年の瀬も押し迫り、日常の雑務に追われていた某日、同士Beさんから一通のメールが届きました。
『教えちゃん、天理時報新年号に掲載された表統領さんのインタビューやけど、どう思う?うちは悲しゅうて悔しゅうて、どうにもこうにも辛抱なりまへん!どうでっしゃろか?うちと教えちゃんの対談で一発どでかい風穴ぶち開けまへんか?コラボや!コラボ!』
泰平の眠りを覚ます黒船の如くBeさんの暑苦しい関西弁・・・否、熱い思いに心打たれた筆者は『やるべ、やってやるべし!わさ任せでけせ。』と妻譲りの南部弁で対談を快諾!
こうして新時代の幕開けを予感させる二人の対談が実現の運びどなったのだ。
対談の様子はBeさんのnoteに掲載されているので、上記リンクから詳しい内容を閲覧していただくとして、本稿では対談で語り切れなかった疑問点を深掘りしてみたいと思います。
立教186年(令和5年/2023年)新年号の天理時報
新春インタビュー 中田善亮・表統領に聞く(上)
振り返れば、前回の年祭以降、かんろだいの節、真柱様のご身上、コロナ禍など、教内外に大きな節をお見せいただいています。しかし、シュンとしていても仕方ありません。これまでを振り返り、さまざまな反省の上に立って、こうした節をいかに前向きに捉え、気持ちを切り替えていけるかが肝心です。
インタビューの中で「さまざまな反省の上に立って」と語られていましたが、具体的に何が反省点か述べられていません。
「こうした節をいかに前向きに捉え、気持ちを切り替えていけるかが肝心です」と言われても、反省点が明確にならないと反省もできないし、気持ちを切り替える方向も分りません。
反省無きまま前向きに捉えたら、同じ過ちに向かって進む危険もあるわけです。
そこで、筆者なりに「お道の反省」を纏めてみました。
道に氾濫する出所不明な”天理教用語”
- お道には教会の○周年など、いろいろな成人の旬がありますが、教祖年祭は全教の成人の旬です。
- 三年千日は「普段はなかなかできないだろうから、3年と仕切って頑張りなさい」という期間です。
対談でも述べましたが、教内には誰が言ったか定かでない出所不明な”天理教用語”が氾濫しています。
新年号に掲載された短いインタビューの中ですら「元の意味を改変した解釈」が随所に見られ、もはや他宗教の教義を聞いている錯覚に陥るほど・・・
その中でも特に気になったのが、
教祖年祭は全教の成人の旬
いつ誰が言い出したのか?
本席様のおさしづには、それらしい記述は見当たりません。
教組年祭は天理教にとってメモリアルな日であり、140年祭は教組お隠れから10年ごとの大きな節目かも知れません。
だからと言って、教理的に特別な意味はありません。
1年祭、10年祭、100年祭・・・140年祭でも他の年と何も違いはないし、年祭に特別な理があるわけでもない。
140年祭に向けた年祭活動に励めば、親神様がお喜びくださる?お受け取りくださる?
もちろん、心尽した分はお受け取り頂ける。
それが心通りの理(心通りの守護)。
心通りの理は、年祭の時だけ頂ける「一過性の理」ではなく、心を使う度に頂ける「永遠の理」であり、天理教徒だけではなく、世界一列が遍く享受する「普遍の理」です。
この理を熟知している天理教徒は世界の誰よりもアドバンテージを有し、世界に先んじて「陽気ぐらしを実現」できる立場にあるのだが・・・
教内からは批判が噴出し、道離れも起こり、教勢は下降線を描き続けている現実。
表統領さんの口から漏れ出る本音。
「正念場」という表現にひっ迫した道の現状が伝わってきます。
今回の年祭活動は正念場であるとともに、お道が再スタートを切る絶好の機会だと感じています。
はたして・・・
教祖140年祭に向けた年祭活動を、親神様はお喜びくださるでしょうか?
10年ごとの年祭は天理教にとって一大イベントであり、この大節を期に信徒を鼓舞し、全教を一手一つに盛り上げたいと思うのは運営TOPの判断としては当然かもしれません。
だが、この年祭を「イベント化」している風潮が、逆に信徒を疲弊させ、全教の不調和に一役買っている面もあるのではないでしょうか?
年祭活動はイベント型信仰?
