はじめてTwitterの投票機能を使いアンケートを実施しました。
その切っ掛けとなったのが、スギタワヨオさんのツイート。
後輩が会長になり、素敵な奥様にもめぐりあって可愛い子供もお与え頂いた
ここまではよかったのだけれども、前会長の遺した多額の借金返済に苦しみあえぐ日々
なんで借りてまでお供えするのさ?
それで後々の者が苦しんでんじゃん借金してのお供はいいかげんやめてかないとお先真っ暗ですよ🙂
— スギタヨワオ 問題解決🎉 За победу🇷🇺🫶🇺🇦 (@Jiccho2337) January 10, 2023
お供え自体を疑問に感じる筆者にとって、借金してお供えする教会(信者)の存在にたいへん驚き「そんな教会って多いのでしょうか?」と質問したところ、スギタワヨオさんは「借金のお供えは常態化しているように思う」と返答されていたので、他の教会も同じなのか?借金のお供えは普通のことなのか?天理教の知られざる実態を明らかにするために、アンケート調査へ踏み切ったという訳です。
アンケートは5日の期間を設け、184人の方に投票していただきました。
その結果は・・・?
今でも借金してお供えする人って多いのかな?
もし宜しければアンケートにご協力ください。借金してお供えしたことがある。
または、借金してお供えした人が身近にいる。— 天理の教え (@Jyugem4) January 11, 2023
『Q:借金してお供えしたことがある。または、借金してお供えした人が身近にいる。』の質問に『YES』と答えた人が 34.8% という驚きの結果になりました!!
ただ、今回のアンケート、天理教に携わる関係者なら大方予想通りのようで、教会内部の事情を肌で感じている方々は、34.8%の数字を妥当、または少ないと感じている様子。
私にとって、34.8%は驚愕の数字。
負債を抱える「借金のお供え」なんて、1%だとしても大問題ですよ。
教会本部は注意喚起しなかったのかな?
もしかして見て見ぬ振り?
34.8%もいたら「借金のお供え撲滅キャンペーン」を実施するレベル…
借金してお供えしちゃダメ!絶対!
だって、
元々は、教祖に救けられた「感謝の気持ち」を示す行為でしたよね?
せっかく救けていただいたのに、自ら借金して負債を抱えたら、今度は財政的に窮地に陥り本末転倒・・・
それじゃ、救けた意味ないじゃん!?
教祖もきっと、こんな心境ですよ。
一番理解に苦しむのは、教組の教えを学んだ信仰者が、何故「借金のお供え」をするに至ったのか?
借金してまでお供えしたら、教祖が喜ぶとでも思ったのか?
逸話編を引き合いに出すまでもなく、教祖の気性は十分周知されていると思うのですが?
7.真心の御供
中山家が谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮れに、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。すると、教祖は、いつになく、「ああ、そうかえ。」と仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。それから2、3日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、「直ぐに、親神様お供えしておくれ。」と非常に御満足の体であらせられた。これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅をついて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅をつくことが出来たので、「これも、親神様のお陰だ。何は措いてもお初を。」というので、そのつき立てのところを取って、持って来たのであった。教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」と、仰せられた。
稿本教祖伝逸話篇
借金とは言わば「徳分の前借り」。
自分にはお供え出来るだけの金銭(徳分)が無いのに、徳分があるように見せかけて、教組に見栄を張るようなもの。逸話「7.真心の御供」でも分る通り、教祖が一番嫌う心遣いだ。
しかも、その借金を部内教会や信者、または親族に肩代わりさせるに至っては、他人から金銭を奪い取る窃盗行為に等しい。
「借金のお供え」の異常さを分りやすく例えると、「紛失した100万円入りの財布を拾ってくれた方に、100万円借金して200万円のお礼をする」みたいな状況。
もし大富豪なら、正直に拾ってくれた心意気に感動して200万円のお礼をするかも知れないが、余分な財産も無いのに借金してお礼するって・・・正常な感覚とは思えません。
それとも「幸せの貯金」ならぬ、「幸せの投資」?
年祭や教会普請の節に種を蒔けば「一粒万倍」?
4.一粒万倍にして返す
貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す。
稿本教祖伝逸話篇
「お金を全部出し切れば一粒万倍に返る」?
「借金のお供え」も万倍になるから問題無し?
イヤイヤ、問題大ありですよ。
お地場は「証券取引所」ではなく、信仰は「投資信託」でもありません。
財産に執着しないと言いながら、その実、一粒万倍の値に期待している訳でしょう?
