天理用語の解説 『心通りの守護』
『心通りの守護』とは?
『心通りの守護』とは、読んで字のごとく、人間の心通りに神様がご守護くださること。
明治十七年、言われ無き罪で奈良監獄署に拘留された、教祖と鴻田忠三郎。
監獄署の便所掃除をさせられた忠三郎に教祖が訪ねられた。
教祖:鴻田はん 便所掃除させられて どう思うかえ?
鴻田:神様のご用むきをつとめさせて頂くと思えば じつに結構で御座います。
教祖:そうそう どんな辛いことや嫌なことでも 結構と思うてすれば天に届く理。
神様が受け取りくださる理は結構にかえてくださる。
なれども えらい仕事 しんどい仕事をなんぼしても ああ辛いなあ ああ嫌やなあと不足不足でしては 天に届く理は不足になるのやで
「結構」と思えば、神様が受け取る理は「結構」。
「不足」と思えば、神様が受け取る理は「不足」。
このように、人間の心通りに守護するのが天の理。
教祖口伝でも『心通りの守護』に触れられています。
教祖:日々通る中にどんな中もあろう。難儀な中、難しい中、その成らん中を喜びにかえて通ってくれ。その中にご守護が頂けるのや。無理と思うてはいかんで。無理と思うのやないで。無理と思えば無理になってしまうで。心通りの御守護下さるのやから、さらさら思うやないで。喜びにかえて通っていく中に、ああ結構やった、有難かったと思える日が必ずあるのやで。その日を楽しみに通ってくれ。今の苦しみは先の楽しみやで。日々を喜んで通らしてもらいなはれや(教祖口伝)
「難儀を無理」と思えば、神様が受け取る理は「無理」。
「難儀を喜び」にかえば、神様が受け取る理は「喜び」。
結構、有り難いと思える日が必ず心通りに守護いただける。
本席様の『おさしづ』でも『心通りの守護』は頻繁に諭される理の要です。
身の内は神のかしもの・かりものの理を諭するには、心は我がもの。心通り神が働く。
(おさしづ 明治二十四年七月七日)
『心通りの守護』は理の要ですが、
『かしもの・かりもの』『心は我がもの』『心通りの守護』
この三つの理がワンセットで諭される三位一体の理。
1.かりもの
体と衣食住、環境、地球、太陽・・・全ての形は神様のもの。
形は神様の自由用。2.心自由
心だけが人間のもの。
心は人間の自由用。3.心通りの守護
『かりもの』と『心』を繋ぎ、『心』通りに『かりもの』を守護する。
『心通りの守護』は誤解されやすい理です。
良い心には良い守護。
悪い心には悪い守護。
このように極端に分類してしまいがちですが、実はそうではありません。
『心通りの守護』とはあくまで日常的な守護なのです。
日常的な守護
例えば、あなたが「水を飲みたい」と心を使えば、心通りに水が飲める。
これが『心通りの守護』です。
あなたの『心』を受け取って、筋肉を縮小させ、水の入ったコップを口に近づけ飲み込む・・・
このごく日常的な行為も、神様が一瞬のタイムラグもなく『心通りに守護』した結果です。
目にも止まらぬ早業・・・いや神技です。
少し人体の構造に詳しい人は解剖学を持ち出して反論するかもしれません。
脳が命令を出して、神経に伝わり、筋肉が受け取り「縮む」動作をすることで、体が動く・・・
https://r-body.com/blog/20200523/932/
でも解剖学が研究できるのは人体の構造まで。
無形の『心』から、有形の『脳』へ思いを伝える仕組みは解明できません。
なぜなら、心は脳に存在するわけではなく、目に見えない心の所在は確認できないからです。
× 脳 ⇒ 心 ⇒ 体が動く
○ 心 ⇒ 脳 ⇒ 体が動く
心から脳へ思いを伝える間(心 ⇒ 脳)が不思議なのです。
それでは『心』はどこにあるのか?
