『天理時報』心定めの心得違い

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久しぶりに天理時報を読んだ。
と、言ってもBeさんがポストした中田表統領の特別インタビュー『三年千日の折り返しに向けて』のみですが。

天理時報とは縁が切れたので、ここ最近は心穏やかな日々を送っていましたが、Xに流れてきたBeさんのポストに張り付けたあったインタビュー記事を読んで久しぶりに脳が沸騰した!
なんじゃ、これは!?

インタビューの内容は驚愕すべきもので、およそ宗教家の発言とは思えない。
まるで会社の利益を追求する経営者の視点だ!
もう信仰の体裁を取り繕っている場合ではない!『もっと天理教を盛り上げろー』『おつくし沢山集めろー!』『楽してないで負担倍増で頑張れ!』って、経営者の本性丸出しで、その正体を隠す気もないようだ。

全体の印象は相変わらず教理改ざんが酷く、元の意味を経営方針に則って都合良く変更していると感じた。
神をも恐れぬ暴挙に思えるが、実際、神様なんて信じていないのかも。
教組の教えをしっかり勉強していたら、ここまで教えの本筋から脱線することは有り得ない。
だって、天理教を代表する一人でしょう?

と、思いのたけをぶちまけたところで、そろそろ本題に入ります。

心定めの心得違い

やっぱり一番の問題点は、心定めを心得違いしている。これに尽きます。

先ず冒頭の『私は基本的に教祖の思召に届いているということはないと考えています』。
取り敢えず教えを追求する姿勢としては謙虚でよろしいかと思いますが、そもそもの話、教祖の思召をちゃんと理解しているの?
いや、理解していないよね。
だって…
『教祖のひながたを頼りに、教祖ならどうお考えになって私たちをご覧くださっているのかと想像する
ホラ、想像するって言ってるもん。

――3月26日のお運びで両統領が再任されました。任期中には、教祖140年祭を迎えますが、表統領として、あらためて時旬への思いをお聞かせいただきたいと思います。

中田表統領 いまはとにかく教祖140年祭に集中していくことが、すべてだと思います。何についてもご存命の教祖に真ん中にいていただくということを考えて通ることが大切だと思います。

教祖が私たちにご期待くださることがあるとすれば、それはどういうことなのか。このたびの自分の三年千日の歩み方は、教祖の目からご覧になって、どう映っているのだろうか。ご期待に応えられているのだろうか、届いているだろうか、ということを、いつも心の中で反芻しながら通らせていただくことが大切だと思います。

ただし、私は基本的に教祖の思召に届いているということはないと考えています。それは年祭の元一日である明治20年陰暦正月二十六日のときもそうでした。先人たちは決死の覚悟でおつとめを勤め、これで教祖はお元気になってくださるに違いないと考えたと思いますが、お見せいただいたのは、教祖が現身をかくされるという想像もしない結果でした。

つまり、私たちがどれだけ思っても、どこまでも届いていない、ということを前提に思案することが、ひながたを辿る姿勢として大切だと思うのです。ですから、届いていないというのは、何がどう届いていないのかということを、教祖のひながたを頼りに、教祖ならどうお考えになって私たちをご覧くださっているのかと想像することも含めて、いろいろな視点で自分の届かなさを常に振り返ることが必要だと思っています。

肝心な教祖の思召が分からないのに、どうして信者達へ道が示せるのか?

でも、教祖の思召が分からないのは今に始まったと事ではなく、明治20年陰暦正月二十六日の初代真柱達も同じです。
インタビュー記事では『先人たちは決死の覚悟でおつとめを勤め、これで教祖はお元気になってくださるに違いないと考えたと思いますが、お見せいただいたのは、教祖が現身をかくされるという想像もしない結果でした』と記されていますが、教祖は初めから『決死の覚悟』など求めていません。

初代真柱一同は、人間心で先案じするばかりで心定め(神一条・神に凭れる)が出来ず、挙句の果てに『命捨てても』などと、やけっぱちな覚悟(人間心)でつとめに出たのだから、教祖の思召に届くも、届かないも、最初から心定めを心得違いしていたに過ぎません。
教組出直しの時点から、教祖の思召を理解していなかったのです。

