「つとめ」の第一節。
あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと
悪しきを払うて救けたまえ 天理王命
前回の投稿
でも説明した通り、「悪しき心」を払えば「悪しき形」が払われる・・・
のですが、実際に「おつとめ」に参拝してみたけど・・・
そんな、お悩みも多数寄せられています。
そこで、多くの人が見落としがちなポイントに焦点を当てながら、「救けたまへ」の秘密に迫りたいと思います。
よくSNSでこんな投稿をよく見かけます。
一日で汚してしまった心の汚れ「悪しき心」を、おつとめで「悪しき払い」して頂く。
つとめに対する正しい認識であり、誠に素晴らしい心掛けであります。
しかし、ここに見落としがちなポイントが隠されているのです。
一日不足・不満で心汚して通り、おつとめで心を掃除する・・・
それで「悪しき心」は払われますが、
これは「自分で汚した心」を払っただけで、つまり、元の自分に戻っただけ。
本当の「悪しき払い」とは、
に生まれ変わること。
一日不足・不満で心汚して通る・・・
と言うことは、まだ「悪しき払い」が為されていない証拠なのです。
「悪しき払い」が為されていなければ、当然、「悪しき形」もそのまま。
自分では「悪しき心」を払ったつもりでも、実際の生活において不足・不満の心が湧き起こるなら、それは「悪しき払い」が済んでいない現実を如実に示しているのです。
もう少し解り易く説明すると・・・
これはテスト前の一夜漬け勉強みたいなもので・・・
テストに備えて勉強せず遊びほうけた挙げ句、前日になって慌てて勉強する・・・
でも結果は言わずもがな。
一夜漬け程度の成果しか点数に現れません。
「おつとめ」も同じです。
心作りを怠り、自分の癖性分のまま一日を過ごした心で「おつとめ」に向かう。
一日中、神様の守護を感じずに心汚して過ごしたのに、いきなり「おつとめの場」で誠の心になれるはずがありません。
「おつとめ」に運ばれる誠は、
実際に守護を感じて通った「喜びの心」です。
要するに
これこそ、悪しきが払われた心。
神様の最終目的は「人間の陽気ぐらし」。
「おつとめ」の時だけ誠になっても、それは「陽気ぐらし」ではありません。
一日誠の喜びで通ってこそ「陽気ぐらし」の実践。
その誠が「一粒万倍の種」となって神の田地「つとめ」に蒔かれるのです!
これが
救けの理
これは創造原理なのです。
- 悪しき払い(古い形の破壊)
- 救いたまへ(新しい形の創造)
神様はこの原理で宇宙にはじまり、人間世界を創造されたのです。
この創造原理は、人間の成長過程で如実に現れています。
古い細胞を破壊し、新しい細胞を創造しながら人間は成長する。
これがロボットなら、別の体を用意してAIだけ移し替えるところですが、人間は一個の人体の中で破壊と創造を繰り返し、新しい細胞組織を創造しながら体を大きく作り替える。
人間には計り知れない「不思議な創造原理」のお陰で人体は保たれ、生命は喜びを甘受しているののです。
悪しき払い 救けたまへ
これが合わさってはじめて「つとめ」。
つまり、「一夜漬けのつとめ」では、不足・不満の心を治める「悪しき払い」は出来ても、「救けたまへ」まで敢行される「悪しき払い」にならず、結果的に「本当のつとめ」にならないのです。
自分だけが救かるために教えられた「つとめ」ではありません。
自分の「悪しき」が払われる・・・ということは
自分は永遠に「救かった」ということ。
そして、その「救かった心」、神様を知った「喜びの心」を一粒万倍の種として「神の田地」に蒔くのです。
何のための一粒万倍か?
自分だけではなく、自分以外にも多くの人間が救かるための種。
それが
一粒万倍の種
なのです。
心の汚れを落とすだけでは勿体ない!
どうせ「つとめ」をするなら、一粒万倍の種を蒔きましょう!
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