教組年祭に付随するのが「年祭活動」。
ここでは、年祭までの三年千日の期間、年祭活動に励むことを目指す「イベント型の信仰スタイル」と定義します。
年祭の時だけ頑張る、特別な時だけしっかり運ぶ、「イベント型信仰」。
表統領さんも申しているように、年祭活動とは非日常であり、日常の信仰にプラスアルファが必要になります。
- 普段はなかなかできないだろうから、3年と仕切って頑張りなさい。
- 大事なのは、3年という期間に見合った目標を設定すること、そしてそのうえに、少し課題をプラスアルファすることです。
当然ながら、通常業務に加えて、年祭活動が加わるのだからプラスアルファ分は信者の負担になります。
諭達四号や天理時報によれば、年祭活動の具体的な歩みは「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」のさらなる実践と捉えて間違いないので、これら布教活動の回数を増やすことで精神的・肉体的・時間的・経済的な負担が必然的に増加します。
進んで教会に足を運び、日頃からひのきしんに励み、家庭や職場など身近なところからにをいがけを心掛けよう
諭達四号より
この旬に一人でも多くの人がひのきしん、にをいがけ、おたすけの実行ができる用木と成人するご守護が頂けるよう に、私たちお互いが率先してさらなる実践に励むことが大切と指摘。その積み重ねに よって、教祖の付けられたこの道が、揺るぎない、確かな道として将来に続いていくと話した。
立教185年(令和4年)11月23日発行の天理時報より
もちろん、これらの負担を有り難く受取るも、迷惑と受取るのもそれぞれの自由、各信仰者の立場、境遇により違いはあると思う。
「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」を神聖な行為に捉え、前向きに実践する方もいるだろうし、普段から実践している方には余計なお世話でしょうし、教会と仕事を両立させている方、社会で働く方には負担を強いる面もあると思います。
プラスアルファ分の受取り方は千差万別ですが、
イベント型信仰には、信仰の根幹に関わる重大な問題を孕んでいるのです。
「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」の内訳は大凡以下の通りだと思いますが、これら天理教徒に定着した布教活動を詳らかにすれば、イベント型信仰の問題点が見えて来ます。
- ひのきしん
ボランティア活動、本部・上級教会への奉仕活動 - にをいがけ
戸別訪問、路傍講演、神名流し、パンフレット配り - おたすけ
病人へのおさづけ、不思議なたすけを願う
内訳を見れば分る通り、「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」など通常の布教活動も「イベント型信仰」と言って過言ではないのです。
年祭活動は「イベント型信仰」を主軸に据える天理教団の「象徴的な事例」と言えるでしょう。
イベント型信仰の問題点
イベント型信仰に求められるのは 参加するか?しないか? 実践するか?しないか?
この二択であり、参加・実践ならば誠実と褒め称えられ、その逆なら不誠実と囁かれる・・・
「全教一斉ひのきしん」を例にすると分り易いと思います。
参加は自主性に委ねると謳われていても、信仰者にとっては参加がマストな選択なのだから、諸事情で参加できない場合は少なからず罪悪感を伴い、自身の信仰心を責めるマイナス思考に陥る懸念は拭えません。
また周囲の目を気にし、無理してでも参加する方もいると思います。
親神様のご守護に感謝をささげる自発的な行為が「ひのきしん」
https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/oshie/hinokishin/
天理教のHPでは上記のように解説されています。
しかし、「ひのきしん」を行為にすれば、それは信心のイベント化です。
「ひのきしん」という行為(イベント)が伴わなければ、親神様のご守護に感謝を捧げられないジレンマ、焦り、強迫観念を潜在的に抱えながら、常に 参加するか?しないか? 実践するか?しないか? の二択を突きつけらているのです。
極論を言えば、心が伴わなくとも「参加・実践すれば万事OK!」。
付き合いでも、嫌々でも、渋々でも、我慢でも、義務感でも、参加・実践こそが誠、絶対正義、成人した姿。
イベント型信仰の問題点とは、
「形を重視する信仰姿勢」であるから、必然的に成果という形に帰結するので、新規信者・お供えの増収などの成果を求める思考に嵌まりやすく、心の成人という月日親神の本懐がなおざりにされる点にあります。
40年祭に打ち出された「教勢倍加運動」は、イベント型信仰の最たるもの。
年祭という節で号令を掛け、信徒を鼓舞すれば短期的には教勢は上向くかも知れません。
実際に「教勢倍加運動」の成果は倍以上の数字となって現れました。
だが、「教勢倍加」の形を急ぎ、心をなおざりにした結果、現在、全教会の2/3が教会の体裁を成さない「事情教会」と囁かれ、長期的に見ればマイナスに転落しているのです。
道を振り返れば、親神様の思いに反し、形を急ぎ、人間の思いを優先した歴史と言えます。
ある時は教祖の諭しに反し、教会認可を求めて京都神祇管領吉田家に願い出る・・・
ある時は本席のさしづに反し、教会本部設置許可に尽力する・・・
月日親神のことばに凭れきれず、目先の安住という形を求め続けた歴史の上に「イベント型信仰」の体質が形成されたのではないでしょうか?
