異端と言う勿れ – おやさまは異端に厳しかったのか?

異端と言う勿れ天理の考察

今回は天理教の異端問題について考えを述べたいと思います。

この記事を投稿する動機になったのが、SNSに定期的に流れてくる下記のポスト。

Xポスト

おやさまは異端にだけは厳しかった

このポストを要約すると、『異端に厳しく対応するのが、おやさまのひながた』。
つまり、おやさまのひながたを擬える天理教信者たちも、異端に厳しく対応するのが天理教の正道と解釈できます。

筆者はこのポストを読むたびに違和感をおぼえていました

教祖(おやさま)は異端に対して本当に厳しく対応したのだろうか?

『異端』と聞くと、中世(13~18世紀)のキリスト教世界で異端排除のために行われた魔女裁判(魔女狩り)を連想し、何か得たいの知れない禍々しいさを感じる方も多いかと思われます。
『異端』は一般的に良い意味で使われる言葉ではありません。

『異端』の意味を調べてみると…

宗教において、正統を自負する教派が、正統とする教理・教義に対立する教義を排斥するため、そのような教義をもつ者または教派団体に付す標識。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E7%AB%AF

正統を自負する教派にとって、対立し、排斥の対象が『異端』と呼ばれる。
つまり、『異端』と見做された側は弾圧の対象にも成り得るという事です。

本当に、あの優しい教祖(おやさま)が一列可愛い我が子を『異端』と見做して厳しく対応したのでしょうか?

先のポストは、教祖(おやさま)ご存命中に起きた『助造事件(1865年)』を根拠にしていると見て間違いないでしょう。

天理教道友社から刊行された『劇画 教祖(おやさま)物語』にも詳細に描写されているので、天理教界隈では最初に起きた『異端事件』として広く認識されているようです。

劇画『教祖物語』

筆者も『劇画 教祖(おやさま)物語』は愛読していますが、それ故に『おやさまは異端にだけは厳しかった』と断言するポストには違和感を覚えていたのです。

この違和感を『劇画 教祖(おやさま)物語』の『助造事件(1865年)』の項目から引用して説明させて頂きます。

ナレーション
このころお屋敷の東の方面にも教えがひろまり多くの人が参拝していたが、その中に針ケ別所村の助造という男がいた。
この助造。目の病をたすけていただき、よくお屋敷にかよってきていたが急に姿を見せなくなった。

ここで唐突に人語を解するネズミと猫が登場する。

ネズミ:どうしてこのごろお屋敷に行かないのかなぁ?

猫1:助造さん、よからぬ考えをしているようやで。

猫2:へえ、恩を仇で返すつもりかね。

猫1:ねこ道にもおとるね。

猫2:ちかごろの人間は信用できないからにゃ~。助造はん、神様がこわくないのかにゃ?

そして助造が大見得を切る。

助造:
よいか!庄屋敷村の神様(おやさま)というのは、ここの神様の分家のようなもの、こっちが本拠じゃ!!
信心するならここの神を信じなされ!

信者一同:(無言で驚きの表情を浮かべる)

目の病を助けられ教祖(おやさま)に恩があるはずの助造が、何を思ったか教祖(おやさま)の教えと異なる教義を流布し始めたのです。

この事はお屋敷にも伝わり、教祖(おやさま)も何を思われたか30日間の断食を敢行した後、68歳の身でありながら五里(約20キロ)の山道をものともせずに歩き続け、並々ならぬ様相で針ケ別所村の助造の元へ赴かれた。

教祖:伊蔵はんに忠七はん、助造宅のご幣を取りはろうてきなされ。

伊蔵、忠七:はい!

ナレーション:二人は助造宅のご幣を二つに折り…台所で燃やした。

この時の珍しく厳しい教祖(おやさま)の態度から『教祖は異端に厳しかった』と感じた方も多いようです。

Xポスト

助造事件で検索すると先頭に表示される『針ヶ別所村事件』の冒頭にも「異端・異説(内からの反対攻撃)に対しては、とても厳しい態度で臨んでおられます」と書かれています。

教祖は、文久、元治の頃から始まった近在の神職、僧侶、山伏、医者など外部からの反対攻撃には、“ほこりはよけてとおれ”と、穏やかに対処しておられるのですが、異端・異説(内からの反対攻撃)に対しては、とても厳しい態度で臨んでおられます。

https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000w4ev4-att/GT186-Fukaya.pdf

確かに何時になく厳しい態度で臨まれていますが、その厳しさは『異端に対する厳しさ』なのでしょうか?
筆者の感想では全く違う印象を受けます。

そもそも劇中に『異端』という言葉は一度も登場しないし、教祖(おやさま)ご自身は助造を『異端』と見做している様子は読み取れません。
その続きを読めば分かりますが教祖(おやさま)は対立や排斥を望まれたのではなく、助造と向き合い改めて理を説き聞かせています。

ナレーション
金剛院の後ろ盾を得た助造と教祖(おやさま)の談判は三日も続いた。
だがしょせん教祖(おやさま)の説かれるお話しにかなう金剛院と助造ではなかった。助造が教祖(おやさま)に平謝りに謝り助造事件は落着した。

このように助造が自身の非を認めた描写されています。

助造誤り

教祖(おやさま)は助造の理に外れた行いに対し、金剛院を交えた談判とは言え、三日の時間を費やし懇切丁寧に理を説き聞かしたのです。

三日ですよ?
厳しいと言えば厳しいですが、これは助造を『異端』として糾弾している訳ではなく、親神様の理を分かるまで説き聞かす親心に溢れた態度ではないでしょうか?

