異端と言う勿れ3 – 天理教は正道なのか?

異端と言う勿れ3 天理の考察

『異端と言う勿れ』もシリーズ化し、ついに第三部に突入!

今回は『天理教は正道なのか?』をテーマにお送りします。


Part1,Part2に記事を併せて読んでいただくと全体の趣旨が理解できると思います。
以下、参考記事。

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第三部を書く動機になったのが、X(旧twitter)で筆者宛て届いたポスト。

せんたん

筆者を異端と見做す方から『早く正道に戻っておいでー』と言われ、『ん?現天理教って正道なのかしら?』と疑問に感じたのが始まり。

現在お地場に本部を構え、教団規模も最大、世間に認知されている点から見ても、現天理教団が主な勢力に間違いないと思います。
ただ『正道』と言われると首を傾げてしまいます。

何故なら、私が考える『正道』とは『教祖(おやさま)の教えを正しく受け継ぐ』ことであり、天理教の歴史を紐解くと、現天理教団を正道と位置付けるには一考の余地があるからです。

その根拠となるのは、またしても筆者の愛読書『劇画 教祖(おやさま)物語』。

劇画『教祖物語』

読んだ人なら分かると思いますが、そこには教祖(おやさま)に逆らい続けてきた先人達の姿が克明に描写されています。

慶應三年、外部の弾圧から逃れ天下晴れて布教をするために、教祖の長男である秀司は「吉田神祇管領」へ公認の願いに出ようと画策する。
その際に教祖(おやさま)は…

この屋敷の神は元の神、実の神や。吉田神祇管領の配下の神ではない。そんな願いに出るのやない!
『劇画 教祖(おやさま)物語』より

このようにハッキリと反対の神意を示された。

それでも秀司は耳を貸さず公認へと動き出す。
この時、教祖(おやさま)は以下のように諭されています。

吉田家もえらいようなれども一の枝のごときものや。枯れるときもある。
『劇画 教祖(おやさま)物語』より

そして、教祖(おやさま)の言葉通りに吉田神祇管領が廃止になると、今度は新政府に公認を願い出ようと動き出す。
そこでも教祖(おやさま)は…

そんなところへ願い出るのやない。親神様にもたれていけば案ずることは無いのやで。
『劇画 教祖(おやさま)物語』より

このように『親神様にもたれていけば案ずることはない』と理を諭されました。

しかし、その後も教祖(おやさま)への反抗は続き…

ある時は教祖の意に反して、風呂屋と宿屋を経営するために県庁へ許可を申し出る。
ある時は教祖の意に反して、地福寺の看板を借り「転輪王講社」と名乗る。
ある時は、「親神様のおおせと国のおきてと両方の道のたつようお指図おねがいします」と教祖に要求する始末。
『劇画 教祖(おやさま)物語』より

天理教の歴史を振り返ると、教祖(おやさま)の言葉を信じられず、人間の都合を立て、目先の安住を求め続けた道中が伺えます。

『神の社』である教祖(おやさま)に対してもこの有様なのだから、本席様に至っては言わずもがな。
道の先人と言えば聞こえはいいが、親神様のお慈悲でギリギリのところをお連れ通り頂いていたのです。

そして最大のターニングポイントと言える第三章『扉開いて』でも、初代真柱中山眞之亮をはじめとする側の者の葛藤が描かれています。

つとめをすれば九十歳の教祖が牢獄に入れられる。
つとめをしなければ教祖の身上が厳しくなる。

親神様の急き込みと法律の板挟みに合い苦悩する一同。

しかし、教祖(おやさま)の身上がいよいよ差し迫り、漸く決心した眞之亮は『わたしは心を定めました。命がけでおつとめをさせていただこう!』と皆に伝える。

命捨てても

『命すててもという心の者のみやらしてもらいましょう!!』

勇ましい決意表明。
眞之亮一世一代の見せ所!
これぞ天理教史上最高の名シーン!!

ですが…
これって『心を定めた』のでしょうか?

命懸けで親神様の思いに答える…
と言えば誠のように聞こえますが、『命懸け』の心境は教祖の諭された『親神様にもたれる』とは明らかに異なります

親神様にもたれていけば案ずることはないのやで
『劇画 教祖(おやさま)物語』P351

『もたれる』から生じるのは『安心』です。
親神様にもたれて安心してるのに、どうして『命掛け』になる必要があるのでしょうか?

