天理時報(令和4年7月13日発刊)を読んでいたら面白い記事を見つけた。
第16期 読者モニターアンケート企画
つながりTalk Room みんなに聞きたい!こんな時どうしてる?第2回「かしもの・かりもの」
という企画コーナーだが、その質問と答えが興味深かったので感想を書いてみた。
Q1,Q2と二つの質問に複数の読者が答える形式だが、Q1の質問から自分的には大変な興味をそそられた。
その質問が・・・
体の正しい使い方って?
Q1 体の正しい使い方って?
素朴な質問なのですが、親神様からお借りしている体の正しい使い方とは、どのような使い方なのでしょうか?
(20代男性・会社員)
何が興味深いかって?
その多くが心の在り方を説く宗教において「心の使い方」なら分るが「体の使い方」?
天理教では「体の正しい使い方」を学ぶことで陽気ぐらしがへの道を説いているのだろうか?
まさか筆者が知らないだけで「体の正しい使い方」一つで「神々しいまでの肉体美」になれる魅惑的な教義があるのか??
果して皆さんどんな回答をするのだろう?
もし私がこの質問に回答するなら・・・
- 関節を逆の向きに曲げない。折れるからね。
- 車と相撲を取らない。轢かれるからね。
- 鳥の真似して高層ビルから飛び降りない。重力に負けるからね。
- 水の中で深呼吸をしない。溺れるからね。
このように「物理法則の観点」かつ「解明された体の構造」で「体の正しい使い方」を答えるしかないだろう。
でも「それが信仰と何の関係があるの?」と言われると困ってしまうが・・・
そんなこんなで早速、回答者のご意見に目を通して見よう!
回答その1
お借りしている体を正しく使わせてもらうには、「心一つが我がの理」と教えられるように、日ごろから心のあり方を学び、磨くことが大切。心のほこりを積まないように生活する中で、自然と正しい体の使い方ができるようになると思う。
仮名Aさん(分教会会長)
仮名Aさんの回答は「正しい体の使い方」の具体例を出さす、「心のあり方」を学び磨き埃を積まない生活をすれば、自然と正しい体の使い方ができるようになる・・・と、なんとも煙に巻いた感じで、肝心の「正しい体の使い方」について何も言及されていない。
ところでAさんは正しい体の使い方を会得したのだろうか?否「できるようになると思う。」だから単なる希望的観測だよね。
・・・ここで一つの疑問が湧いて来た。
そもそも「正しい体の使い方」ができるようになると何が起こるのか?
回答その2
かしもの・かりものの理についてお伝えする際、いつも笑顔で、優しく丁寧な言葉づかいを心がけている。そして、自分の周りを明るく、清々しくするような楽しい輪を広げていくこと。これこそが、親神様が一番お喜びくださる心と体の使い方だとお伝えしています。
仮名Bさん(分教会会長)
「自分の周りを明るく、清々しくするような楽しい輪を広げていくこと」。このように仮名Bさんは「体の使い方」を明記しているが、心と体を一つのものとして表現している。まあ、それはそうだろう。だって心と体は切り離せないし、心を使えば体は心通りに動くかならね。その点は仮名Aさんも同じスタンスだろう。
そして、さきほど感じた疑問にも答えてくれている。
親神様が一番お喜びくださる・・・つまり、「正しい体の使い方」ができるようになると「親神様がお喜びくださる」と言う理屈なのだ。
質問者も、親神様にお喜びいただくために「正しい体の使い方」を知りたいのだろうか?
回答その3
私たちようぼくは、教組のひながたの万分の一でも実践させていただくことを心に置いて通ることが大切です。毎日を明るく、自分に与えられたことを精いっぱいつとめましょう。
仮名Cさん(布教所所長)
仮名Cさんも「体の使い方」というよりも「心の在り方」に重きを置いて言及している。教組のひながたを実践することが「正しい体の使い方」だと答えている。
そして教組のひながたの実践が「毎日を明るく、自分に与えられたことを精いっぱいつとること」であると同時に、それが「親神様がお喜びくださる正しい体の使い方」になるとの回答。
ふむふむ、段々全貌が見えてきたようだが、結局のところ「親神様にお喜びいただく目的」は何なのだろうか?
親神様がお喜びくださると人間にとって何か良いことが起こるのか?!
回答その4
仕事を続ける中で、両足がひどく痛むようになった。騙し騙し勤めてきたが、これも親神様のてびきと思い、負担を減らして働かせてもらおうと考えている。やはり、自分の望みに合わせて体を使うのではなく、神の望みを思案して、そこに自分の心と体を合わせていくことが大切なのだろう。
仮名Dさん(分教会会長)
仮名Dさんは「正しい体の使い方」をしないから「両足がひどく痛む」結果に繋がると回答している。
しかも「両足がひどく痛む」ことが神様の手引き、つまり親神様の意志でDさんの両足に痛みを与えていると言うのだ。どうしたら親神様の望みに合う体の使い方ができるのか?どうしたら親神様がお喜びくださり両足の痛みを治めてくださるか?・・・
うーん、要するに仮名Dさんは「正しい体の使い方」をしないと、怪我や病気など、体に良からぬことが起こる・・・と暗にほのめかしている。
親神様の手引きと言われるが、現実問題として歪な歩き方をしていると関節に負担が掛かり足腰を痛める原因になるけど、それは信仰の問題ではなく身体構造の問題だよね?
体に負担のない正しい姿勢で生活していても、神様の望みに合わなければ体が痛むと言うことか?
神の望みを思案して?
そもそも神の声を聞いたワケでもなく、明確な神の望みを知るワケでもないのに、体が痛むからと言って神様の望みが分ると言うだろうか?
