いつもの事だが、天理時報の人気(?)コーナー『視点』は筆者の心を困惑させる。
一体全体、何を伝えたいのだろうか?
当然、天理教機関誌ゆえ、教団の方針や教祖の教えを匂わす記事が主体であり、特に『視点』の場合は、現在の諸問題や話題の出来事を、お道の視点(おやさまの教え)から読み解く一番の見せ所・・・のはずだが、なぜか著者の意図が読み解けない。
筆者の理解力が乏しいと言われたらそれまでだが、まるで難解な暗号を解いているみたいだ。
何回読み返したか分らない。
序盤・中盤では現在の諸問題や話題の出来事を、豊富な知識と見識を織り交ぜながら読者にも分りやすく書かれ大変勉強になる。
そして締めの終盤では、鋭い「お道の視点」で天理教読者の溜飲を下げる。
これが『視点』の主な構成なのだが・・・
これが正直な印象。
毎度、引っかかるのが「お道の視点」。
天理教団的に「お道の視点」で締めたい気持ちは理解できるが、毎度、毎度、強引にぶち込んでくるので、なんか全体の文章が変になっちゃう残念な印象を受けるのだ。
今回紹介する、立教185年(令和4年)12月14日発行の天理時報では、その傾向がより激しく顕著だが、それにも増して筆者を困惑させたのが視点の表題。
『世界に誇れる親里の食文化』
え?
親里、つまりお地場に世界に誇れる食文化があるの?
あったけ?
なんだっけ?
天理カレーのこと?
詰所の食事?
筆者にはサッパリ見当が付かないので、早速記事を読み始めた。
料理やスイーツのおびただしい情報が連日メディアに流れている。
それらは希少な食材を使用したり、いわゆる “SNS映え”する盛り付けをしたりすることで付加価値を高めている。
こうしたなか、国連世界観光機関 (UNWTO) 等が主催する「ガストロノミーツーリズム世界フォーラム」が今月、奈良で開催される。 ガストロノミーツーリズムとは、 その土地の気候風土が生んだ食材・習慣・伝統・歴史などに育まれた食を楽しみ、 土地の食文化にふれることを目的とした旅行だ。持続可能な観光としてUNWTOが推進しており、コロナ後の新しい旅行スタイルとしても注目されている。
なに?
国連とな?
国連世界観光機関 (UNWTO) 等が主催する「ガストロノミーツーリズム」。
その土地処の食文化にふれる旅行先に「親里の食文化」が推薦されたとでも言うのか?
嫌が上でも期待が高まる。
更に読み進めると、今度は万葉集を引き合いに出し大和国の食文化に触れている。
天皇から庶民まで幅広い層の人たちの歌が収録されている日本最古の歌集『万葉集』をひもとけば、古来、わが国では野菜はもとより、山の幸から海の幸まで多種多様な ものが食されていたことが分かる(廣野卓著「食の万葉集』)。
また、歴史地理学者の伊藤寿和氏によれば、興福寺一乗 院門跡の坊官が記した戦国末期の日記「二条記」等の史料からも、大和国では多彩山菜や果物類が食されてきたことがうかがえる。
親里の食文化は、悠久の歴史を継承する由緒正しいものなのか?
まさか、そんな素晴らしい食文化がお地場に存在していたとは!
そして終盤、ついに「世界に誇る親里の食文化」の全貌が明らかになる!
親里では、教祖140年祭への三年千日のスタートとなる来春、教祖ご在世時から続くお節会が3年ぶりに実施される。 お節会の始まりは明治初期、 正月に供えられた餅を、お屋敷に帰ってくる信者や村方の人にも分けて食べさせてやりたいとの教祖の親心にある。
お節会!?
下記サイトによると「元旦に供えられたおよそ40トン余りの鏡餅が、雑煮として帰参者に振る舞われます。明治の始め頃より続く伝統行事。」と紹介されている。
ちなみに料金は無料。
お替わり自由で、誰でも美味しい雑煮を頂けるそうだ!
写真を見ると確かに餅の数、作業人数が桁違いだ。
活気があって一大イベントの雰囲気が写真からでも伝わってくる。
この光景を見たら世界中の誰もが驚くことだろう。
「オモチ、スゴイネー!ヒト、イッパイネー!」
まあ、この規模なら十分世界に通用するし、世界に誇ってもいいのでは?
と、一瞬思いましたが・・・
でもお節会って食文化?
一宗教法人が主宰する伝統行事なのでは?
って言うか、国連と万葉集のくだりは関係なくない?