表統領はインタビューの中で「日常に重きを置く」ように語られているが、少しばかり表現を変えたところで「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」が、教祖年祭というイベント型信仰の呪縛から逃れることはできません。
ようぼくの三信条にも「ひのきしんの態度」といわれるように、普段していることを、ひのきしんとしてできるようになることを目指すのです。広く捉えれば、家の掃除や仕事の場面ででも、気持ち次第でひのきしんになり得るということです。
また、にをいがけは、街角に立って不特定多数の人に呼びかけることだけを指すものではありません。大事なのは、自分が誰に対して、にをいを掛けようとするのかを明確にすることです。それを怠ると、にをいがけが行事化したり、一過性のものになったりしかねません。
ですから「諭達」にあるように、まずは身近な人を意識してみることです。それはたとえば、わが子や孫でもいいのです。家が教会や布教所だからといって、生まれたときから信仰を持っている人はいません。一人の人間として、にをいを掛けていかなければ、本人も信仰者としての自覚ができないまま大人になっていきます。ためらうことなく声をかけ、積極的に教えを伝えてほしいと思います。
「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」の参加・実践を意識した時点で、それは形を重視したイベント型信仰に姿を変え、心をなおざりにする問題を内包し続けるのです。
イベント型信仰は参加・実践が第一義ゆえに、心を育成するのには適していません。
成人した「成る程の人」は、ひのきしん(神一条)の精神を身に付け、その立ち振る舞いから神の匂いが伝わり、話ひとつで難渋をたすける不思議な人、「教祖のひながた」を通り切った教祖の様な人を指します。
教祖は先ず、内倉に籠もり月日との対話により、神一条の精神を身に付けられた。
つまり、徹底した人間改革、あくなき求道、道のひながた作りから始められた。
だからこそ、教祖から漂う神の匂いに人は惹かれ、神一条を熟知するが故に、正しい理に心の向きを導き、多くの難渋が救われたのです。
現在のイベント型信仰は、神一条という最高の武器を持たず戦場に向かう兵士のごとく、無謀の挑戦と言えるかも知れません。
イベントはあくまで非日常。
信仰で肝心なのは非日常ではなく、日常です。
三年千日は「普段はなかなかできないだろうから、3年と仕切って頑張りなさい」という期間です。
『おさしづ』のどこをどう読めば、このような解釈に至るのでしょうか?
当時、道の側近たちは、身上事情の治まりを求めて本席を頼るばかりで、誰一人、教祖のひながたをたどり、真剣に心治める者がいない・・・その残念から、三年千日のさしづに及ぶのです。
五十年とは言わん、せめて三年、たった三年ひながたを通れば、ひながた同様に運ぶ。
三年の道通れば、不自由しようにも、難儀しようにもしられやせん。
教祖五十年のひながたを、たった三年で身に付けられると言う有り難いさしづ。
肝心なのは三年千日のイベントではなく、三年千日の日常。
教祖は「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」の布教活動をしたワケではありません。
ただひたすら月日親神の思いに添い、徹底した神一条の心で日常を通られたのです。
肝心なのはイベントとして神一条を頑張るのではなく、日常の心に神一条を定着させること。
神一条の精神を日常で育むこと。
そんな事が今のお道で可能でしょうか?
神一条の精神を育む土壌が今のお道に存在するのでしょうか?