これは『心定めた』ではなく、『行動を決断した』だけ。

『心定める』とは親神様の心に全般の信頼を置いた状態。

もたれる = 安心

つとめをすれば高齢の教祖(おやさま)諸共もろとも屋敷の住人が監獄に拘留される。
この不安が先案じを生み先案じするが故に『命掛け』という言葉が口からこぼれ出る。
つまり、眞之亮は心を定めたと言いながら、教祖(おやさま)の言葉を信じきれず親神様にもたれていないのです。

六ッ むりにでやうといふでない こゝろさだめのつくまでハ
『みかぐらうた』九下り目

無理に出ようというでない 心定めのつくまでは』と歌われるように無理を押しての勇み足

目に見えない親神様よりも、目に見える確かな形を頼りに、目先の安住を求め続けた先人達。
この傾向は本席様お出直し後の、天啓者不在の時代に入り益々顕著になります。

大正10年(1922)の倍加運動に代表されるように、教会を増やせ!教徒を増やせ!教師を増やせ!兎にも角にも教勢拡大を信仰の最優先事項とし、路傍講演、神名流し、戸別訪問など実働による布教活動こそ誠ともてはやされたのです。

おさづけをいただきながら、おたすけができぬようでは道の落第者である!!
みなさんは道の落第者にならぬように心がけねばならぬ!!
『劇画 教祖(おやさま)物語』

四百万ある信徒を倍の八百万にし二十万の教徒を四十万にしッ
二万の教師を四万にしッ
四千五百の教会を九千にするのでありますッ
すべての面で勢力を二倍に同化しようというのでありますッ
『劇画 教祖(おやさま)物語』

みかぐらうたは真実者の行進曲であり勇ましく手踊りを舞い進むところに陽気ぐらしが実現するのでありますッ
天理教布教師はこぞって街頭に立てッ
巷にいでよッ
そしてその声を高くして天理の神名をとなえよッ
『劇画 教祖(おやさま)物語』

日本国民八千万人全部をおさづけ人としてしまおうではありませんか!
本教には一万人の教会長と二十万人のおさづけ人がいるッ
これが月に一人ずつ別席人をこしらえれば決して難しいことではない!
『劇画 教祖(おやさま)物語』

息をのむような迫力の描写。
天啓者無きあと、先人達の主張は一貫しています。
教勢の拡大

考えるより身体を動かせ!
実働こそ誠!
数字こそ真実!

目標帰参者○○○人、目標お供え額○○○万円、教勢拡大こそ教祖のご恩に報いる道!

まるで厳しいノルマを課すブラック企業のごとく檄を飛ばし、信徒を実働へと駆り立てる。

『心定め』とは、お供えの金額、ひのきしん・路傍講演の数、戸別訪問・パンフレット配りの件数等の目標を設定することではありません。
やるか? or やらないか?
これは『心定め』ではなく決断の問題。

決断する際に心の良し悪しは問われません

渋々や嫌々でも決断できる。
ノルマや仕事と同じ感覚でも決断できる。
打算や欲深い心でも決断できる。

つまり心の状態に関わらず、教勢拡大の為に実働する姿こそ誠と評価されるのだから、もはや『心定め』に心は問われないのです。

月日の社である教祖(おやさま)には反抗し続けた挙句、本席様出直し後には目の上のたんこぶが消えたとばかりに人間心でやりたい放題、人間様の天下。
穿うがった見た方をした訳でもなく、『劇画 教祖(おやさま)物語』を素直に読むだけで、先人達のやっちまった感が伝わります。

筆者の目的は、先人達の道中をあげつらい批判したい訳ではなく、この様な歴史的側面を謙虚に受け止め、その延長線上に聳え立つ天理教団の現状を心得るべきでは?と問いているのです。

そして最も論じたいのが『心定め』の難しさ

これは信仰している各々が痛感していると思いますが、自分の心はそう簡単に変わらないし、これまで慣れ親しんできた人間思案・癖性分を、親神様の心へと立て替えることは容易な作業ではありません。
この『心定め』の難しさが『劇画 教祖(おやさま)物語』に歴史的事実として綴られているのです。

教祖出直しに先立ち、飯降伊蔵の扇の伺いにより伝えられた神言からも、なかなか心が定まらないそばの者の様子を伺い知ることができます。

さあさあもう十分詰み切った。
これまで何よりの事も聞かせ置いたがすっきり分からん
何程言うても分かる者は無い。
これが残念。
疑うて暮らして居るがよく思案せよ

さあ神が言う事嘘なら四十九年前より今までのこの道続きはせまい
今までに言うた事見えてある。
これで思やんせよ。
さあ、もうこのまま退いて了うか納まって了うか。
『劇画 教祖(おやさま)物語』P595

この頃は未だ『道半みちなかば』だから仕方がない?
後々の『話の台』だから仕方がない?

この様に捉える方もいると思いますが、これだけ長い間、教祖(おやさま)と時間を共にしたそばの者達でさえ『疑うて暮らして居る』と言われ、若き神と言われた教祖の実娘こかん様でさえ、親神様の思いに心定めることが出来ず出直されているのです。

今の私達は教祖(おやさま)・本席様を知らない世代。
当時、お側で仕えた方々でも難しいのに、現在、親神様の啓示を頂けない私達に『心定め』が出来るでしょうか?
教祖(おやさま)の教えに曇りない信仰が可能でしょうか?

天理教の人達は、心が定まらない半人前の状態を『道半みちなかば』と表現しますが、もし道の途中で親神様の天啓が途絶えたら?
もし長い旅の途中で行く道を示す地図が途切れたら?
私達はちゃんと目的の地に辿り着けるのでしょうか?

