異端と言う勿れ2 – 神の名を借る悪魔

天理の考察

今回も前回に引き続き天理教の異端問題について考えを述べたいと思います。

前回は『おやさまは異端に厳しかったのか?』をテーマに、天理教の異端問題を掘り下げました。
メインテーマである『異端と言う勿れ』とは、筆者自身が異端問題に日頃から抱いている感想を端的に表現した言葉です。

異端と言う勿れ、人様のことを異端呼ばわりしない方が賢明だよ。

『他者を異端と呼ぶ心は悪意に支配される』
これが前回の結論でしたが、今回は筆者の体験を交えて更に深堀したいと思います。

ご存じの方も多いと思われますが、天理教には歴史的に多くの異端問題が発生しています。

weblio辞書:『宗教法人天理教から分立・影響を受けた団体』を参照すると、天理教から直接分派した団体は以下の通り。

weblio辞書:『宗教法人天理教から分立・影響を受けた団体』

しかし、このサイトの説明はあくまで『分派』であり、『異端』として紹介されている訳ではありません。

当然ですが、外部(世間)から見たらあくまで『分派』。
『分派』とは『主となる勢力から分かれて別に一派をなすこと。また、その一派。』と定義されてるので、現在、主となる勢力にあたる『宗教法人天理教』から分派した団体として認識されているに過ぎません。

それでは何故、天理教の方々は『分派』した団体を『異端』と呼ぶのでしょうか?

『異端』の定義を調べると理由が明らかになります。

宗教において、正統を自負する教派が、正統とする教理・教義に対立する教義を排斥するため、そのような教義をもつ者または教派団体に付す標識。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E7%AB%AF

正統を自負する教派が、正統とする教理・教義に対立する教義を排斥する対象が『異端』と呼ばれる。

正統を自負する教派にとって『分派』の存在は好ましいものではありません。

一つの宗教に異なる教義が乱立することは、正統を自負する教派にとって健全なる宗教活動の妨げになります。
正統を自負する教派よりも、分派の主張する教義の方が信じるに値すると感じれば、新規信者を獲得する機会が減少するどころか、既存の信者を失う可能性すら出てきます。
魔女裁判が起きた中世(13~18世紀)のキリスト教世界とは違い、現在は信仰の自由が保障されているので、表立った反対攻撃や弾圧を加えることは許されません。

しかし、中世と変わらず効果的な方法が存在します。
それが『異端』というワード。

分派に対して『異端』のレッテルを貼り付ける
たったこれだけで、正統派vs非正統派善vs悪の構図を印象付けることが出来るのです。

○✖教団は天理教の異端なんだぜ。
神様に反旗を翻す邪教だから近寄らない方が身のためだよ。

わー怖い!神様に歯向かう悪魔みたい!
滅んでしまえばいいのに!

たった一言『異端』のレッテルを貼るだけで、自らの正統性を担保した上に対立教派を貶められる便利なワード。

あくまで『正統を自負する』なので、現在主な勢力である宗教法人天理教はもとより、我こそは正統を自負する分派側にも当て嵌まります。

お前らは天理教の異端!
間違った教義を広めて教祖を蔑ろにしている!

天理教こそ異端!
教祖の教えを恣意的に曲解して神様を冒涜している!

まさに一触即発。
行きつく先は宗教戦争でしょうか?

『異端』のレッテル貼りは誰もが手軽に使え、尚且つ訴求効果も期待できますが、その反面、災いをもたらす諸刃の剣に成り得るので取り扱いには注意が必要です。

元々宗教とは神という絶対善に信を置いているので『私の信仰は絶対に正しい』と信じている方が殆ど。
我が宗教以外は全てが悪(救済の対象)であるから、世間の反発や他宗教の教義は神に対する反抗に映るので、信仰心が強ければ強いほど排他的思考になり、他言を聞き入れず自身の誤りを顧みることが難しくなります

その結果、天理教以外にも信仰に起因した様々な問題が起きています。

  • 子供の輸血を拒否して死に至らしめる。
  • 家族が飢えても財産を献金し続ける。
  • 崇拝対象である教祖の一言で殺人も善行に変わる。

絶対善である神様の仰ることは絶対に正しい。

絶対に正しいと信じられることは素晴らしく、それで心が救われる事もあると思いますが、その結果、周りを不幸にする信仰は害悪でしかありません。一体、誰の目に神の姿が映るでしょうか?

