 あなたがお考えよりはるかに恐ろしい方です。
困ったことに、病助けは正しさの証明です。そこに三日殺しがあって、二つ一つに正しさの証明です。
だから、きちんと呪詛しなければなりません。
この世界の掃除には、理と事実と言う、証拠が必要です。
善のひな型、悪のひな型は、理の証拠です。
道に学問いらんと言われているのに、 坂井が最初に出会った知識人は、天理高校校長で塩谷寛先生が最初の方である。小学生の坂井は、父母に仕込まれた。お前は塩谷先生のような信仰者に成れるかと。
世界中の誰ひとり天理教を信じない時がきても、私はひとり、おやさまに付いていくと、堂々宣言した方であり、父母は、尊敬し、私とは、仲良くして下さったが、道に学問いらんに、外れた。
合えば、「坂井君、君は信念が強すぎる」と、坂井の過激を戒めようとされた。
信心の固まりの先生は、二代真柱様信仰の塊で、天理教育に純粋な方だった。だが教えに背いた。
天理大学関係では、天理大学学長大久保昭教先生は彦根分教会の会長であるが、彦根分教会の布教所が坂井の家の近くにあって子供の頃そこでしばしば出会っていた。小学生の頃から私に一目置いていた。
坂井とは顔見知りという事だけでなく、坂井とは松本市の実業家の信者(坂井の布教所に奥さんが参拝していた)をどこに帰属させるかという件で面談している。坂井は求められ、帰属先を彦根に差し上げた。
は所属を彦根分教会の信者となった。
大久保さんは天理教では著作物を出している知識人だが、坂井にはいつも下も手に出ていた。
印象でいえば信仰者の匂いはなく、それは本人も認めていて、坂井を信心において立てるようにし、いつも、比較して自分の無信心を認めていた。
天理大学学長の橋本武人先生は、おさしづ研究の本を出されていて、該当布教もしていて、温厚な人格者であるが、信心として優柔不断で、お目にかかった時、助かりにくいと見えた。
何れにしても、どの方も、天理教団組織擁護に徹していると見えた。
愚かである。全員が、道で、学問にいた。それも上層部にいた。
坂井ならさっさと降りる。みき って方恐ろしい。裏切られても、顔色一つ変えないで、天罰する。
坂井も理が分からず、頼まれて家庭教師して、東大受験性を現役合格させている。
坂井の子にも、学問教えて、東大に入学させている。恥かしい事だ。
理を知らぬという事は、恥ずかしい事だ。まして聞いていて、道に学問いらんのに、子に教え込んでいた。
だが、知らぬ間はそのままだが、みきは笑顔で、許さない。
ここに書いておかないと、学問が必要と間違う人が出てしまう。止めておきましょう。