異端と言う勿れ4 – 地場に存命のおやさまは働いていない説

異端と言う勿れ 天理の考察

『異端と言う勿れ』第四部

今回のテーマは『地場に存命のおやさまは働いていない説』。

いずむ
いずむ

えっ?

お地場に存命のおやさまは存在しなの?

いさみ
いさみ

はい、しません。

なーんて言おうものなら天理教信者の逆鱗に触れて袋叩きに合うこと請け合い。
天理教信者にとって、存命のおやさまは何人にも侵されざる聖域であり、もっとも大切にしている心の拠り所と言って過言ではありません。

それをしたり顔で『存命のおやさまなんて存在しませ~ん』なんて部外者に言われたらムカッ腹が立つし、反論の一つや二つ、鉄拳制裁の一つや二つ食らわしてやりたいと思って当然です。
プロレス好きの筆者が『プロレスなんて八百長だろ?やらせだよやらせ』と煽られるのと同じで、ちゃんと知りもしないくせに偉そうに暴言を吐くのは、人の気持ちが分からない最低のクズ野郎です。
きっと友達も少ないに決まっています!

え?
筆者には友達いるのかって??

わ、私の交友関係はどうでもいいのです!!
今話題にしているのは『お地場におやさまは存在するか?しないか?』。

おやさまは90歳で逝去されたのだから、この世に中山みきという実体が存在しないことは疑いようのない事実です。

しかし天理教のHPには以下のように説明されています。

教祖は、明治20年(1887年)陰暦正月二十六日、子供の成人を促すべく現身うつしみをおかくしになりました。そのお姿を拝することはできなくなりましたが、これまで同様、元の屋敷にお住まいになり、変わることなく世界たすけの上にお働きくだされています。この、ご存命のままお働きくださることを「教祖存命の理」といいます。

今もなお、ご存命のままお働きくだされ、私たち人間を陽気ぐらしへとお導きくだされています(※1)
https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/oshie/oyasama/

この事は天理教の人達が『おやさまの魂は永遠に不滅よ~』と勝手に妄想している訳では無く、飯降伊蔵(後の本席様)による『扇の伺い』で明らかにされた親神様の思惑を根拠にしているのです。

さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け(※2)

『おさしづ』明治20年2月18日

お姿を隠され、人間の目に見えぬ姿となった教祖(おやさま)が世界たすけのためにお働きくだされている。
『扇の伺い』は元の神実の神である月日親神様の御言葉であるから、『おやさまは皆の心の中で生きて働いている!』的な物の例えではなく、姿は見えないけれども実際に形に現れた何らかの方法で働いていると考えるべきです。

その働きの一つとして、上記おさしづ(※2参照)で明かされた『さづけの理』が挙げられます。
病む人に取り次いで身上回復のご守護を願う『さづけの理』は、なるほど教祖(おやさま)ご存命を印象付けるに十分な方法と言えます。
取り次ぐことで様々な病が治まり身上が回復する不思議な『さづけの理』。
しかし、身上は『かしものかりもの』であり、その御守護は月日道具衆の管轄(お働き)に他ありません。

教祖のお働きはあくまで『月日の社』であり、月日親神様の御心を私達人間に伝える役割。

つまり『さづけの理』で身上が回復した際に、『教祖(おやさま)がお働きくだされた!』と考えるのはお門違いなのです。

守護の主体はあくまで月日道具衆

勿論『さづけの理』を取り次ぎ、不思議な効能をいただいた時に、月日道具衆と合わせて教祖(おやさま)にお礼を言う事は間違いではありません。
『月日の社』が存立すればこそ、『さづけの理』をいただく道が開かれたのだから、教祖にお礼を言って然るべきですが、守護の働きは別の問題。

教祖(おやさま)は道具衆(いざなみのみこと)の魂と明かされているので、守護も教祖のお働きと考える向きもあるかも知れません。
しかし、教祖、中山みきの働きで特筆すべき点は、『月日の社』として月日親神様の御心を伝える傍ら、自らも一個の人間として月日の御心のまま通り切り『ひながたの道』を残されたこと。