強引にねじ込んだな・・・
しかも、視点の著者が誇りたいのは、世界があっと驚く規模の餅・動員数ではなく、あくまで教組の親心。
更には、教組の親心を受け継ぐ大勢の真心・・・だそうな。
各地の教会でつかれたお供の鏡餅は、1月4日の鏡開きで小餅に切り分けられ、お節会当日に焼かれて、水菜を添えたすまし雑煮として振る舞われる。飾り気のない簡素雑煮だが、そこには教祖の親心を受け継ぐ大勢の道の子の真心が込められている。
こうした目に見えない心にも思いを寄せるとき、寒中の親里で頂く一椀は、より一層味わい深くなるだろう。それは、人類のふるさと・ちばに帰った者しか味わえない、世界に誇れる食文化と言ってよい。
まあ、確かに多くの学生や各地からのボランティアが、帰参者・観光客を迎える様子は掛け値無しに素晴らしいものだ。
その点は異論はないが・・・
親心?
親心って食文化と関係があるの?
それに、親心は教組の専売特許というワケでは無く、万国共通なのでは?
アメリカでも、中国でも、インドでも、日本でも子を思う親心は同じだよね?
実はこの記事を読んだ時、とあるTV番組を思い出した。
それは、ウィル・オスプレイという英国出身のプロレスラーが、同じ団体に所属する日本人レスラーを実家に招いた時の出来事。
オスプレイの母親が手作り料理を訪問者たちに振る舞うのだが、母の料理を指してオスプレイはこう言い切った。
「俺のお母さんの料理は世界でNo.1だ」
彼はプロレスのチャンピオンだが、母の料理が家庭料理世界大会でNo.1を獲得したわけではない。
オスプレイだって母の料理が世界の一流シェフを超えるとは思っていないだろう。
だが、彼の中では間違いなく世界一。
彼を愛し、育ててくれた母の料理に適うものは無い。
母が与えてくれた親心は他と比べられない宝物。
この言葉は、母の手料理を食べて育った彼の実感であり、誰にも奪えないママに対する誇りなのだ。
親心とはそういうもの。
視点の著者さんが個人的感想で世界に誇りたいなら誇ればいいのだが、「世界に誇れる食文化と言ってよい」などと天理教機関誌で断言されては、個人的感想よりも教団の代弁、自画自賛に聞こえてならない。
親心とはと説くものではなく、子が親から実感するもの。
著者さんは本当に教組の親心を実感しているのだろうか?
「世界に誇りたくなる伝統行事だ!」
これくらいの表現なら、「そうだね、よかったね」と筆者も共感したと思う。
だが、やはり、「教組の親心」に言及したのはいただけなかった。
しかも「教組の親心を受け継ぐ」とボランティア方の心を代弁したのも気にかかる。
教組ご存命当時なら、その思いやりや優しさを肌で実感できるし、万人に分け隔てない親心は尊く感じられたかも知れないが、現在は教組が死去してから140年近くの年月が流れている。
教組と共に時代を生きた先人達も皆出直し、教組のリアルは年々薄れるばかり。
例え、教組の親心を感じられたとしても、それは逸話や口伝の中で美化し神格化された虚像。
実際の教組は逸話や口伝では伝えきれないくらい、遙かに素晴らしく、生き神様のような存在だったかも知れないし、その逆かも知れない。
要するに、現在に生きる私たちは、リアルな親心を感じることは出来ないのだ。
その上、末端教会から本部・上級教会へお供え・理立てと称して金銭が送られ、理の子は理の親へに尽し、親孝行を一方的に求める現在のお道に、教組の親心は根付いているのか?
子から親へ、一方通行の親子関係に親心を感じる要素があるのか?
この教団が「教祖の親心」を受け継いだと本気で言えるのか?
神殿に備えられた夥しい数の餅も、子から吸い上げたナケナシの金、お供えノルマを達成するため生活費を切り詰めた血と涙の結晶かも知れない。
学生や各地から手伝いにくるボランティアも、ひのきしんと言う名の強制力に抗えなく、泣く泣く参加する人もいるかも知れない。
もしかしたら、寒中の親里で頂く一椀に、苦々し味わいを深めて涙する人もいるかも知れないのだ。
まあ、だからこそ「教組の親心」に焦点を当てたと言えなくもない。
教組の親心に立返ろう!・・・と。
今回の視点を好意的に捉えれば、伝統行事がイベントとして形骸化することへ一石を投じた・・・と解釈できない事もない。
が、今必要なのは、耳障りの良い言葉ではなく、大胆な組織改革。
教組の親心を尊ぶなら、本部・大教会、理の親と言われる立ち場の者が率先し、ひながたを通り、教祖の親心を示すことで理の子に伝承する。
そんな仲睦まじい親子関係が映るお道であってほしい。
私たちは『教組の親心を受け継ぐ教団』であると、堂々と胸を張れるように。
以上、『世界に誇れる親里の食文化』の感想でした。
色々書きましたが、お節会は形だけ見たら世界に誇れる規模の行事だと思います。
なので教組の親心とか深いこと考えずに、3年ぶりのお節会をお祭り気分で楽しんだ方がお得ですね。
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