今回は、立教185年(令和4年)11月23日発行 天理時報より。
視点『具体的な行動が説得力に』の記事に関する考察をお届けします。
この記事では「コモディティ化」なるマーケティング用語を用いて、天理教はブランドイメージを高める必要性があると訴えている。
コモディティ化とは?
さて、筆者もためになった「コモディティ化」とは?
アメリカ発祥のコンビニエンスストアを日本で展開する際に、店頭におでんを置くのがいいと思い付いたとか。粋なアイデアから始った商品はたちまち看板商品になったが、他社もすぐに追随し、いまではコンビニのおでんはどこにでもある。
専門家の知人に聞いた話だが、この現象をマーケティング用語で「コモディティ化」と言うそうである。
コモディティ化は「一般化」ともいわれ、製品やサービスについて性能・品質・創造性・ブランド力などで大差がなくなり、顧客から見て「どの会社の製品やサービスも似たようなもの」に見える状況を意味する。インターネットの普及によって高度に情報共有が進んだ社会では、こうしたコモディティ化が激しく、企業は対抗策として付加価値を高める「ブランディング」に躍起だ。
記事を要約すると、
「コモディティ化」とは、企業が開発した製品が他社に真似され「どの企業の製品を買っても同じじゃん」と一般化すること。
長い年限、開発費を掛けて完成した製品・サービスも「コモディティ化」すれば、ありきたりの製品・サービスに格落ちてしまう。これは企業にとって頭の痛い問題だが、こと消費者にとっては歓迎すべき現象と言えるだろう。
記事の例にあるように、どのコンビニでも同等の品質・サービスを受けることができるのだから、「コモディティ化」によって暮しの質が底上げされているのだ。
企業側「コモディティ化」×
消費者「コモディティ化」○
というわけだ。
天理教のコモディティ化
そして記事では、宗教にも「コモディティ化」はあると主張する。
この話を聞いて、宗教にもコモディティ化はあると感じた。本教ではあり得ないことだが、もともとその宗教や団体に無かった教理や考え方でも、良いものであれば取り入れてしまうのである。この傾向が進めば、教えが普遍的であればあるほど一般化され、いつしか誰が最初に説いたものかということなど、どうでもいいことになってしまう。将来、そんな状況になりはしないかと危惧している。
はじめ、このくだりをボーッと読んでいだ筆者は「他宗教の素晴らしい教理や、世の中の良い考え方を天理教が取り入れてしまい、元々教祖が説いた教えが世間並になり道を外れる」と受け止めていた。
「本教ではあり得ないこと」と牽制しているが、筆者は「さもありなん」と感じていたからだ。
しかし、よくよく読み返したら「素晴らしい天理教の教理を、他宗教や世間が取り入れて一般化されたら、天理教の特異性が無くなってしまう。元々教祖が説いた教えなのにズルい!インチキだ!」という危惧であった。
「感謝・慎み・たすけあい」をスローガンに掲げる天理教は、なるほど普遍的な教えである。
否、これはもう危惧と言うよりは、遙か昔に「コモディティ化」されていたのに、当の天理教団が気付いていないだけではなかろうか?
だって「感謝・慎み・たすけあい」なんて、今や一般化された素養レベル。
ましてや天理教独自の用語でも考え方でもない。
特に日本は「感謝・慎み・たすけあい」の精神が顕著に根付いた社会なので、そこに天理教独自の教えを見出すことは難しいだろう。
そもそも、教祖が説いた教えのエッセンスが「感謝・慎み・たすけあい」でいいのだろうか?・・・という疑問もあるが、話がややこしくなるので、ここでは敢えて触れない。
百歩譲って「感謝・慎み・たすけあい」を説いた最初の人物が教祖だとしよう。
教祖の目的は「世界一列の陽気ぐらし」であり、その目的を達成するために必要な教えが「感謝・慎み・たすけあい」だとするなら、その精神が「コモディティ化」され世の中に普及することは、教祖・月日親神様にとって喜ばしい限りではないだろうか?