教祖(おやさま)はあくまで普通の人間であり、不思議な守護を司る神様ではありません

普通の主婦だからこそ『人間のひながた』に成り得るのであり、神様の如く不思議な守護をする超人的存在なら真似しようが無いですよね。

要するに、教祖が成した不思議の数々は、教祖自身の能力ではなく、月日親神様の御心を完全に理解して心定めたからこそ、その心に理が働き多くの難渋を救い上げたのです。

つまり、教祖が普通の主婦と違うのは『月日の社』というただ一点。

教祖のお働き = 月日の社として月日親神様の御心を伝える
月日道具衆のお働き = 身上に不思議な守護を現す

即ち、『さづけの理』による不思議な守護をもって、教祖(おやさま)のお働きと考えるのは妥当ではありません。

『さづけの理』を渡す役目は、教祖、本席(飯降伊蔵)、上田ナライトの順に、月日親神様の御心に適った人に限定されていました。
しかし本席出直しの後、上田ナライトの事情で『さづけの理』が渡せなくなると、本部の判断で『中山たまえ』に取り次ぎ役を継承したのです。
これは親神様の判断ではなく、紛れもなく人間が勝手に下した判断。

上記おさしづ(※2参照)で『これから先だん/\に理が渡そう』との御言葉がありますが、この場合の『』とは、
心次第に
心を見定めて
つまり、その心が理に適うか判断して渡す
と教えられていたのです。

猫に小判のことわざ通り、心に理が無い者に『さづけの理』を与えたところで宝の持ち腐れ。
与える意味がありません。

これから先だん/\に心の定まりを見て渡そう

その結果、多くの心ある信仰者達が『さづけの理』拝戴に与るわけですが、『理が渡そう』の裏を返せば、理が判断した結果『さづけの理』を渡せなくなる状況も十分有り得えるのです。

それが上田ナライトの事情

そこにどんな事情があろうとも、『さづけの理』を渡せない状況こそが『理が渡そう』の御言葉通りに起きた理の定めなのです。

それを、上田ナライトが『さづけの理』を渡せないからと言って、人間の判断で他の誰かに代替させる行為は、一番大切な理(月日親神様の御心)を外した人間思案。
つまり現在さづけの理を拝戴しているからと言って、それをもって存命の働きと結論づける根拠はどこにも無いのです。

それじゃあ、今でもおさづけを取り次ぐと病気が治まるのは何故?
人間の判断が正しかった証拠じゃないの?
だから今も教祖がさづけを渡している根拠は揺るがない!

それこそ親神様の御慈悲かも知れません。
筆者は別席は運んでいないので当然『さづけの理』も拝戴していませんが、おさづけの真似事をすれば不思議に病状が治まる体験を何度もしています。
これって何を意味しているのでしょうか?

おつとめも初期の頃は、神名を唱え続ける単純な形式ですが、人間の成長に合わせて理が進み、今の『あしき払いのつとめ』へと整えられた経緯があります。

人間の成長に合わせて理は変わる(前進)のです。
そもそも理とは『人間の心一つに心通りの守護を頂くこと』。
人間の心が神様の思惑に適う段階まで成人したら、心一つで身上事情も治まるし、話一つで治めることもできるのです。
『さづけの理』はあくまで心が定まるまでの補助であり、本来は心に理を治め、心一つで何事も穏やかに治まり、心次第に喜びが何処までも見られる陽気ぐらしの世界(理の世界)を私達は生きているのです。

しかし、筆者がここで何を語ったところで真実を証明する手段はなく、また反論する側にも『信じている』以外の根拠は何一つないので、教義解釈の是非は不毛な水掛け論にしかなりません。

教祖存命なら、教義解釈を巡る論争など起こるはずがありません。
だって、分からない事があれば教祖(おやさま)に直接伺い立てればよろしいのだから。

教祖が姿を隠された後も、存命として本席様に心を映した教祖から親神様の御心を伺い知ることが出来たのです。

これこそ天理教HP(※1)に記載されていた『今もなお、ご存命のままお働きくだされ、私たち人間を陽気ぐらしへとお導きくだされています。』の実像ではないでしょうか?
新型コロナ禍、紛争、災害、難病など人間には難しい問題が起きたとしても、直接未来へ向けた心の治め方を教えてくださるのです。
教祖殿の前で祈り倒す必要も、神様の思惑は何処に?と心迷わす必要も無く、神様に凭れて安心と喜びの心で通れるのだから、教祖存命とはかくも有難く幸せな状況をもたらして下さるのです。

今のお地場でそれが可能でしょうか?

