今回のタイトル見た?
「理の親」信仰の誤りを正す!・・・って何様のつもりかしら?
これだから嫌われるんだ。
寿限無って友達もいないみたいだよ。
わ、わかりました。
タイトルを「理の親について考える」に変更します。
「・・・考える」?
「・・・考えさせて頂きます」・・・これくらい、へりくだらなければ皆さまの共感を得られないわよ!
なるほど・・・
それでは再度改めまして・・・「理の親について考えさせて頂きます」
天理教では何かと問題になり、賛否両論ある「理の親」について考えさせて頂きます。
「理の親」に関しては下記サイトで徹底した論理的思考で解説されています。
ここでは「理の親という教理は存在しない!」と結論付けている。
天理教事典(旧版)にあるような、
順序
「理の子は理の親に向って、また部内教会は上級教会を通して教会本部へ、尽くし、運ぶ。このような信仰の道筋を欠かすことなく追い、運ぶことを「順序の理を運ぶ」という。」こうした教理はない、とハッキリ言っておきます。
私も、この意見に大筋で同意です。
そもそも「理」とは法則・道理を指し、「理」を司り、「理」を示せるのは人間の創造主・月日親神様以外に有り得ません。
理 = 神
先ず、この認識を明確にする必要があります。
先述の天理教事典(旧版)の「順序」はあくまで形式的な話であり、組織運営上、もっとも効率の良い運び方が示されているに過ぎない。
教祖ご存命当時でも、物理的に全員が全員、教祖の面前でお伺いできる訳では無く、教祖の教えを治めた師弟達が教祖の代わりにお話しを取次ぎ、それで治まらなければ教祖にお伺いする仕組みが存在し、また道が広まれば広まるほど、その師弟、更にその師弟・・・と、段階を踏まえることでスマートに教祖の教えを広めてきた経緯がある。
それが現在の教会本部・上級教会・部内教会であり、それ自体は教えを伝道するに合理的な形態であると言える。
しかし、この形態は、あくまで教祖存命、または本席様存命、つまり「聞きたくば訪ねくるなら言うて聞かす」・・・この一節を可能にする「神の機械」が存在することで最大の効力が発揮されるのだが、現在「神の機械」は存在せず、本席様以降「救けの理」が神の明確な言葉・意志として降された事実はなく、この仕組みが持つ本来の効力を発揮出来ずにいる。
それでも不思議な「おたすけ」が沢山現れ、教勢が右肩上がり、教会にも沢山人が集まり財政も潤っていれば「神様のご守護だ!有り難い!有り難い!」と喜んでいられるが、段々「おたすけ」の効能が下火になり、教勢も下降線を辿り続け、財政も厳しくなれば「神様のご守護が頂けない。何か悟り違いがあるのでは?」と現状を疑問視する動きも出始る。
そして、当然のことながら、その矛先は本部に向けられ、本部の体制そのものに疑問を感じ、明らかな否定行動・批判的に論が展開され、益々教内は混乱することになる。
道を広めるために合理的だった仕組みが、今や、財政的に苦しい部内教会・信者達からお供えを吸い上げるだけの「集金システム」としてクローズアップされてしまう。
その上「理の親」を金科玉条の如く掲げ、「理の親の言うことは絶対、黒でも白と思え!」と心を置き去りにして、形だけを従わせる上級の存在があるとしたら(まあ、そんな暴君はいないと思いたいが・・・)、それは「道を広めるための合理的仕組み」の崩壊を意味する。
悩み苦しみから解放し、心を自由にするはずの教えが、信仰という名の盲従を強い、思考を停止させ「心の自由」を奪うなら本末転倒どころの騒ぎでは済まされない。
宗教史上最悪の事件を起こしたカルト教団と内情は大差無い。
事件を起こすか?起こさないか?の違いだけで、信仰者を苦しめる点においては大差無いと言える。
これは信仰における負の一面だが、その危険性は常に付きまとう。誰も「自分が大丈夫!」など言い切れる保証はない。もし「自分は大丈夫!」と本気で考えているなら、既に信仰の暗黒面に堕ちていると思って間違い無い。
他言を聞き入れず、それを拒絶し、批判するだけならまだしも、他者に悪態をつき攻撃するに至っては、「我こそは理の親!」と息巻く暴君と何処に違いがあるのだろうか?
今一度、自身の信仰を振り返り、自分を疑い、理性的に問いかける時期と痛切に考える。
道は大きな転換期を迎えたのではないだろうか?