『善』を妄信するあまり悪行すら善行と信じて疑わない危険思考。
妄信状態に陥る可能性は、信心に重きを置く宗教の性質上、誰の身にも起こる問題として十分心得る必要があると思います。

この様に、唯でさえ妄信と紙一重の信仰に、『異端』のワードが追加されたら?

我々は『神に与する善』、分派は『神に反する悪』。
我々は神の陣営、分派は神の名を借る悪魔
悪魔は滅びる対象。
我々は悪を滅ぼす聖戦に挑む天使の軍勢!

その結果、神の名の元に、神の名に泥を塗る行為が平然と行われる。

天理教に例えると、教祖の名の元に『教祖(おやさま)のひながたに反する心使い』が行われるのです。
もし、分派が異なる教理解釈で神に反抗していると言うなら、異端のレッテルを貼る側も教祖(おやさま)の教理に反して『八つのほこり(にくい、かわい、はらだち、こうまん)』に身を落としている。

他者の教理に反する行いは『悪』、自分の教理に反する行いは『善』。
神様も目を覆いたくなる程のダブルスタンダード。

ダブルスタンダード剣

普段、世間の感覚に合わせてバランスよい信仰を心掛けている方でも、分派に『異端』のレッテルを貼り付けた途端に、いともたやすく危険思考に陥るため、一つ間違えば巨大な勢力による弾圧に繋がり、魔女裁判(魔女狩り)のような最悪のケースに発展する危険も孕んでいます。

そんな大袈裟な~
今の時代に魔女狩りみたいな弾圧はあり得ないでしょうw

ここまで読んで、この様に感じている方もいるかも知れません。

現在、主となる勢力の『宗教法人天理教』は、分派に対して公式に『異端』と標識している訳ではなく、信者の間でのみ『異端』と囁かれ、それも『分派』と同等の意味で扱われるもケースも多いかと思います。

殆どの信仰者の方々は、悪意無く『異端』の呼称で分派を区分けしているだけかも知れません。

しかし、本当にそうでしょうか?

もしかしたら、無自覚の中に潜む悪意に気が付いていないだけかも知れません。

以下のポストは筆者の体験に端を発しています。

このポストで『異端』という言葉に対して過剰反応していると感じた方も少なくないと思います。
筆者も少し強く言い過ぎたと反省していますが、人が人を『異端』と呼ぶ時に『ある種の狂気』を感じてしまうのです。

その発端となった体験をこれから打ち明けます。

実は私、先ほど紹介したweblio辞書:『宗教法人天理教から分立・影響を受けた団体』の一覧にある某団体に所属し、親神様の啓示を降す天啓者の元で教理を学んだのです。

驚き

いかがです?
今の話を聞いてこんな顔になりませんでしたか?
訝し気に感じ、一瞬でも身構えた方は是非この続きをお読みください

私は天理教を信仰する家庭で育ちました。
祖父の家、叔父の家も教会を営んでおり代々天理教の家系ですが、父はサラリーマンで両親は子供に信仰を強制することはなく世間一般の感覚で育てられたと自認しています。
それ故に天理教に傾倒することなく、フラットなマインドで対峙できたお陰で、世間一般と同じように宗教に対する疑惑の目を持ち、天理教教義にも疑問を感じていました。

  • なぜ神様にお金をお供えするの?
    神様の為と言いながら結局金儲けの手段?
  • なぜ天理教の人たちは当然のように病院に行くの?
    神様は救けてくれないの?
  • なぜ『おつとめ』みたいな恥ずかしい行事をするの?
    一体なんの役に立ってるの?