一般化された月日親神様の教えを誰もが同等に享受し、身に付け、「感謝・慎み・たすけあい」の精神で陽気ぐらしを実現する・・・一体これの何処に問題があるのだろうか?
教祖も月日親神様も、天理教のブランド化ではなく、あくまで教えを一般化させ普遍させることが目的のはず。
教えが「感謝・慎み・たすけあい」というなら、「感謝・慎み・たすけあい」の精神が一般化した現代は月日親神様の目的に近づいた状態とも言えるのでは?
もちろん未だ「不義理・高慢・奪いあい」の一面も多々ある世の中だが、「感謝・慎み・たすけあい」の大切さは殆どの人が認識している。
円滑で仲睦まじい人間関係のため・企業が信頼され躍進するため・健全で安心で豊かな社会生活を営むため、「感謝・慎み・たすけあい」は大きな役割を担っている。
もし天理教のお陰で「感謝・慎み・たすけあい」が一般化され、世の中が陽気ぐらしへ一歩前進したなら、教祖・月日親神様・信仰者はもとより世界一列にとって、それが一番喜ばしく有り難いことではなかろうか?
これまで天理教徒だけの特権であった価値ある教えが「コモディティ化」のお陰で、教組の名を知らない人でも教えを享受できるのだから、誰が説いたとかは大した問題ではないと思うのだが・・・
この記事では何故か天理教のブランドイメージを高める必要性を訴えているのだ。
何の為?
天理教が独占できないと信者が減るから?
お供えが減ると教団維持が困難だから?
しかし、こうした時代にこそ大切にしなければならないのは、「何を説いているか」ということにも増して「何をしているか」ということだ。
本教には、その指針とすべき教祖のひながたの道がある。これからは、教祖のたすけ一条のひながたに基づく私たちの具体的な行動こそが、大きな説得力となり、ひいては唯一無二のお道のブランドイメージを高めることにつながると考える。(諸井)
「感謝・慎み・たすけあい」を説くことにも増して「何をしているか」が大切。
そして「何をしているか」の中身である「教祖のたすけ一条のひながたに基づく私たちの具体的な行動」こそが、ブランドイメージを高める大きな説得力になるらしい。
具体的な行動とは?
ここでは文字数の制限もあり「具体的な行動」には触れていないが、一面の記事・・・「ひながたをたどる」とは・・・の中で触れられていた。
・・・年祭活動の具体的な歩み方にふれ、この旬に一人でも多くの人がひのきしん、にをいがけ、おたすけの実行ができるようぼくへと成人するご守護が頂けるように、私たちお互いが率先してさらなる実践に励むことが大切と指摘・・・
ひのきしん、にをいがけ、おたすけの更なる実践に励む・・・って・・・?
これまでと何ら変らぬ方法で励むって・・・??
ひのきしん、にをいがけ、おたすけに励んだ結果、ここまでブランドイメージが失墜したとは微塵たりとも思わないのだろうか?
同じことを更に頑張ったところでブランドイメージが高まるとは到底思えない。
そもそもの話、ひのきしん、にをいがけ、おたすけの活動自体に問題点は無かったのか?
そこに対する反省や検証はなされたのだろうか?
もし選択した方法自体が間違っていた場合、実践に励めば励むほどブランドイメージは失墜の一途を辿ることは明白。
誰も指摘しないのか?
頑張る方向性に問題があったのでは?
プロ野球の選手になりたいのに、サッカーの練習に励んでいたのでは?
この先、三年千日の長い期間、大切な信者たちを無謀な挑戦へと駆り立てるつもりなのか?