神様の望みが分るなら初めから、神様の望み通りの心で生活していればいいのでは?教会の会長なのだから・・・
うーーん、なんか、ここに来て全体の意味合いに大きな変化が起きたように思える。
「親神様がお喜びくださる」と一見敬虔に思える言葉の裏に、神に対する恐怖の念が見え隠れするのだ。
回答その5
私は一人で過ごすのが好きな人間ですが、自分のためだけに時間を使っていると、自分のことばかりに目がいって、ここが痛い、あそこが痛いと気になりだします。人間は人さまのために動かせてもらうように造られており、人だすけの行いを心がけて生きることで、心も体も健康になると思います。
仮名Eさん(分教会会長)
やはり仮名Eさんも同じように回答されている。
自分のためだけに時間を使う(体を使う)と、ここが痛い、あそこが痛いと気になり出す・・・つまりDさんが両足が痛くなったと同様に、神様の望みに合わせて正しく体を使わないと、心も体も健康になれない・・・そして、その方法が「人さまのために働く、人だすけの行い」と言うワケだ。
天理教には「人をたすけて我身助かる」との教えがある。
わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる(3-47)
おふでさきの一節が元になっていると思われるが、「人をたすけて我身助かる」が切り抜かれ勝手に(恣意的に?)一人歩きしているのではないだろうか?
病を治したい人は「人をたすけないと自分が助からない」と強迫観念に苛まされる危険がある。
殆どの信仰者は「いや、そんなことはない。」と強迫観念を否定されるだろうが、今回のモニターにもその傾向が現れていると感じた。
まとめ
全体の回答を総括すると・・・
怪我や病気をしたくなければ、自分の都合(金、時間)は捨てて、においがけ・おたすけ・ひのきしんを喜び勇んで励みなさい。
それが「親神様からお借りしている体の正しい使い方」のベストアンサーではないだろうか?
結局、現天理教の主張と同じになるワケだ。
もちろん回答の中に「においがけ・おたすけ・ひのきしん」等のワードは登場しないが、この回答を読んだ信仰者の思考は「においがけ・おたすけ・ひのきしん」に誘導される巧みな仕掛けだ。
まあ、天理時報は「天理教公式の機関誌」なのだから当然と言えば当然。
五つの回答も読者モニターの体裁だが、数ある回答の中からオフィシャルに近い優等生な回答を乗せていると考えるのが妥当である。
実際、モニターに参加した方の証言では寄稿した内容は大分端折られるらしい。
さてさて、Q1の質問者さんは「正しい体の使い方」の疑問を解決する糸口になったのだろうか?
もしかしたら質問者自身も怪我や病気を恐れて「正しい体の使い方」を知りたかったのかもしれない。
でもこれって恐怖信仰だよね。
「親神様がお喜びくださる」と言いながら、神様の顔色を伺ってビクビク生きている信仰者の本音が浮き彫りにされたような、なんともやるせない気持ちになる。
まあ、天理教に限らず宗教の成り立ちが「未知なる恐怖」に起因するのだから、それ自体問題にするつもりはない。誰だって病気や不慮の事故は怖いし、現在でも病が発生する原因は不明だし、天災地変の猛威は人間の無力さを実感させられる。一寸先は何が起こるか分らない。その恐怖が多少なりとも癒やされるなら宗教の意味はあるのかもしれないが、恐怖の対象が神に変わっただけなら本末転倒じゃないか?
それで信仰と言う名の下、親神様にお喜びいただくためと言いながら、組織の人集め・金集めに奔走し身も心もすり減らす信仰ならもはや害悪でしかない。
本来、おやさま(中山みき)が説いた教えの根源は断じて恐怖ではない。
はあ?「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」って初めから脅す気まんまんでしたよね?これが恐怖信仰の始まりじゃないの?
確かに伸るか反るか?究極の二択を迫っているけど、世の中に一家断絶はよくある話しで、当時中山家の三人が病に倒れていたことから、どの道一家断絶(粉も無いように)は避けられない運命だったのかもしれない。そこに「神の言う事承知すれば、世界一列救けさそ。」と一家どころか世界繁栄の好条件を提示しているのだから、運命大逆転の大盤振る舞いではないでしょうか?
確かに中山家は繁栄したわね。でも信者は繁栄したのかしら?「世界たすけ、人たすけ」と言いながら僅かな蓄えを上納し、大切な家族を困窮させ、溜まりに溜まった不満が爆発した挙げ句、教団の衰退に繋がっているのでは?
だから教団は教えを読み違えてるよね?って言いたいのです。
私には質問者も回答者も、当然天理教公式も「かしもの・かりもの」の理を誤解しているとしか思えない。
まるで「かしもの・かりもの」は神様の教えを聞かすための人質みたいで、みんな無事無難に暮すために仕方なく信仰しているように思うワケです。
そして相変わらずのにおいがけ・おたすけ・ひのきしん(奉仕活動)・・・
そもそも、これらの方法に有効性は如何ほどあるのだろうか?
この先、同じ方法で神様の教えが伝わると本気で信じているのだろうか?
天理教の布教活動で、一体どれほどの人が「天理教を信仰したい」と思うのだろうか?
無策な伝道、押しつけがましい伝道は逆効果。忌避されるだけ。
この先、もし天理教が世間の衆目を集めるとしたら?
お供えによる貧困問題、宗教2世の問題、理の親、実の親によるパワハラ・モラハラ問題?
今のままなら統一教会の二の舞か?
いや、まだ希望はあると思う方は「Q2 どう教えを伝えれば・・・」をご覧ください。
ここに一筋の希望を見出せるはず!?
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