それぞれの心に去来する教祖ではありません。
それぞれが心の中で教祖に話かけたり問い掛けたりするのを問題視している訳ではありません。
筆者も教祖殿に行けば『教祖(おやさま)ただいま』と参拝します。
家に帰っても『教祖(おやさま)ただいま』と参拝するし、事あるごとに心の中の教祖に語り掛けます。

しかし、心の中の教祖とは、自身の心が作り出した虚像であり、教祖の実像と乖離しているケースがほとんど。
教祖の実像とは『みかぐらうた・おふでさき・おさしづ』で教えられた理であり、その研究無くして実像に辿り着くことは有り得ません。
例え、研究に心血を注いだとしても、現状を見れば分かる通り銘々勝手な悟りが蔓延り、教祖の実像に辿り着くことは困難の極みですが、現在進行形で教祖が存命ならばリアルタイムに実像を捉えることが可能になるのです。

幾ら心の中の教祖に問い掛けても、一方通行のまま返事は頂けません。

もし、返事が頂けるという方がいると言うなら、その方は本席様以降の後継となる天啓者に違いありません。
それこそ『教祖存命の証拠』。

しかし、そんな方は御用心。
決して口外してはいけません。

口外したら最後、異端のレッテルを貼られて歴史の闇に葬られてしまいます。
かつてお地場から追放された〇〇のように…

最後に、天理教信仰者からは言い訳がましく聞こえるでしょうが、筆者が天理教信仰者の反感を買い、罵詈雑言を浴びたとしても、『地場に存命のおやさまは働いていない説』を唱える理由は、教祖を慕い信奉するが故なのです。

きゝたくバたづねくるならいうてきかす
よろづいさいのもとなるを
『よろづよ八首』

この一首が現実になる時こそ、
『教祖存命のお働き』と言えるのではないでしょうか?

異端と言う勿れ

もしかしたら、
あなた方が異端として排斥しているのは、存命の教祖かも知れないのだから。

終わり

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コメント

  1. 坂井明久 より:

    寿限無さんの説です。みきは「月日親神様の御心を伝える」と、告げています。
    身上に不思議な守護を現すのは、「月日道具衆のお働き」と、告げています。

    教祖のお働き = 月日の社として月日親神様の御心を伝える
    月日道具衆のお働き = 身上に不思議な守護を現す

     稿本天理教教組伝には史実としてこうある。以下に紹介する。
     ● 「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるた
      めに天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」 ●
     ● 早々にお昇り下さい。と、懇願した。 神々しい威厳に充ちた声に、身の引緊まるような霊気
      がその場に漲った。 ●
     ● その言葉の終るか終らぬうちに、みきの様子は一変し、言葉も一段と厳しく、「誰が来ても神
      は退かぬ。今は種々と心配するは無理でないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と
      思う日が来る程に。」と、命ずるように、諭された。
       が、人々も退こうとはせず、人間の我々は、とても二十年も三十年も待って居る訳には参りま
      せん。今直ぐお昇り願います。と、迫ると、みきは更に激しく、「元の神の思わく通りするの 
      や、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、
      この家、粉も無いようにする。」と、無我の境に、ひたすら元の神の思召を伝えられた。 ●

     ● 善兵衞は、事こゝに至ってはお受けするより他に途は無い、と思い定め、二十六日、朝五ッ刻
      (午前八時)、堅い決心の下に、「みきを差上げます。」と、お受けした。 ●

     ● この時、それまでの激しい様子初めて鎮まって、中山みきは神のやしろと定まりなされ、親神
      の心入り込んで、その思召を宣べ、世界たすけのだめの教を創められた。これぞ、我等が、月日
      のやしろと仰ぎ、ひながたの親と慕い、教祖と稱える方である。時に、御年四十一歳、天保九年
      十月二十六日であった。 ●
     