私たちが心定めをしっかりして、三年千日を仕切って本気で実践して通り切り・・・
ひのきしんは所謂、無償奉仕のボランティア活動・上級教会への滅私奉公。
にをいがけは所謂、路傍公演・パンフレット配り・戸別訪問などの喧伝活動。
おたすけは所謂、病人へおさづけを取次ぐ・人助け。
自分の時間や労力を費やし、仕事や貯蓄を削り生活を圧迫し、それでも本気で三年間「喜んで」実践し続けるのなら大いに励めばいい。
もし本気で三年千日、喜び勇んで「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」に励み続けたら、必ず何かしらの形は成し得るだろう。三年千日とは「三年の間、一つのことに本気で打ち込み続ければ、やがて素人離れした実力を身に付けることができる」というもの。
ひのきしんに励み続ければ「清掃のエキスパート」に成れるかもしれない。
にをいがけに励み続ければ「対話のスキル」が向上するかもしれない。
おたすけに励み続ければ「親切な人」として誰からも頼りにされるかもしれない。
しかし、どれだけ「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」に励んだところで、天理教のブランドイメージが向上しないことは証明済みと思うのだが・・・
説得力のある行動とは?
SNSにて「布教活動に身を捧げる青年」が「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」に励み続けるツイートが見受けられる。働かずその日のお与えだけで生活し、助けを求める人に便利屋の用に使われ、怒鳴られ、約束を反故にされ、恩を仇で返され、ボロボロにすり減った靴で毎日人助けに歩き回る・・・
当然、その姿は教内からは賞賛される。
だが教外はどんな目で見るだろうか?
もちろん、困った人を助ける姿は誰の目にも尊く見えるし、その実践は決して無駄にならず、身に付き、今後も彼らを支える力となることは間違いない。
しかし、助けた先にあるのが「宗教団体への勧誘」と分かれば、「ああ、宗教勧誘のための活動なのか」と冷ややかに見る人は多いだろう。
しかも、入信した先に待っているのが、徹底した禁欲生活、ボロボロになり人様のために「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」に励む姿だとしたら?
「心を入れ替え、徳を積めば運命が変わる」と説明されても、助ける側の現状を鑑みたら大概の人は入信を躊躇するのではないだろうか?
中には恩義を感じ、義理で教会に足を運んでみようと思うかも知れないが、あくまで付き合い信心。助けられたことは感謝するが、そんな信仰はしなくない。医者に治療費を払うがごとく、お礼のお供えを置いて早々と縁を切りたい。そう思う人も少なくないのでは?
昔と違い、経済・情報・医療・福祉が発達した現在社会で、なんの確証もない「運命論」「徳積み」では「百万円の壺を買えば必ず幸せになれる」のと同じで、詐欺に思われてもしかたがない。
ハッキリ言うと魅力がないのだ。
天理教で助けられた先に、明るい未来が見えないのだ。
全ての原因は、「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」に向かわせる無理なロジック、無理な信仰活動にあると思えてならない。
教祖のたすけ一条のひながたに基づく私たちの具体的な行動・・・であるはずの「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」が却ってブランドイメージを毀損しているのだ。
その方法で「感謝・慎み・たすけあい」の精神は伝わるのだろうか?
本心から喜んで信仰活動している人間がいるのだろうか?
もしかしたら、「感謝の強迫観念・贅沢の罪悪感・助けの押し売り」を肌身で感じている信仰者の陰鬱なイメージが伝わっているだけかもしれない。
心定めと軽く言うが、結局は「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」をどれだけ実践するか?に帰結してしまう。
人は与えられた目標に対して主体性を持つことは難しく、主体性が無ければ心定めは成立しない。
本部のお偉いさんに言われたから、理の親に言われたから、神様に言われたから・・・と、「心定め」と言いつつも、内心では圧力や不自由を感じ、喜びにはほど遠い泥水のような本音を「盲信」という名のパワーで押し殺しているのでは?