子供の頃から両親を含め、天理教を信仰する方達と接して来ましたが、誰からも納得する回答が得られず疑問は深まるばかりでした。
当然、天理教に一切の魅力を感じることはなく、天理教を含め宗教とは無縁の生活を歩んでいましたが、ある一人の天理教布教師との出会いから、天理教、いや教祖(おやさま)の教えに対する考え方は180度変わりました。
その方から学んだ教祖(おやさま)の教えは、これまで天理教で聞かされて来た表面的な標語ではなく、理路整然とした理の凄みを感じました。
そして実際に理のあらましを体現するうちに心が定まり、天理教を信仰するのではなく『教祖(おやさま)の教え(思想)』を自分自身の思想として歩もうと決意したのです。

その方…、筆者が師事した先生こそ、天理教布教師でありながら親神様の啓示を降す天啓者

先生は熱心な布教師である反面、天理教本部が認めない天啓を降すので、先生の布教所には本部からは度々視察に訪れていました。

所謂、要監視対象の危険人物扱い。

表立って『異端』と名指し糾弾はしませんが、裏では確実に対立姿勢を強めていました。
先生の勉強会に通う某天理教教会の教会長さんは、本部からの圧力を受けて泣く泣く縁を切らざる負えない状況に追い込まれたのです。

天理教は過去に巨大な政府の力による弾圧を受けた苦い体験があるのに、自分らが巨大な勢力を持つと今度は従わない者を同じように弾圧したのです

これが人間の所業。
教祖(おやさま)の対応とは正反対。

天啓は誰であろうと認めない。
それが天理教本部の方針のようです。

本当にそれで良いのでしょうか?
本当に今後一切、親神様の言葉は必要ないのでしょうか?

天理教の成り立ちを考えたら親神様の啓示は大前提、絶対に外せない要中の要
神の社あっての天理教、教祖存命で働く大工(本席様)あってのお道です。

もし、本部(人間集団)の判断で今後一切天啓が必要無いとしたら?

暗闇に行く道を明るく照らすお月様と、陽気に心勇ませるお日様が、地場に昇ることは二度と無く、天理教は天保9年以前の暗闇世界を彷徨い続けるのは明白。

きゝたくバたづねくるならいうてきかす  よろづいさいのもとなるを
みかぐらうた よろづよ八首

お地場に天啓が継続していれば、教義解釈の齟齬も、天理教批判に対する対応も、絶対に間違いのない神の視座から真実の答えが頂けるのです。
これの何処に不都合があるでしょうか?

時代と共に親神様の啓示を頂けるからこそ道に迷わず、日々月々年々代々と理が増し、信仰の喜びを深められるのです。

天啓が途絶えた弊害から銘々の悟りという人間思案が跋扈する道の現状。
銘々の悟りでは真実の答えを得られる筈もなく、身上事情に悩めば『親神様の思惑は何処に?』と教祖殿の前で祈り続けるしか術はない。
天理教の現状は歯がゆく感じるし、そんな団体から異端扱いされても正直乾いた笑いしか出ませんでした。

だからと言って私は自分自身を正統とは位置付けていないし、天理教を異端とも思いません。
なぜなら正統かどうかは、自身が決められることではなく、これからの通り方が決めて行くこと。

道の正統とは、お地場に本拠が有る無し、天啓の有る無しの形式上の問題ではなく、教祖(おやさま)のひながたに正統であること、その通り方をもって世界に親神様の姿を映し出して行く信仰態度にあるからです。

もちろん、お地場に天啓が治まることが親神様の本願であり、世界治まる唯一の道に違いはありません。

互いに異端と罵り合ったところで、自身の通り方をもって正統性を証明する他ないのだから、『異端』なんて取るに足りない言葉・・・と考えていました。

あの時までは、
あの出来事が起きるまでは…

先生は常々『布教は必要ありません。神様のお詞で自分づくりに励んでいれば自ずと教えは広まります』と仰られていましたが、その言葉通りに人が集まり布教所も手狭になったので、皆が集えるつとめ場所を普請することになりました。
そして建物が落成した直後、その地域を管轄する天理教の方々が本部の命を受けて視察に現れました。
男性が3人、女性が2人の構成だと記憶しています。

視察団の方々が一通り神殿を見て回った後、玄関先で私の7歳になる娘が「こんにちは」と挨拶をしました。

あいさつ

『ちゃんと挨拶できて偉いなぁ~』と我が子ながら感心したのも束の間、目を疑う出来事が起きたのです。

な、なんと、驚いたことに(本当に驚きました!)、1人の女性がまるでバイキンを避けるように後ずさりし、悪魔を見る形相を娘に向けたのです。

控えめに言って天使のように可愛らしい娘です。
服装も綺麗。
その女性は、まだ幼い娘に対して明らかな拒否反応を示したのです!