もちろん存在します。
おつとめが育む神一条
天理教信者には当たり前の認識かもしれませんが・・・
日々のおつとめ
日々のおつとめこそ、神一条の精神を育む土壌。
日々のおつとめこそ、教祖のひながたを通る最短で最善の道。
天理教信者が毎日習慣的に行う「朝夕のおつとめ」こそ神一条の精神を育む最適な方法。
親神様から与えられた天の方法なのです。
天理教会、天理教を信仰する者の日常には、鳴り物を奏で、歌い踊り、周囲からは笑い誹られる「おつとめ」という非日常が習慣として溶け込んでいます。
つとめの地歌「みかぐらうた」は理の歌と教えられる通り、人間心を神一条に立替える月日の心が込められ、おつとめに運ぶだけで神一条の雰囲気に包まれるのです。
元の神が 現身(うつしみ)を以て直筆した月日の心を永遠に固めた理の歌。
みかぐらうたの意味を、どこまでも深めることが信仰の極意。
みかぐらうたの意味を、日々深め、味わい、日常の喜びへと昇華するのが「おつとめ」の役割。
「おつとめ」という非日常を、日常の暮しの中に反映させることが陽気ぐらしの始まりになるのです。
「よろづたすけ」と教えられるつとめですが、その実証は「おつとめ」に直参する自分自身が行い、世に先んじて「たすかりのひながた」を確立すれば、無理に伝道しなくても自然に道は広がると言うもの。
これが、教祖が通られたひながたの道。
なのですが・・・
そこで最大の疑問。
こんな有り難いおつとめを教えられているのに、なぜ信者数は減少し教勢は傾き続けるのか?
問題の一つとして、おつとめ自体のイベント化。
おつとめがイベント化されたら、心がなおざりになるのは避けられません。
テスト前の一夜漬け勉強のように、おつとめの時だけしっかり運ぶ、おつとめの時だけ神一条になる・・・これでは日常に神一条の精神は育たない。
おつとめが文字通り「天理教人の務め(仕事)」になり、義務感、業務感覚で務めるなら、イベント型信仰と言わざるを得ません。
そして最大の問題。
おつとめすらイベント型信仰に貶める最大の問題は、今回のインタビューで顕著な「元の意味を改変した解釈」に尽きるのではないでしょうか?
みかぐらうたの意味を正しく理解できない・・・
それ故に、月日親神の心が正しく伝わらない。
我々が慣れ親しむ天理用語も元の意味から離れた、形重視の「イベント型信仰」に改変されています。
ボランティア活動、教会への奉仕活動
にをいがけ
戸別訪問、路傍講演、神名流し、パンフレット配りなどの喧伝活動
おたすけ
病人へのおさづけ、不思議なたすけを願うこと
本来の意味は、他者の伝道よりも「徹底した求道」。
神の心に向き合い、神一条の精神を身に付けることが月日親神の本懐。
教祖の様に、いつ何時も神一条で通り、その精神を身につけること
にをいがけ
教祖の様に、その振る舞いから神の匂いが漂い、人を惹き付けること。
おたすけ
教祖の様に、淀みなく神の話を伝え、話一つで心を治めること。
我々信仰者が目指す「成人の最終目標」は教祖なのだから、教祖の心を研究せずにひながたは通れません。
そして教祖の心は月日の心と同義であり、月日の心は「みかぐらうた」に凝縮されているのだから、正しい理の歌の理解、ひいては「おふでさき」「おさしづ」の研究こそ、本来の意味でひながたを通る確かな礎になのです。
まとめ
お道には教会の○周年など、いろいろな成人の旬がありますが、教祖年祭は全教の成人の旬です。
130年祭、140年祭と期間を設けイベント化することは、人間の都合で成人を急かしているも同然。
節は人それぞれ。
旬も人それぞれ。
無理に人の心を一つの形に押し込め、全教を一手一つに纏めようとすれば軋轢が生じるは当然です。
それより、なにより、
教団TOPが「成る程の人」としてひながたを示せば、自ずと道は一つに纏ると思うのですが・・・
三年千日は「普段はなかなかできないだろうから、3年と仕切って頑張りなさい」という期間です。
そもそもの話、「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」の布教活動に効果があるのなら、誰に言われなくとも我先に実行しているよね?
参加するか?しないか? 実践するか?しないか? の二択ではなく、信仰者として何か特別なことをするでもなく、ただひたすら「ひながたの道」を楽しむ日常こそ、成人(成る程の人)へ向かう一筋の本道。
何程急いたとて急いだとていかせんで。ひながたの道より道無いで。
明治二十二年十一月七日午後十時四十分 刻限
神一条の精神は、日々ひながたを通る「つとめ一条」の道中で育まれる。
しかし「元の意味を改変した解釈」が氾濫する現状で、淀みなく月日親神の心を治めることは「果てしなく難しい課題」と言わざるを得えません。
以上、『天理時報』新年インタビューに見られる道の反省点を筆者の視点からお届けしました。
追記:
今回のインタビューのお陰で、Beさんと対談させて頂き、個人的には様々な問題点を整理できたので、自身の信仰にとって有益な体験でした。
※冒頭のBeさんと筆者の会話は、実際の内容とは異なる場合がありますのでご了承ください。
おわり
コメント