人間の本体は『魂』と聞かしていただきます。
この魂が唯一使えるのが『心』。
魂も、心も、どちらも無形で姿形は見えませんが、神様が『心通りに守護』することで『かりもの』が動き、心(無形)が形(有形)として成就するのです。
このように不思議な力が働き、日常的に心通りの守護をいただいている・・・
これが人間世界の現実なのです。
人間が心を使うたびに『心通りの守護』という不思議を目の当たりにしている・・・
こんな凄い世界に私達は暮らしているのです。
なにせ、「水を飲みたい!」という心を形にするため、神様は地球、太陽、宇宙丸ごと守護しているのですから。
なんと有り難いことでしょうか!
心通り○ 思い通り×
それと大事な要点。
心通り、思い通り・・・
どちらも心だから同じでしょ?
と思うかもしれませんが、全然違います。
ここをハッキリと分けておかないと『心通りの守護』を制することはできません。
先ほどの例で再度説明します。
「水を飲みたい」と心を使えば、心通りに水が飲める。
この例文から「心」を「思い」に一部変更してみましょう。
「水を飲みたい」と思えば、思い通りに水が飲める。
これでも十分通用するし、実際に「思い通りに水が飲めている」ように見えます。
しかし、ここで『心』と『思い』が同じように見えるのは、『心』と『思い』に差が無いからです。
- 水を飲みたい思い
- 水を飲みたい心
「水を飲みたい思い」は直ぐに「水を飲みたい心」になって使うことができます。
心を使ったので、直ぐに『心通りの守護』で水が飲めるのです。
と、みなさん首を傾げているかもしれません。
そのモヤモヤは次の例題でスッキリするはずです。
それでは次の例題。
使う心を「水を飲む」ではなく、「Jリーグの選手」になるに変えてみましよう。
僕(小学3年生)はJリーグの選手になる!
この場合、「水を飲む」と同じように、直ぐに「Jリーグの選手」には成れないですよね?
同じ心通りの守護なのに、どうしてでしょうか?
なぜなら「Jリーグの選手になる!」
これは単なる『思い』であって、「Jリーグの選手」に必要な『心』が作られていないからです。
- 体を大きくするため食事を沢山摂る
- 基礎トレーニングで体力、瞬発力を身に付ける
- ドリブル、パス、リフティング等、Jリーグで通用するレベルまで練習する
実際、「Jリーグの選手」に成るには、様々な『心』を使う必要があります。
ロナウド選手みたいに
上手にリフティングがしたい!
と思っても簡単にはできません。
何度も何度も失敗を繰り返し、
少しずつコツを掴み、
様々な気付きで心が作られた結果、
心通りにプレーが出来るのです。
どうですか?
「Jリーグの選手になる思い」と「Jリーグの選手になる心」には大きな隔たりがあるため、簡単に『心通りの守護』はいただけません。
毎日弛まず心を使い続けることで少しずつ思いに近づけるのです。
『心通りの守護』には理が必要
諦めなければ夢は叶う!
みなさんが良く口にするセリフです。
その通りですが、その原理が明確でなければ夢を維持し続けることは困難です。
夢を追う途中・・・時には、なかなか思い通りにならず、焦りイライラすることもあると思います。
しかし、そんな時は他人や環境のせいにしたり、自分の考えに意固地になったりせず、心の使い方に問題があると自身を省みてください。
なぜ「水を飲みたい」と心を使ったら直ぐに水を飲めるのか?