「理の親」信仰の勧め
ここまで書いたら完全に「理の親」信仰に対して反対意見だと思われるかもしれない。
だが、私はむしろ「理の親」信仰をお勧めしたい。
教内で「理の親」信仰にアレルギー的反応を示すのは、上記で説明した「差し迫った背景」が主な原因であり、その現状に曝されている人間にとっては「理の親」信仰こそ悪の枢軸と考えて当然である。
だが一方で「理の親」信仰を好意的に受け止めている信仰者も存在する。
その方達の話を聞けば「上級・先生・先輩」・・・
所謂、お道で「理の親」と呼ばれる対象者に好意的な感情を抱いていることが解る。
「上級・先生・先輩」に「教理や道の通り方を教わり」その結果「お陰様」と感じているので、それらを「理の親」と呼ばれることに全く抵抗感はなく、むしろ好意的に受け止めているのだ。
ここでは「理の親」が本来の意味に近い言葉として用いられ、主従関係も円滑かつ喜べる形として成り立っている。
要するに、「理の親」と呼ばれる側に「理の親」信仰を好意的に抱かせる資質が備えられているのだ。
ここまでを総括すると
「理の親」と呼ばれる側の資質に問題がある。
「理の親」と呼ぶに相応しくない。
「理の親」と呼ばれる側が資質を備えている。
「理の親」と呼ぶに相応しい。
結局は人の問題なのか?
生徒を指導するに相応しくない資質の者が「先生・親」となれば、下の者が反感や疑問を持って当然である。
そして、それが「理」・・・つまり「天の法則」と定めてしまえば、下の者は「どんな暴言」であろうと「善」として治めなければならない。
心から「先生・親」と呼べない相手に対して、無理矢理「理の親」という形式(主従関係)に当て嵌めようとすれば必ず歪みが生じる。
それを「心が治まっていないから」という理由で信心を強要したらどうなるか?
ロボットのように心を無くすか、心が崩壊し道を離れるしか救われる術はなくなるだろう。
世界救けを標榜しながら、側にいる人間の心を治められないどころか、苦しめ悩ますことしかできない人間が「理の親」として存在することが問題の本質・・・ではあるが・・・
やはり、その仕組みを許し、放置している本部に最大の問題があると言わざるを得ない。
人を救け、導くはずの教職員、上級、親の立場にある者に、正しい理を教え、正しい先導者を育成する仕組みが機能しているのか?・・・疑問を禁じ得ない。
もちろん、教内には下から尊敬される先導者も沢山いるだろうし、もしかしたら「悪の枢軸」の如きに問題視される者はごく少数かもしれない。
それでも、これだけ「理の親」が賛否両論を呼び、活発な議論が湧き起こる現状は、教理の正誤の判断が、それぞれの悟りによって任されている事実を如実に示している。
だが、教理の誤りを正し、道を修正できる資格を備えた者は何処にいるのか?
その資格は本部にあるのか?大教会にあるのか?道の達人にあるのか?
否、それが可能なのは神である。
神の意を伝える「神の機械」である。
天理教とは元々「神の機械」の存在により、成り立ってきた道なのだから・・・
人間とは疑い深いもの・・・
教祖・本席様、ご存命当時、信仰者がどれだけ真意を悟っていただろうか?
はじめに紹介したサイトでも説明されているが、「理の親」という言葉が唯一登場する「おさしづ」を読み解くだけでも、本席様存命でありながら「心の治まり」とは程遠い状況が伺われる。
明治32年8月28日 おさしづ
峰畑為吉三十九才身上願
他に分教会順序これまでそも/\″であったやろ。何か事情心に掛かったやろ。一時事情前一つ理はもう無くなった理、又改まりた理は、道順序の理。道の親、理の親、これ心にちんと治めてくれ。
そこに映し出されるのは上下関係に執着し、他人を押しのけ欲心を露にする「我が身思案の権化」。
幹部役員割拠して策謀する因縁の姿、即ちそれぞれが自己を主張し、自分が先輩や、いや功績がある、といった具合で、元の理、順序の理をわきまえず、深い教祖の思召しなど忘れ、ただ曇りの事情、罪の事情を重ね、それぞれが勝手な理をこしらえ、肝心なおたすけさえそこのけに後担任問題に明けくれていたようである。
『山田伊八郎伝』p183
だが、その事に関して言えば、先人を責める気はさらさら無い。
治まらないのが当然。
治まらないからこそ、本席様、神の機械が存在し、心の道を正しながら「陽気ぐらしへの道」を連れ通りくださる「道すがら」なのだから・・・。
要するに、教祖存命の時代、本席様存命の時代、いつの時代でも「道なかば」である以上、神が言葉を降し、道を示し、心の向きに保証を与えない限り、心の治めようがないのだ。
現在、新型コロナウィルスの混乱を見れば解るだろう。
誰が、その理由を説明し、治め向きを示すことが出来るのか?
