一下り目 寿的解説 『三ニ  さんざいこゝろをさだめ』

一下り目 一下り目

一下り目 寿的解説
『三ニ  さんざいこゝろをさだめ』

 

全文

一下り目

一ッ
正月こゑのさづけは やれめづらしい
二ニ
につこりさづけもろたら やれたのもしや
三ニ
さんざいこゝろをさだめ
四ッ
よのなか
五ッ
りをふく
六ッ
むしやうにでけまわす
七ッ
なにかにつくりとるなら
八ッ
やまとハほうねんや
九ッ
こゝまでついてこい
十ドッ
とりめがさだまりた
(なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと)

 

三首

三ニ  さんざいこゝろをさだめ

三才心を定め

概要

二首目で『やれたのもしや』の心境に至る人間は、『さんざいこゝろ』に定まります。
さんざいこゝろ』とは『三才心』。
三才児のように素直に親に凭れる心。
つまり、親に対して『やれたのもしや』と全般の信頼を寄せている子の姿。

三才心とは?

人間の親子関係でも同じですが、子供にとって親は神様同然。
特に三才児あたりの子供は、親が居なければ生活どころか生きられません。

三才児は自分でお金を稼げないし、住居を建てることもできず、衣服を買い洗濯することもできず、食事を用意し片づけることもできません。
三才児は好奇心があり自由に動き回ります。
親が目を離した隙にとんでもない暴挙に及びます。
ゴミを拾って食べたり、危険物(はさみや鋭利な物体)を振り回し、左右を確認しないで道路に飛び出し、後先考えず行動して迷子になる・・・
親からしたら気がきじゃないですが、子供が安心して無邪気に遊んでいられるのは、側に親の存在を感じているからこそ。
親の姿が見えなくなれば、たちまち不安になり親を求めて泣き叫びます。
そして親を見つけると笑顔を取り戻し、親に抱きつき安心しきった顔でスヤスヤと眠るのです。

三才児は親に完全に凭れきっています。

この三才児の心のように神様に凭れきることが『さんざいこゝろ』。
神様が実の親と知って『やれたのもしや』の心境に至る時、自ずと三才心に定まるのです。

貧のどん底に落ちても安心。
食べるお米が無くても安心。
病を患っても安心。
天災地変が起きても安心。

どんな大変な難儀不自由と思える場面でも、神様に凭れて安心できるのが『さんざいこゝろ』。

三才心とは悪しきの無い心

さんざいこゝろ』とは言い換えれば悪しきの無い心

貧のどん底に落ちる。
食べるお米が無くなる。
病を患う。
天災地変が起きる。

人間が難儀不自由に陥るのは『悪しき心』が原因。

悪しき心』とは・・・
をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」の八つの埃と教えられていますが、これは一言で表せば「神様を知らない心」。
神様を知らない人間心から、八つの埃と言われる悪しき心が顔を出すのです。

  • 無限の守護を創造できる神様を知らないから・・・
    物に惜しみをかける(をしい)。
  • 心通りに守護する神様を知らないから・・・
    心を運ばず結果だけを欲しがる(ほしい
  • 神様という絶対善を知らないから・・・
    自分が正しいと信じて他人を批判する(にくい
  • 全人類が可愛い一条の神様の親心を知らないから・・・
    自分さえ良ければ我が子さえ良ければと他人を蔑ろにする(かわい
  • 世界を鏡として人間の心に映す神様を知らないから・・・
    自分の醜い心を棚に上げて他人を恨む(うらみ
  • 因縁を見せて救ける神様を知らないから・・・
    他人の言葉や行いを見て腹を立てる(はらだち
  • 十分な守護を与えている神様を知らないから・・・
    もっともっと欲を出し今の自分に満足できない(よく
  • そもそも神様を知らないから・・・
    何でも自分の力で成り立つと思い上がる(こうまん

つまり、これら八つの埃神様を知れば自然に解消します。
そして八つの埃が解消すれば、周りから難儀不自由の形が消え、神様を『やれたのもしや』と感じる心通りに喜びの形が現れ始める

そして『さだめ』とは「定めなさい」「定めてください」と、『さだめ』を促す神心の現れ。
神様を親と慕う人間にとって、三才心に定まることが一つの信仰目標なのです。

三才心の目的意識

以前、おさづけを取次ぐ際に、たいへん面白い体験をさせて頂いた事があります。

丁度、筆者の子供が三才くらいの頃、「お腹が痛い」と泣いていたので、直ぐに『おさづけ』を取次がせて頂きました。
あしきはらいたすけたまえ てんりおうのみこと
すると次の瞬間・・・
治った-!」と言ってベットから飛び起き、遊び始めたのです。
余りに鮮やかな効能に思わず面食らうと同時に、「これが三才心なのか」と実感させられました。
相手は三才の子供なので神様の話を十分理解できませんが、子供は初めから親に凭れる心ができているので、鮮やかな効能を頂けたのかも知れません。

三才児のように神様に凭れたら、人生は何の心配もなく無邪気に喜んで暮せます。
ただ『さんざいこゝろ』とは、三才児のように闇雲に親を信じるのではなく、教理を正しく理解した上に定まる理性なのです。

神様の教える『』は・・・

  • かしもの・かりもの
  • 心通りの守護
  • 心自由

体を含めた全ての形(衣食住・地球・宇宙)は神の借り物『かしもの・かりもの』。
現実に『かしもの・かりもの』が無ければ生命活動を行えない人間。
状況としては、どんな成人でも三才児と大差なく、親(神様)がいなければ何一つできません。
神様が守護しなければ、水も飲めない、御飯も喉を通らない、着替えることもできない・・・
どんな心も『心通りの守護』のお陰で形として成就する。
だからこそ、心の使い方が最大のポイント
どんな心を使うのか?
どんな目的意識を持って心を使うのか?