それよりも、家族に対し・知人に対し・見知らぬ人に対し、実生活の中で「感謝・慎み・たすけあい」の実践に重点を置く方が、よほど神様の目的に合致するし、何より自分自身の喜びに直結する。
この信仰で自分自身が本心から喜び、実際に陽気ぐらしを実現すれば、それは助かりの雛形となり、無理な布教活動をしなくても自然と周りに伝わるはず。
信仰者が陽気ぐらしする姿を見て「わたしも是非教祖の教えを聞いてみたい!」と自ら道を求めるなら、その時こそ喜んで教えてあげたらいい。
それでこそ誠のつながり、それでこそ盤石に道が固まるというもの。
ひのきしん、にをいがけ、おたすけという「具体的な行動」に価値があるのではなく、「感謝・慎み・たすけあい」の精神で喜び合う日常の暮しに価値があるのだ。
もちろん「感謝・慎み・たすけあい」の精神を三年千日続けるのは容易ではない。三ヶ月はおろか、三日も持たないかも知れない。
だが心配は無用、その為に神様は教えをくだされたのだから。
朝つとめで我身に頂く広大な守護(かしもの・かりもの、心通りの守護、心自由)の喜びを実感し、日中は「理の歌(みかぐらうた)」を胸に置き、見るもの聞くもの触れるもの全てに喜びの心で応え、夕つとめで癖性分に流された心の汚れを洗い切り、改めて守護の喜びに立返る・・・
日々、守護の喜びに満たされるなら「感謝・慎み・たすけあい」は自然と心から発露する。
慎みとは、身に余る潤沢な守護に包まれた無欲の心
たすけあいとは、我身思案が消えた心に生じる、他人の喜びを見て共に楽しむ心
肝心なのは「何をしているか」ではなく、「感謝・慎み・たすけあい」の精神を何処まで深められるか。
天理教を信仰していない人でも「感謝・慎み・たすけあい」の心は持っている。
だが、その精神を何処までも深め、本心として身に付ける為の教理(みかぐらうた・おふでさき・おさしづ)は天理教にしか存在しない。
そして、守護の喜びを究極の形で表現し、神の田地に陽気の種を蒔き、よろづたすけをもたらす天の方法は『つとめ』しかない。
結局、教祖の教えを真似したところで、本気で教理のエッセンスを盗み取ろうとするなら、教祖の教えに同化する他ないのだから、「ひのきしん、にをいがけ、おたすけに勇もう!励もう!がんばろう!」などと天理教をアピールするより、徹底した「教理の研鑽」と「陽気づとめの完成」を目指し、今日一日を「感謝・慎み・たすけあい」の心で通り切る姿こそ、大きな説得力と成り得るだろう。
まとめ
それでも尚「ひのきしん、にをいがけ、おたすけ」に拘ると言うなら、それはもう教団存続の為でしかない。
いくら過去の栄光・実績に縋ったところで、過去は過去、人間創造は時代と共に進んでいるのだ。
本当に大切なのは何か?
教団の存続か?
教祖の教えが正しく広まることなのか?
心ある信仰者の方々が、この問いに真摯に向き合いながら、三年千日を有意義に過ごされることを願っています。
長々と持論を書き綴りましたが、要約すると『教組の教えが「コモディティ化」することが神の本懐』であると同時に、『「コモディティ化」が進むほど、教祖の教えが浮き彫りになる』ってこと。
何か質問はありますか?
視点の文中で、宗教のコモディティ化は「本教ではあり得ないこと」と述べているけど、天理教の教えに無い「徳、徳積み、陰徳」など一般的な考え方を取り入れてるよね?
そうそう、お供えだって教えには無いし。元々教祖は教団化には反対していたのに、他宗教のように教団化・お供えを取り入れた時点で「コモディティ化」は始ったと言えるわね。
この際、宗教法人を廃業し、お供え、本部・上級などの上下関係も廃止した方が話題を集めて、「感謝・慎み・たすけあい」を掲げる天理教のブランドイメージは高騰すると思う。
確かに!他にそんな奇特な宗教は見かけないもの。
まあ、ここまで毀損したイメージを払拭するためには、本部・上級揃って貧に落ち切り、一から出直した方が希望はあるかもよ。
もしかしたら『貧に落ち切れ』は、天理教団に残された最後の切り札なのかもしれませんね。
おわり。
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