そして、ここから現在に至るまで『心定めの心得違い』は金科玉条の如く継承されてきた訳です。

定めた目標を見直していく

――三年千日の年祭活動は、間もなく折り返し点に差し掛かろうとしています。今後の年祭活動における全教の歩み方について、お聞かせください。

中田表統領 このたびの年祭活動では、それぞれの教会が三年千日で目指す姿を設定して、その実現のご守護を頂戴できるように具体的な心を定めて、それを実践していこうと働きかけてきました。

このインタビューを読んで分かる通り、『心定めの心得違い』は『信仰目標を設定する』へと姿を変え、神意を置き去りにしたまま、あたかも真理の如く定着しています。
まるで、経営者の手腕を振る表統領のリーダーシップの元、全ての信仰者は利益追求を目指す会社員の如く、心定めと言う名の営業目標を定め、それが教祖の思召に適うと信じて今日も三年千日をひた走る…
そんなイメージがインタビュー内容からありありと浮かんできました。いえ、幻覚ではありません。

更に、最後にはもっと凄いことを宣わっています。

――目標を見直すうえで、大事なポイントは何でしょうか。

中田表統領 やはり目標設定は、このくらいならいけるだろうという安易なところよりも、自分に少し負荷をかけた目標のほうがよいと思います。

教祖年祭への三年千日は、ご守護を頂ける特別な旬です。ですが、ご守護を頂くためには、普段よりも負荷をかけた心定めをして頑張ることが求められます。普段では腰の上がらないような、しんどいことを求めて苦労して取り組むから、勇み心や元気が湧き上がってくるし、教祖もすぐにお受け取りくださるのだと思います。

「楽」と「楽しむ」は同じ漢字を使いますが、意味には違いがあります。楽々では、やはりそれなりの結果しか出ないものです。教祖のひながたがそうであったように、たすけ一条に、陽気ぐらしの道を広めるために、しんどいことを求めて楽しんで通る精神が、お道には大事だと思います。

仕切りの旬の折り返し点を前に、全教の教会長をはじめ、ようぼく一人ひとりが、いま一度これまでの歩みを振り返って、目標を軌道修正したり上方修正したりすることで、より前向きな気持ちになり、勇み心を高めて、年祭活動の後半に向かってくださることを念願します。

・少し負荷をかけた目標
・普段よりも負荷をかけた心定め

表統領さんは鬼の経営者ですな。

教祖年祭への三年千日は、ご守護を頂ける特別な旬です。

えっ?誰がそんな事いいました?
教組?本席様?

甘い言葉(にんじん)で誘い、負担という名の鞭を打つ!
第一、守護を頂くために頑張るって、それって欲の心ですよ?
今でさえ喜びきれない『かしものかりものも』、感謝しきれない膨大な守護に与っているのに、信者に負担を掛けてまで守護を求めるとは…
今、満足(たんのう)が運べなければ、神の田地に種は蒔かれないのだから、思惑通りの守護が頂ける道理はありません。

六ッ むしやうやたらにねがひでる うけとるすぢもせんすぢや
(みかぐらうた 六下り)

無理な心で願いでても その心通りにしか受け取れない

正に『みかぐらうた』の教え通り。

楽々では、やはりそれなりの結果しか出ないものです。教祖のひながたがそうであったように、たすけ一条に、陽気ぐらしの道を広めるために、しんどいことを求めて楽しんで通る精神が、お道には大事だと思います。

いやいや、違うでしょう!

教組のご苦労は『苦労のひながた』ではなく、後々の者が苦労しないように一切の苦労を引き受け、苦労しなくて良い『楽々のひながた』を残されたのです。

貧に落ちきれ』だって、屋敷の因縁を切る為であり、後々の者が貧に落ちる事がない様に通られたのに、教祖の真似をして皆貧乏を目指したら、教祖も草葉の陰でズッコケてますよ。

おやさま
おやさま

せや!

まあ、大勢の信徒を預かる立場であれば、なんとしても天理教を盛り上げたいと思う気持ちには一定の理解は示しますが、教えの芯を外したら元も子もないでしょう?
今からでも遅くないので、教祖の正道へ歩み寄ってみてはいかがでしょうか?

なんなら、私がアドバイザーとして就任してもよろしくてよ。
是非ご検討ください。

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