三才心三才児の違いは『目的意識』の違い。
三才児に特別な目的意識はありません。
お腹が空いたら食べ、転べば泣き、疲れたら寝る・・・
極めて衝動的な意識ですが、三才心には明確な目的意識が宿っています。

かんろ台一条

実の親である神様と同じ目的意識を持ち、その実現を確信しながら、親に凭れて邁進する『かんろ台一条の道』。
それが三才心を定めた道人なのです。

散財心の誤解

さんざいこゝろ』を調べていると「散財心」と解説する方が散見されますが、これは大変な誤解です。

さん‐ざい【散財】 の解説
[名](スル)不必要なことに金銭をつかうこと。また、いろいろなことで金銭を多く費やすこと。「訪問先に散財をかける」「予定外に散財してしまった」

そもそも【散財】は、あまり良い意味ではありません。
天理教の一部では、教組が財産を施して貧に落ちきったことから「散財心」と言いたいのでしょうが、教組は決して不必要な理由で財産を施したわけではありません。
人間一条の屋敷を取り壊し、神一条の屋敷を建設する『屋敷の掃除』のために貧に落ちきったのです。
貧しい人に散財すれば施された側は救かりますが、それで救かるのはほんの一部。
財産が無くなれば施しは続けられず、世界救けも成り立ちません。
そんな一時的な救けではなく、世界一列を末永く救ける目的のため、中山家は貧に落ちきる理由があったのです。
全ては元の理に由来する『屋敷の因縁』のため。
人間の親である道具衆の魂を持つ教組以下中山家の面々が、子(人間)に難儀させないため苦労を一手に引き受けたのです。
子(人間)の幸せを思う親(道具衆)だからこそ通れた道。

もちろん、財産に執着することは「をしい」や「よく」を誘発し悪しき心の原因になりますが、財産を持つことは決して悪いことではありません。
財産は働きの代価であり、それだけ仕事に貢献した証。
財産があれば、美味しい食事も頂けるし、快適な住居に住めるし、旅行やレジャーを楽しむことができます。
貧乏より財産があった方が幸せにきまっています。
教組も「水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す。」と諭さし、最終的には一粒万倍に返すと言われているので、貧乏を推奨しているわけではありません。
実際に現在の中山家は貧乏どころか、金銭的に何不自由なく暮らしています。

神様の目的は、世界一列を金銭含めて何不自由なく豊かにすること・・・
ですが、現状は財産に頼り執着し過ぎるあまり、三才心には程遠い我が身思案が渦巻き、今さえ良ければ我さえ良ければの酷い心が横行する世界。
せっかく財産があっても真の安心、真の満足が得られない悲哀を生んでいる。
財産が有っても無くても、真の安心、真の満足が得られない人間心。
神様の心を知り三才心に定まるまで、この悲哀に終わりはありません。

もし現在の中山家、本部員、大教会など上に立つ者が「散財心」を実践し、財産を施し続けることで陽気ぐらしが実現しているなら話は別。
それなら「散財心」の解釈も一理あると納得せざるを得ませんが、もし末端信者など下の者にだけ「散財心」を説いているなら、『みかぐらうた』一下り目の三首『さんざいこゝろをさだめ』は一部の人間に限定された理ということになります。
つとめの地歌である『みかぐらうた』は『理の歌』と言われ、それ自体が陽気ぐらしに必要な理
その対象は当然世界一列の人間。
理の歌』は誰が聞いても喜べる意味であり、誰が唱えても陽気になるから『理の歌』なのです。

散財心」は心の使い方
三才心」は心の在り方

いくら「散財心」を使っても「三才心」になれません。
三才心」は有形の財産に頼る必要のない、無形の安心、無形の喜びに到達した魂の境地。
三才心」は「散財心」も自由に使えますが、散財より創造で世界をより豊かにする『つとめ一条』を知りながら、敢えて「散財心」を使う理由はありませんよね。

まとめ

三ニ さんざいこゝろをさだめ

さんざいこゝろ』とは神様に凭れきる心。
神様を実の親として凭れきる神の子の心ばえなのです。


四首
四ッ よのなか』はこちら

一下り目 寿的解説 『四ッ よのなか』
「これは理の歌や 理に合わせて踊るのやで ただ踊るのではない 理を振るのや」。 みかぐら歌 第五節 一下り目 第四首を寿的視点で解説!

一下り目 目次

一下り目 寿的解説 目次
「これは理の歌や 理に合わせて踊るのやで ただ踊るのではない 理を振るのや」。 みかぐら歌 第五節 一下り目を寿的視点で解説! 一下り目の目次です。

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