教祖(おやさま)は助造の素直な心に『理』を与えたのに、その約束を反故にすれば『理』を取り上げられるのは当然です。

『肥のさづけ』や『扇のさづけ』も自分の欲の為に使えば理は働かない。
『悪しき払いのさづけ』も幾ら助けを願おうとも理に合わねば効果はない。

不思議を司る主体(守護の主体)は親神様にあるのだから、理を外せば自ずと効能を失う定め。
故に教祖(おやさま)の立場なら、助造を放置しても何も問題はない訳です。
間違った教えが広まろうが、親神様が守護しなければ『かしもの・かりもの』は微動だにしないのだから。

それなのに教祖(おやさま)は五里(約20キロ)の山道、金剛院の後ろ盾も承知で助造の元へ出向かれたのです。
助造をほっておけない、助造を救けたい一心の親心。
恩を仇で返す相手にさえ、いえ、だからこそ普段以上に自身を厳しく律した上で助造に対峙したのではないでしょうか?

教祖は異端に厳しかった』と言われる真相は、教祖(おやさま)が自分自身に課した厳しさに思えてなりません。

なぜなら、『見る理』は教祖(おやさま)自身にもあるからです。

理に反する助造の行動は彼だけの問題ではなく、教祖(おやさま)自身の問題(見る理)と重く受け止め、断食も自身の心(親神様)と深く向き合う期間だった…と考える方が『教理』として妥当に思えるのです。

そもそも、あの教祖(おやさま)が可愛い我が子を『異端』として切り捨てるなんて有り得るでしょうか?

『教祖(おやさま)のひながた』を言うのであれば、その親心に焦点を当てるべきであり、『異端に対して厳しい姿がひながた』など的外れに思えます。

助造事件で見せた親心こそ、教祖(おやさま)のひながたではないでしょうか?

これが筆者が抱いた違和感です。

このように天理教公認書籍(分かりやすいマンガ形式)に詳細が記されているにも関わらず、『異端に対して厳しかった』と発言する信者が一定数います。

その結果、『教祖(おやさま)は異端に厳しい排他的な人物だった』と誤った印象が流布されれば、教理をよく調べもせずに信仰している人達は「異端には厳しくしてもいいのか、いや、むしろ厳しくするのが教祖(おやさま)のひながた!」と勘違いし、まるで魔女裁判(魔女狩り)が横行した中世のごとく、迂闊に自説も述べられない閉鎖的なカルト教団に陥いる可能性だって出てきます。

Xポスト

このポストのように対立教義を悪と見做し、『異端』の烙印を押すことで禍々しい印象を与え自己判断を奪う(実際に自分の目で見て、自分の頭で考えようとさせない)妄信的信仰を喧伝する方もいます。

筆者には、助造に対峙した教祖(おやさま)とは対照的なあからさまな敵対行為に思えます。

天理教から分派した方々も宗教法人天理教や他の宗教団体と同じく、社会で生活を営む一般人です。
天理教団とは異なる教義解釈をしているだけで犯罪を冒している訳ではありません。
『異端』という色眼鏡(先入観・偏見)かけると、邪教を信じる危険分子に見えるのでしょうか?

相手のことを良く知りもしないのに、教義の解釈が違うというだけ、まるで詐欺集団のような印象を流布する行為。
これが、教祖(おやさま)のひながたに擬えた信仰の形なのでしょうか?
天理教の人たちは皆、同じ考えなのでしょうか?
このポストに賛同する人たちも少なくありません。

なぜ、天理教の正道を自負する側が、教義解釈の異なる側を排斥する攻撃的な行動を取るのでしょうか?
自らの正統性を確信しているなら、理に一点の曇りが無いはず。
教祖(おやさま)のひながたに一点の曇りが無いなら、誰であろうと同じ魂を持つ兄弟姉妹。

教義解釈の是非は実際のところ水掛け論にしかなりません。
教義の真偽を示せるのは親神様ただ一人。

だが、心の姿は一目瞭然。

・敵対
・憎悪
・侮蔑
・差別
・排斥
・弾圧

他者を『異端』と見做す心に、教祖(おやさま)のお姿は見る影もありません。

異端と言う勿れ

『異端』という色眼鏡(先入観・偏見)をかけて他者を見る時、その心は悪意に支配されているのだから。

異端の色眼鏡

おわり

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