     みきのこと、天理教は、「月日のやしろ」と仰ぎ、「ひながたの親」と慕い、教祖と稱えている。

     みき親筆のお筆先では、 いまなるの月日のをもう事なるわ くちわにんけん心月日や 12ー67 

                しかときけくちハ月日がみなかりて 心ハ月日みなかしている 12ー68
     
     と、はっきりと明記してある。

     みきの心は月日である。みきは教祖として、月日親神様の御心を伝え、20年は難儀の底へおちる。
     
     ようやく米もない状態に落ち切ったのである。月日は手を打って喜ばれた。

     ● こかんが、お母さん、もう、お米はありません。と、言うと、教祖は、「世界には、枕もとに
      食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。 
      そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されて
      ある。」と、諭され、又、「どれ位つまらんとても、つまらんと言うな。乞食はさゝぬ。」と、
      励まされたので、子達も、崩折れ勝ちな心を振り起して、教祖に従うた。 ●

     ● このように生計が苦しい時でも、その中から、食をさき着物を脱いで、困って居る者に与えら
      れるのが常であった。漸くの思いで手に入れた五合の米を、偶々門口に立って食を乞う者に、何
      の惜気もなく与えられたのも、寒さにふるえて居る者を見て、身につけて居る絆纏を脱いで与え
      られたのも、この頃である。 ●

     みきは、身で難儀の底に落ちるを行って、散財し、身でひと助けるを行って、ひながたとした。

      にち/\に心つくするそのかたわ  むねをふさめよすゑハたのもし    二 28

      いまの事なにもゆうでハないほどに さきのをふくハんみちがみへるで   三 36

      いまのみちいかなみちでもなけくなよ さきのほんみちたのしゆでいよ   三 37

     こころを豊かに 胸を富さめる。そして、末は頼もしい  坂井はこれを信じ疑わずとした。
     
     現状のことは語らず、先の王冠道を、見て、おお我が道は「大望の道」とした。

     たの趣味に、演歌カラオケを趣と、どんな難儀も演歌とした。歌って通る坂井の演歌王道。

      その根底には、こかんさまの道があった。

     ● この頃既に、こかんは、諸々の伺いに対して、親神の思召を取り次いで居た。飯降伊蔵夫婦
      は、毎日詰めて居り、山中忠七も、時々手伝いに来た。 庄屋敷村の生神様の、あらたかな霊験
      を讃える世間の声が、高くなるにつれ、近在の神職、僧侶、山伏、医者などが、この生神を論破
      しようと、次々に現われた。 【 慶応元年六月のふし:】 慶応元年六月の或る夕方、天理王
      命と申して、日暮に灯も點さぬのか。と、言いながら、二人の僧侶が入って来た。

      こかんが応待に出ると、つか/\と歩み寄り、その両側に白刃を突き立て、難問を吹き掛けた。
      隣りの六畳の間に居た飯降伊蔵は、いざと言えば飛び出そうと身構え、はら/\しながら問答を
      聞いて居た。しかし、こかんは、平然として常に変らず、諄々と教理を取り次いだ。

      僧侶は、理に詰った揚句、畳を切り破り、太鼓を切り裂くなど、暴れ散らして出て行った。 ●
     

     こかんさま、わたしはあなたに天理教を学びました。

     13峠を越えて難波に布教し、貧のどん底まで落ちて、若き神小寒 ひな型の道。理にて論破する。

     天理教はこかんさまが道の台であると思いますよ。

     寿限無さん。

     そして正しい事を説いてこの世を明るくする。それは天理教ではありません。

     死んだからいなくなった。それも天理教ではありません。

     寿限無さんは【おやさまは90歳で逝去されたのだから、この世に中山みきという実体が存在しないことは疑いようのない事実です。】と、みきさま存命を事実上否定しています。
     それは悪しき。
     みき様は、今も生きて、ヒトに寄り添います。

     天理教の常識は、お筆先に書かれ、おさしづに記録されます。

      第七号一〇一 どのよふなたすけするのもしんちつの をやがいるからみなひきうける

     病助けは、みきのしわざです。

      第四号一三 にち/\にみにさハりつくまたきたか 神のまちかねこれをしらすに

     身に障りは、みきの仕業です。

     ここに書いた内容は、WEBに投稿します。
     
     あなたが正しくご理解あるを、たのしみに。

     

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