それって、必要以上を求める「欲の心」だよね。
借金した元手を運用して、株や競馬で大儲け目論む心理と同じ。
ハッキリ言って「借金のお供え」は御利益信仰です。
いつの間にか天理教では、
月日親神への感謝 = 金銭
の図式が定着していますが、
本来、
月日親神への感謝 = おつとめ
月日が一番喜び勇むのが「つとめ(陽気づとめ)」であり、お金は「つとめ場所」が成り立つ必要最低限あれば十分なのです。
つとめ場所にしても、何億する豪華な神殿を建てる必要はなく、教祖が「小さいものでも建てかけ」と言われたように、現状で無理のない分相応の普請を心掛けることが肝心です。
目的は皆が集まって「おつとめ」する事なのだから。
もし、大勢の人が救かり、我も我もと人が寄り、建物が手狭になった時こそ、「付け足しは心次第」の御言葉通りに、建物を拡張する「旬」が訪れたと言うこと。
教会普請をすることが目的化した「普請の為の普請」に理はありません。
徳分もないのに借金して教会普請するのは、「借金のお供え」と同じく教祖(月日)が嫌う「嘘(理の無い普請)と追従(神様にお喜び頂くための普請)」です。
そもそもの話、一粒万倍の前提は「真実の種」。
「真実の種」が無ければ、芽が生える道理はありません。
30.一粒万倍
教祖は、ある時一粒の籾種を持って、飯降伊蔵に向かい、「人間は、これやで。一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国に蒔く程になるで。」と、仰せられた。
稿本教祖伝逸話篇
金銭は「働き」の対価。
「借金のお供え」には「働き」という「真実の種」が欠落している。
「働き」という「真実の種」が無ければ「虚構の真実」であり、教祖に教えられた「朝起き、正直、働き」の三つの宝のうち「正直」と「働き」を失う愚行を犯していることになる。
29.三つの宝
ある時、教祖は、飯降伊蔵に向かって、「伊蔵さん、掌を拡げてごらん。」と、仰せられた。伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、「これは朝起き、これは正直、これは働きやで。」と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。」と、仰せられた。伊蔵は、生涯この教えを守って通ったのである。
稿本教祖伝逸話篇
このように、天理教徒が慣れ親しんだ『教祖伝逸話篇』を引き合いに出すだけで、「借金のお供え」の教理矛盾を簡単に見つけられるのです。
にも関わらず 34.8% の方々が「YES」と投票した理由は?
その背景を紐解くと、教祖の教えが改悪され続けた「道の歴史」が見えてきます。
お道の根幹を為すのが教組(月日の社)、本席(神の機械)に見られる人間創造の元の神直々の天啓であり、これこそ天理教の天理教たる所以。
『みかぐらうた よろづよ八首』で歌われているように、人間が判断に迷った時には、必ず応えてくれる天啓者が常駐するからこそ、人間の心は喜びに勇み立ち、道なき道をどこまでも邁進できるのです。
これが本来あるべき道の姿。
きゝたくバたづねくるならいうてきかす
よろづいさいのもとなるを
みかぐらうた よろづよ八首
しかし、現在のお地場は天啓者不在の事情が続いている。
人間は何代も生まれ変わり「魂の単位」で成長する故に、「月日の社」も魂の成長に合わせて何代も地場に常駐し続ける必要がある訳です。
教組お隠れの後、天啓は飯降伊蔵(本席様)に引き継がれ、お道が「月日の思惑」を見失う事態は避けられましたが、本席様以降は天啓が継続されず、何か問題が起これば「月日の思惑は何処に?」と、黙して語らぬ月日の心を慮るしかありません。
天啓者が存在しなければ、魂の成長に合わせた最新の教理を知る道が断絶されてしまい、誤りを正す事もできず、人間本位の解釈に偏るのは当然なのです。
また、この状況に拍車を掛けた要因が、上意下達の体制、理の親への絶対服従(親に言われたことは白でも黒と思え)、異論を唱える者を異端として排除・・・など、疑念や批判が許されない教団の体質。
本来、疑念や批判は、人間に備えられた「誤りを正す魂の機能」であり、この批判的思考を封じれば人や組織の成長は阻害されるだけではなく、一度、道を外れたら最後、誤りを正せぬまま伝承され続ける危険を孕んでいるのです。
その最たる例が「貧に落ち切れ」。
4.一粒万倍にして返す
貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す。
稿本教祖伝逸話篇
その誤った解釈から「借金のお供え」が常態化したと見て間違いありません。
「貧に落ち切れ」とは、道具衆である中山家の住人、そして「屋敷のいんねん」に対する「特殊な事情」であって、一般化すべき事例ではなく、全天理教徒が辿るべき「ひながた」ではないのです。
「いんねん」は人それぞれ。
貧に落ちる「いんねん」があれば、落ちたくなくても落ちるのだから、わざわざ自分から貧に落ちる事はないのです。
それでは何故、教祖の指図(貧に落ち切れ)に従い、夫善兵衛、秀司、こかん、は苦労の道中を通る必要があったのか?