本部に出来るのか?
大教会に出来るのか?
それぞれの信仰者に出来るのか?
いや、誰にも出来ない。
だが教祖・本席様ご存命当時なら、間違い無く、事態を終息させる「心の治め向き」を説かれたであろう。
「理の親」の是非から大きく逸れた話に感じるかもしれないが、「神の指図」が頂けない現状こそが、道が混乱し混迷する、そもそもの原因なのだ。
しかし「神の指図」が存在しない以上、残された教典(みかぐらうた・おふでさき・おさしづ)から神意を悟り、心治めて行くしか道はないのだが・・・
その神意を悟り・心治めていく過程で「勝手な理」が横行する。
神の機械が存在しない弊害。
もはや道を正すことすら不可能なのか?
だが、同時に人間勝手が通用する道でもない。
冒頭で説明した通り「理とは神」。
そして「道」とは「神の道」。
私達が通る道に「勝手な理」が横行すれば、「理」により裁かれ、「理」により正され、「理」により淘汰される。
現に「理の親」を金科玉条の如く掲げ、下を付き従わせようとする勢力は風前の灯火だろう。
今の時代に合わず、大多数の者から支持を得られないまま、旧時代の遺物として、やがて消え去る定め。
だが、そんな悠長なことを言っている場合ではない。
もはや天理教そのものが旧時代の遺物として時代の波に飲み込まれる可能生もある。
そんな危機感を抱く者も少なくないだろう・・・
「そんな事があるか!これは正真正銘の神様が付けた道だ!」と反論も当然あるだろう。
だが「神の道は安泰」などと鷹をくくり、旧態依然の体制を続けることが、ホントに正しいのだろうか?
神の道が安泰で益々栄える・・・には、当の人間が「神の意」を正確に治めることが前提。
我が胸に疑問を付きつけ「本当に大丈夫!問題ない!」と言い切れるだろうか?
それとも疑うことは悪、反対する者・批判する者こそ悪と断じて、目の前の現実から目をそらし続けるのだろうか?
素直を疑え!
「素直」とは上の指示に疑問を差し挟むことなく、無条件に従うことではない。
「理」を素直に理解して、恣意的に用いず、「陽気ぐらしへの道」を1つ1つ実現すること。
その為には「理」に対する正確な理解が必要不可欠。
私が「理の親」信仰を勧める理由はここにある。
元々「理の親」とは「理(法則)」ではない。
「理の親」とは、教えを聞く全ての者が治めるべき「信仰目標」なのだ。
我々にとって一番の「理の親」は間違いなく「月日親神様」である。
そして「月日親神様」の心を治めた教祖も、間違い無く「理の親」である。
全ての者に対して、親神様と同じ「親心」で接し、親神様の理を説かれたのだから「理の親」と呼ぶに誰も異論はないだろう。
「理の親」と呼ぶべきかは、また別として、誰も異論は無いはずだ。
そして、本部員でもいい、大教会長でもいい、無名の会長でもいい、一介の信仰者でもいい・・・
誰でも構わないが「月日親神様」の教えを治め、教祖と同じ親心を実現する者が存在し、正しい理を説き、正しい信仰姿勢を示し、どんな中も難なく喜びで通る道を実現したら、「理の親」と呼ぶに異論はないだろう。
むしろ「理の親」と呼びたなるかも知れない。
要するに・・・
全ての信仰者が「理の親」を目標として、理の研鑽・理の実践に励む
「理の親信仰」
を確立することが道の未来・道の発展に繋がり、誰もが納得し、誰もが救われ、誰もが喜ぶ道の再生へと繋がると私は考える。
我々が求める答えは「みかぐらうた・おふでさき・おさしづ」の中にしかない。
どんなに教理を勉強しても、自分勝手な悟りなら意味は無いかもしれないが・・・
だが月日親神様が人間を創造した根本の理由さえ忘れずに、そこに辿り着くことに標準を合わせ、他人に向けることなく、飽くなき内面の探求を続ければ、必ず神様が答えてくださる。
理に己の心を照らし合わせ、どんな中も喜んで通れる神一条の心を作り上げれば、理は大きく前進するのだ。
最後に・・・
どろ海の中、神は閃いた
人間の喜びを見て共に楽しみもう・・・
この人間世界誕生の発端となった思いに込められているのは、
他者の喜びを己の喜びとする心
その心が人間完成の到達点。
その人間こそが陽気ぐらしの先導者。
それが「理の親」。
・・・もう一度聞くわ。
自分を何様だと思っているの?結局、最初から終わりまで一貫して偉そうだったわね。
読んでくれた方々が不快な気持ちにならなければ良いが・・・
以上、
理の親を考えさせて頂きました。
おわり
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