その時のショックは今まで感じたことの無いたぐいのものでした。
可愛い娘に酷い態度を取られたことよりも、『人間ってこんな恐ろしい顔になれるのか』という衝撃。

更にショックなのは、その女性が教祖(おやさま)のひながたを慕う信仰者という事実。

私が先生から学んだ教理の根幹は『自分自身の魂に向き合う』ことであり、『教祖(おやさま)の教え』で神の視座に立ち、自分自身を常に客観視できる魂の視座を持つこと、それが肝要と教えられてきました。

はたして、この女性は自身の姿を客観視しているのだろうか?
どれほど恐ろしい形相を子供に向けているか自覚しているのだろうか?
教祖(おやさま)のひながたを慕う者として、それは正しい振舞なのだろうか?

いや、もしかしたら、彼女は自身の態度を自覚していたかも知れない。
我々を異端と認識しているなら、娘も忌まわしき異端の子供。

前回の記事、『異端と言う勿れ – おやさまは異端に厳しかったのか?』で書いたように、『異端』には厳しく対応するのが正しい信仰、それこそ『教祖(おやさま)のひながた』と考えていたかも知れない。

正統派の我々は、神の名の元に絶対善。
正統派が下す判断は『絶対に正しい神の答え』であり、異端は厳しく断罪されるべきなのだ。
教祖(おやさま)も異端には厳しく対応されていたのだから!

それが例え7歳の子供であっても容赦はしない

失礼。
また少し言い過ぎましたね。
これは彼女の心象を深読みした筆者の感想に過ぎません。
もしかしたら異端に対する先入観で単純に怯えていただけかもしれません。

しかし、いずれにせよ、この先入観に問題があるのは間違いありません。

先入観が判断を鈍らす。
誤った先入観が邪魔して自身の誤りに気が付かないまま、人間関係や仕事で判断ミスをする…
そんな苦い経験は誰しも一度や二度あると思います。

これが先入観だけの問題ならミスをした瞬間に誤りに気が付くため、先入観を自省することが可能です。

しかし、この先入観が信仰と結び付くと非常に厄介です。
先入観と信仰が結び付いた精神状態が妄信。
妄信に自省は難しく、自身の誤りは頑なに認めないばかりか、誤りを指摘する側にこそ問題の原因があると矛先を向ける始末。

妄信と言う名の思考停止状態。

天理教に例えたら、この思考停止がもたらす損失の大きさが理解できると思います。
人間に対する親神様の思惑は『心の成人』ですが、妄信(思考停止状態)は『心の成人』を間違いなく阻害します。

親神様の御心(みかぐらうた、おふでさき、おさしづ)を理解することで、一つ一つ心の汚れを洗いきり、成人の階段を上ることが出来るのなら、自身の誤り(心の汚れ)を認めない信仰態度では成人を拒絶したも同然。

親神様の教えが絶対善だからと言って、天理教を信仰した瞬間から自身も絶対善に成れる訳ではありません。
先ほども説明した通り、一つ一つ心の汚れを洗いきることで親神様の心に近く成人の道を歩めるのに、悪しき(人間思案、癖性分)を抱えたまま『自分は神様の教えに正道』などと主張したところで、『天理教の教えはそんな程度?』と悪評が広まるだけです。

本来、教理とは『神の理性を教える』ものであり、『人間の理性』を『神の理性』へと引き上げるために不可欠な天の定規。
だからこそ『神の視座』で自身を客観的に精査して心の汚れを洗いきることが出来るのです。

本来、『教祖(おやさま)の教え』を聞いて『妄信』に陥ることはあり得ません

しかし、現在お地場で『異端』という言葉が平然と使われる。
そして信仰者も『異端』に対しては当然のように排他的な心を使う。

異端

この言葉は、危険な信仰状態である『妄信』を容易に生成する悪魔の言葉

もし違うと思われるなら、この記事を読んでいる正統派を自負する信仰者諸君に是非試して頂きたい事がある。
皆さんが、他者を異端と呼び、異端のレッテルを貼る時、自分がどんな眼付きで、どれほど恐ろしい表情になるか鏡でじっくり観察して欲しい。

異端と言う勿れ

鏡の中に映るのは、神の名を借る悪魔かも知れない。

おわり

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