3月3日正午、教会本部神殿において、新型コロナウイルスの感染拡大の早期終息等を祈念して「お願いづとめ」が勤められました。
しかし、その後、新型コロナウイルスの勢いが衰えることはなく、感染は更に拡大し緊急事態宣言も発令され、経済活動、日常生活を混迷させる事態に発展しています。
「お願いづとめ」はお受け取り頂けなかったのか?
天理教の教会では。毎日「朝づとめ」「夕づとめ」が勤められていますが、この「朝夕のつとめ」と「お願いづとめ」の違いって何なのでしょうか?
天理教公式ページには「お願いづとめ」について以下の説明が記されています
お願いづとめ
重い身上(病気)の平癒や事情のもつれの解決を願って勤める「お願いづとめ」は、それぞれの教会で随時、勤められています。悩み事があるときは、教会の会長さんにお願いして勤めていただくとよいでしょう。
https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/otsutome/onegaizutome/
おつとめ本来の意味を考えると、「お願いづとめ」に対して違和感を感じる人もいると思います。
「つとめ」って拝み祈祷なの?
教祖は初期の頃は、「拝み祈祷」の延長に似た感覚で「つとめ」を教えられていました。
文久三年(1863年)に教祖の三女を仲人した辻忠作が、妹くらの病のご守護を願いに上がったところ、教祖から「つとめ」を促される。その頃の「つとめ」は”南無天理王命”と神名を繰り返し唱えるだけで、回数も時間も設けられておらず、辻忠作は教祖に言われた通り、朝夕、拍子木を叩きながら神名を唱え続けた・・・
これは天理教では有名なお話しですが、はじめ教祖(神様)は病平癒の祈祷・・・つまり拝み祈祷として「つとめ」を教えているのです。
それが初期に教えた「つとめ」の形式でした。
しかし、段々と「つとめ」の形が整い始めると、単なる拝み祈祷ではなく一歩進んだ教え方に変化して行きます。
慶応2年(1866年)
第一節”あしきはらいたすけたまえ てんりおうのみこと”
慶応3年(1867年)
第五節”十二下り”
明治3年(1870年)
第二節”ちょとはなし”と”よろづよ八首”
明治8年(1875年)
第三節”いちれつしましてかんろだい”
「座りづとめ」の第一節から第三節が「つとめ」全体のアウトラインですが、そこには一方的に救けを願う「拝み祈祷」ではなく、人間自身の「悪しき心」を払うことで悪しき形が払われる「救けの理」が開示されていります。
第一節”あしきはらいたすけたまえ てんりおうのみこと”
第二節”ちょとはなし”
第三節”いちれつしましてかんろだい”
「つとめ」で教えられたのは拝み祈祷ではなく、人間自身の「つとめ」で悪しきを払い世界救けを遂行する主体的方法。
そこに必要されるのは「神様!救けてください!」とお願いする気持ちよりも、「神様!御守護有りがと御座います!」と感謝する気持ち。
辛い病気、厳しい事情の中で、神様の守護を見出し安心と喜びを感じる心が誠。
その「誠の心」を神様は受け取り、病気を治め、事情を治め、世界一列に一粒万倍の恵みを与える・・・これが「つとめの理」。
つまり、救けを願わずとも、神様に感謝して喜び勇んで「つとめ」に運んでいれば、自動的に救けが実行される・・・
なのです。
「つとめ」が本当に分かったら、これ以上神様に対して「お願い」は発生しません。
もう十分守護もいただき、救けの方法も教えて頂いたのに、これ以上守護を「お願い」するなら、それは「欲の心」です。
四ッ よくがあるならやめてくれ かみのうけとりでけんから
みかぐらうた九下り目
つとめの地歌「みかぐらうた」では、欲の心は受け取れないと教えて頂きます。
と、言うことは・・・
お願いづとめ
が拝み祈祷の場合、いくらお願いしたところで神様がお受け取りいただけない。
要するに、いくら新型コロナウィルスの終息を祈願しても、その実が「お願い」なら「欲の心」にしかならない・・・ということ。
しかし、他人の病平癒を願い、世界の救かりを願うことが、果して欲の心なのでしょうか?
病気を患い、世界が難儀する・・・ということは、過去に難儀する理を運んだということ。
「見る理」は見なければならないし、「受ける理」は受けなければ理は完結しない。
その上で救けを願うのは「理の無い願い」・・・つまり無理な願い。
六ッ むりなねがひはしてくれな ひとすぢごゝろになりてこい
みかぐらうた三下り目
“無理な願いはしてくれるな一筋心になりてこい”
「無理な願い」はしてくれるな「一筋心」になりなさい・・・
このように諭される裏には「一筋心」になれば理が生まれ「理がある願い」になる・・・
要するに「お願いづとめ」を勤めるのは本来「無理な願い」だが、一筋心でつとめれば「理がある願い」になり理が動く?
ならば「一筋心」とは?
七ッ なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする
八ッ やむほどつらいことハない わしもこれからひのきしん
みかぐらうた三下り目
“どんな中でも一筋に神の守護に凭れて通らせていただきます”
“病むほど辛いことはない 私もこれからひのきしん”
「ひのきしん」とは神一条の心。
人間心・・・不足・不安・我が身思案を捨て、どんな中も満足・安心・他人の喜びを我が喜びとする「神一条」へと心を入れ替える・・・
それが
ひのきしん
それが「一筋心」。
そもそも「お願いづとめ」をする時は、切羽詰まった状況です。
病気で切羽詰まり、新型コロナウィルスで切羽詰まる状況・・・要するに医者も匙を投げ、人類の叡智が役に立たない状況。
そんな切羽詰まった状況で、神の言葉を聞き分け、神に凭れて満足・安心・他人の喜びを我が喜びをつとめに運ぶ・・・
これが正真正銘、神一条の心、一筋心。
「お願い」ではなく、今の状況を「最大限に喜ぶ」。
痩せ我慢して無理に喜ぶのではなく、元の理を思案し人間創造を遂行する神の視点から、己と世界を眺めれば、全ての与えに大きな意味が宿る。
これで神が受け取る「誠の種」が生まれる。
「お願いづとめ」を勤めた結果、願い通りの守護を頂けなかったということは、「理のある願い」を運べなかったということ。
拝み祈祷で世界は救らない。
「つとめの理」が明確にされた今、拝み祈祷で救ける時代は終焉を迎えたのだ。
後は、毎日のつとめで「一筋心」の実践に励めばいい。
私達は救けの心を仕込まれているのだ。
今回の新型コロナウィルスのお陰で、世界一列をこんな身近に感じたことはない。
今まで漠然と感じていた世界。
しかし世界は繋がっている。
世界が難儀すれば間違い無く自分も難儀する。
世界の苦しみは自分の苦しみ。
ならば、世界救けこそ自分救け。
私達が神様と同じ「世界救けの心」を宿した時、それが「世界救けの理」が動く臨界点。
3月3日正午、教会本部神殿において、沢山の誠を集めて勤められた「お願いづとめ」。
「人間の都合」と「神様の都合」は違う。
しかし神様は知っている。
人間の魂に宿る「本当の願い」を・・・
それは・・・
世界一列の陽気ぐらし
人間都合の願いは適わずとも、それ以上の願いを叶える為、人間創造のつとめは前進し続けているのです。
七ッ なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする
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