それは『理』が許されているから。
人間なら殆どの人が『水を飲む理』が許されています。
『水を飲む理』を失えば人間は生きられません。
同じように「Jリーグの選手」に成るには、『Jリーガーの理』が必要なのです。
『Jリーガーの理』は誰でも許されているわけではありません。
持久力、瞬発力、判断力、スピード、キック力・・・
あらゆる面で現Jリーガーと同等以上の数値が必要になります。
体力以外にも、環境、人との出会い、タイミング、運・・・
あらゆる要素が複雑に絡み合った結果、『Jリーガーの理』が作られます。
これは全て自身の心通りに作られた『理』なのです。
『心』を運びつづけ、Jリーガーに相応しい『Jリーガーの理』が作られた結果・・・
『Jリーガーの理』が許し出され、
「Jリーグの選手になる!」心通りの守護をいただく・・・というわけです。
ここまで説明を聞いても「?」の方は、日々『心通りの守護』を意識しながら、心を使う練習を繰り返せば、少しずつ理の全体像が掴めると思います。
『理』を信じなければ『心』にはなりません。
『理』を信じて『心』使うからこそ、『心通りの守護』の働きが見えてくるのです。
『心通りの守護』の働きが見えてきたら、もう『心』を使うことが楽しくなり、喜びの心ばかり使えるようになります。
これこそ陽気ぐらし。
『心通りの守護』を制し、日々陽気ぐらしを実現しましょう!
それでは・・・
なぜ体は疲れるのか?
はい?
・・・質問の趣旨を詳しく教えてください。
なるほど・・・
がんばっているのに、なぜ体が疲れるのか?
『心通りの守護』と言ってしまえば、それまでですが・・・
そもそも
「がんばって働いている」理由は、がんばる必要に迫られるからですよね?
なるほど、それは大変ですね。
それではここで『心通りの守護』を知る上で、『脳』の仕組みを見てみましょう。
つまり、「やる気」と「疲れ」は脳の同じ場所で処理されているのです。
好きなこと・趣味など活動意欲に燃えているときに「やる気」の指令が増えることで「疲れ」の感情の出番がなくなり、結果的に疲れを感じにくくなるのです。
「がんばっているのに・・・」と思う心は「やる気」ではありません。
むしろ「やる気」がないのに、「嫌々やっている」のではないでしょうか?
「やる気」というのは、大変な状況だからこそ勇んで「がんばるぞー!」と楽しく心を使うこと。
それでこそ「やる気」が大脳辺縁系を支配して疲れを感じにくくなるのです。
「やる気」があると殆ど休まず活動できることもあります。
これら脳の仕組みからも、『心通りの守護』の働きを知ることが出来ます。
体の機能からも理を学べるように神様が創ったのです。
最近、私も同じような体験をしました・
私は一日中、椅子座って仕事をしているので、少し体を動かそうと思い、昼休みに散歩してみたところ、心も体も大変気持ち良かったので、それから毎日散歩することにしました。
昼休みの楽しみが増えたと喜んでいましたが・・・
散歩が日課になってしまうと、そこに義務感が発生し、これまでの「やる気」が段々「やる気を出さなければ・・・」に変り、喜びを感じる気持ちが薄れ、体が疲れるようになったのです。
仕事の休憩中に疲れるなんて本末転倒ですよね。
これはいかん!
と思い直し、散歩を楽しむ気持ちに立ち帰りました。
でも、身体を酷使すれば疲労は蓄積されます。
これも神様が創った身体の仕組み。
疲れを感じる時は、かりものを忘れて自分、自分、と自分本位の考えに捕らわれているのかもしれません。
疲れのお陰で、かりものを思い出し、心を切り替えるため少し休憩し、また守護に満たされた喜びの心で物事に取組んでください。
まとめ
仕事も、歩くことも、なんでも神様の守護のお陰で成り立っているのだから、『心通りの守護』を楽しむ気持ちを忘れることは『神様の親心』を忘れるも同じです。。
人間の喜びを見て楽しむための『心通りの守護』。
人間が存在する目的は陽気ぐらし。
それなら、なにごとも『心通りの守護』と感じ、今を喜んで暮せば目的達成です。
それでは皆さん、『心通りの守護』を楽しんでください!
これで『心通りの守護』の解説を終わります。
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