その最大の理由はもちろん・・・
子に苦労させない為
教祖、善兵衛、秀司、こかん、はご存知のように道具衆の魂。
- 中山善兵衛 = いざなぎの命
- 中山みき = いざなみの命
- 中山秀司 = つきよみみの命
- 中山こかん = くにさづちの命
道具衆は、この世の元はじまり(元の理)において、月日の思惑に賛同し共に働くと約束した魂。
月日と道具衆は一手一つになり、9億9万という途方もない年月を、人間世界の創造につとめられた人類の親神。
月日道具衆のご苦労のお陰で、私たち「魂(心一つの存在)」は、身体、衣食住、火水風、地球、太陽、極大の宇宙から極小の原子に至る広大な「かしもの・かりもの」を与えられ、ただ心を使うだけで、難しい体の仕組みを知らずとも、形を創造し自由用する能力を持たずとも、「心通りの守護」で「楽々の恩恵」に与り人生を謳歌できるのです。
全ては親の苦労の賜物
子に苦労させない為、子に陽気ぐらしさせる為に、親が貧に落ち切り一から道の土台を作り上げた。
万が一、子が貧(難儀)に落ちたとしても、月日の心を見失わなければ、心通りに運命が開ける「理(法則)」を打ち立てたのです。
人間としての善兵衛、秀司、こかん、の三名は、教組の思いに添い遂げることができず、志し半ばで出直されましたが、個人よりも家柄を重んじる時代に、夫善兵衛は、妻としての「みき」、月日の社としての「教組」を選択し、秀司、こかんも同様に「みき」の言葉を尊重したのだから、彼等の存在なしで「月日の社」を存立させることは不可能でした。
周囲からは「狐憑き」と疑われ、笑い誹りを浴びる中で、月日の思し召しに従い「貧に落ち切り」、それぞれ人間思案の狭間で揺れ動くことはあっても、「月日の社」として教組を立て続けたのだから、人間の親、道具衆の魂として立派に役目を果たされたのです。
全ては親が苦労を引き受け、続く道の子供らに楽をさせる為。
それなのに、自ら借金を背負い貧に落ちる行為は、親心を反故にする心得違いの信仰であり、完全に月日の思惑から外れています。
陽気暮らしとは年々、代々と喜びが増え続けることで実現するのだから、親より子が栄えることが陽気ぐらしの指標と言えます。
親(本部・上級)ばかり裕福に暮らし、子(末端)が貧しいままの集団なら、先細りになり淘汰されて行くのが理の定め。道の衰退も頷けると言うもの。
だからこそ、今回の『諭達第四号』は残念でなりませんでした。
教祖はひながたの道を、まず貧に落ちきるところから始められ、どのような困難な道中も、親神様のお心のままに、心明るくお通り下された。
諭達第四号
単なる歴史的事実と言われたらそれまでだが、真面目な信者であればあるほど「貧」を強く意識するのではないだろうか?
「贅沢」に罪悪感をおぼえ、「貯蓄」を先案じと忌諱しながら、「借金のお供え」「心定めと言う名のお供え」「理立て」「日参のお供え」など、「お供えの為のお供え」を優先する「貧の生活」を心に期すのではないだろうか?
もし、少しでも「お供えで難儀する者の心」に思いを寄せるなら、「貧に落ちきる」の一文を差し挟むことは控えのではあるまいか?
もし、真柱が、否、教団上層部が「難儀なる者の味」を分かっているなら・・・
4.一粒万倍にして返す
貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す。
稿本教祖伝逸話篇
以上、アンケートの総括でした。
まあ、下記投稿でも紹介しましたが、なんでもかんでも無闇矢鱈に「教組のひながた」と思うと、辻褄が合わなくなり、信仰で悩むことになりかねません。
どんなに「自分は喜び勇んでいる」と主張したところで、その結果周りを不足させたら本末転倒。
皆が喜べないなら方法自体が理から外れているわけです。
独り善がりの喜び、誰かを不足させる勇み心は、ただの我身思案。
「借金のお供え」は、心得違いの代名詞として、今後も語り継いで行く必要があると強く感じました。
なんぼしん/\゛したとても こゝろえちがひはならんぞへ
やつぱりしん/\゛せにやならん こゝろえちがひはでなほしや
みかぐらうた 六下り
おわり
コメント
ナイスですね(^^)
ありがとうございます。コメントに気が付かず返信が遅くなり申し訳ありません(>_<。)