立教から180年以上も理を積んだはずなのに、未だ『道半みちなかば』と自嘲する信仰者の姿は、謙虚でも低い心でもなく誤魔化しの『免罪符』で牽制しているように映ります。

教祖や本席様の諭しに逆らった過去があったとしても、天啓が続いていれば心得違いを修正することは可能です。
しかし、お地場から親神様の声が消えた今、心得違いが暴走したら最後、誰も正しい道に修正できないまま、神様の思惑とは違う向きへと突き進んでしまうのです。

これこそ『天啓者不在』がもたらす弊害。
心を見抜き見通し、心の正誤を見極め、心の向きを正しく導ける天啓者を排除した組織の悲哀。

この様な理由で、今の天理教を『正道』と位置付けるには疑問を感じるわけです。

お地場に本部を構える故『正道』と思いたい気持ちも分かりますが、それで他者を『異端』と罵れば、その瞬間から教祖の正道から外れるのだから、お互いに低い心を持ち、他者ではなく自身の魂と向き合う信仰を心掛けたいものです。

異端と言う勿れ2 – 神の名を借る悪魔』でも書きましたが、自らを正道に置き、他者を異端と見做すと自省する機会を失います。
自分達が正しいと妄信すれば自らを絶対善と思い違いし、心の汚れを洗いきる努力を放棄することになります。

三ッ みづとかみとはおなじこと こゝろのよごれをあらひきる
『みかぐらうた』五下り目

水と神とは同じこと 心の汚れを洗いきる』と歌われているように、水が無ければ心の汚れは洗い落とすことは出来ません。
水とは勿論『みかぐらうた、おふでさき、おさしづ』に代表される親神様のおことば

親神様の天啓が途絶えた地場には現在進行形の水が存在しません
『みかぐらうた、おふでさき、おさしづ』の三原典は紛れもなく親神様のおことばですが、本席様が出直されてから100年以上経過した現在、その水はにごり混じりの氷山へ姿を変えています。
氷山から清水を抽出するには相当な探求心と、親神様の心を希求し続ける信仰心が必要になりますが、例えある程度の神意を汲み取れたとしても、人間の努力で到達できるのは文字通り氷山の一角。

銘々の悟りという人間思案が跋扈ばっこする現状を見ても分かる通り、天啓者不在は混乱と無秩序しか生みません。

天啓が続いていれば親神様の太鼓判を得て、一点の憂いもなく正しい道を通ることが出来るのです。
この考えは異端でしょうか?

これこそ教祖(おやさま)・本席様がお連れ通りくだされた正道ではありませんか?

異端と言う勿れ

もしかしたら
道を踏み出しているのは自分自身かも知れないのだから。

七ッ なんぼしん/\゛したとても こゝろえちがひはならんぞへ
八ッ やつぱりしん/\゛せにやならん こゝろえちがひはでなほしや
『みかぐらうた』六下り目

信仰者よ『正道とおごるなかれ』。

おわり

異端と言う勿れ - おやさまは異端に厳しかったのか?
今回は天理教の異端問題について考えを述べたいと思います。 この記事を投稿する動機になったのが、SNSに定期的に流れてくる下記のポスト。 『おやさまは異端にだけは厳しかった』 このポストを要約すると、『異端に厳しく対応するのが、おやさまのひな...
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コメント

  1. 坂井明久 より:

    こんな、説が説かれています。

    親神様の天啓が途絶えた地場には現在進行形の水が存在しません。
    『みかぐらうた、おふでさき、おさしづ』の三原典は紛れもなく親神様のお詞ことばですが、
    本席様が出直されてから100年以上経過した現在、その水は濁にごり混じりの氷山へ姿を変えています。
    氷山から清水を抽出するには相当な探求心と、親神様の心を希求し続ける信仰心が必要になりますが、例えある程度の神意を汲み取れたとしても、人間の努力で到達できるのは文字通り氷山の一角。

    銘々の悟りという人間思案が跋扈ばっこする現状を見ても分かる通り、天啓者不在は混乱と無秩序しか生みません。

    天啓が続いていれば親神様の太鼓判を得て、一点の憂いもなく正しい道を通ることが出来るのです。
    この考えは異端でしょうか?

    これこそ教祖(おやさま)・本席様がお連れ通りくだされた正道ではありませんか?

    『異端と言う勿れ』

    もしかしたら
    道を踏み出しているのは自分自身かも知れないのだから。

    。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

     真柱という超天啓者がいる。
     何もかも月日が支配する。その芯に、しんばしらがいる。

     これに不満ですか。

     天啓が続いていれば親神様の太鼓判を得て、一点の憂いもなく正しい道を通ることが出来るのです。
    この考えは異端でしょうか?
     天啓はと、議論するのも楽しいでしょうが、人間を始めたおやは、存命でいるのです。

    「今までに言うた事見えてある。」

    月日は、月日(年月)で予言して、ちゃんとその年に出している。

    天啓などはもう語りつくされている。

    神は、見えぬ先に説いておいて、正月晦日130年、きちんと出してくる。読み解きましょう。

    ふでさきの理です。

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