よろづよ八首 寿的解説
『一れつにはやくたすけをいそぐから せかいのこゝろもいさめかけ』
よろづよ八首全文
よろづよのせかい一れつみはらせど
むねのわかりたものはない
そのはずやといてきかしたことハない
しらぬがむりでハないわいな
このたびはかみがおもてへあらわれて
なにかいさいをときゝかす
このところやまとのぢばのかみがたと
いうていれどももとしらぬ
このもとをくはしくきいた事ならバ
いかなものでもこいしなる
きゝたくバたづねくるならいうてきかす
よろづいさいのもとなるを
かみがでゝなにかいさいをとくならバ
せかい一れついさむなり
一れつにはやくたすけをいそぐから
せかいのこゝろもいさめかけ
(なむてんりわうのみこと)(よしよし)
八首
一れつにはやくたすけをいそぐから せかいのこゝろもいさめかけ
概要
神様は一刻も早く人間を救けたい。
可愛い我が子を全ての難儀不自由から救けたい。
その為に「世界中の心を勇めかけてください」と、神様の思惑を聞き分けた人間へお願いしているのです。
求道こそ伝導
古代ギリシャの哲学者、アリストテレス(前384年~前322年)の名言。
「理性は、神が魂に点火した光なり」
人間が動植物と違うのは理性により現象を認識すること。
人間の魂が理性を発展させることが人間の幸福であると説きました。
しかし人間は時々・・・いや事あるごとに理性を失い、無駄に恐れ、憎み、他人を傷付け、命を奪い、動植物にも劣る野蛮性を発揮してきた。
理性を嘲笑い、感情を爆発させ不幸に繋がる愚行を繰り返す。
これまで人間が理性を保てず感情に流された理由は、理性に確かな信頼がなかったため。
理性的であれば幸福になれる?
だが肝心の「理(道理)」に確信を持てず、その場の都合に流されていた。
「人を殺すのは駄目?いや、他人の命より自分の幸福の方が大切」
理性で感情は抑えられない。
法の力で強制的に抑えるしかない。
目には目、暴力には暴力、死には死・・・
それが今の社会。
天保9年に神が現れて人間に教えたのは確かな道理。
人間が絶対幸福(陽気ぐらし)を実現するための道筋。
神の心は絶対理性。
絶対理性とは絶対信頼に値する理。
神の心を映して生きれば必ず幸福になれる。
絶対理性こそ魂の本質。
人間の魂は神の分け御霊。
神の魂を分け、神と同じ性質、絶対理性を持つ人間の魂。
己の魂を自覚して生きること、これが幸福そのもの。
「絶対理性は、神が魂に点火した真の光なり」
魂が見る世界は「かしもの・かりもの」。
魂に頂く世界は「心通りの守護」。
魂はいつでも心自由に喜びの心を使い続ける。
見るもの、聞くもの、触れるもの、全てが神様の守護、全てが喜びの与えもの。
魂で生きる人間が「光」なのだ。
一寸先は暗闇の世界に差し込む一筋の光明。
か細いロウソクの灯を頼りに、先の見えない不安に怯えていた人間を導く太陽の光。
伝道とは・・・
通りを歩く人を捕まえて強引に話を聞かせることではない。
当たり障りのない言葉でカモフラージュして信者を増やすことではない。
真の伝道とは・・・
自分自身にとことん神様の心を聞かせること。
真実に向き合い理を体得すること。
つまり、自分自身が真っ先に陽気ぐらしを実現し、世界が求め、恋慕う光となること。
どこまでも神様の言葉、神様の心を求める求道こそ道を広める伝道に繋がる。
それが唯一確かな理。
それ以外の方法で道が広まったとしても、理が無ければ必ず衰退し、自分自身も道を見失う。
求道こそ伝道なり。
ひのきしん
信仰とは神様を求めること。
本気の信仰とは本気で神様の言葉を求めること。
神様とは言葉に宿る理なり。
身上事情の難儀不自由を治めて欲しいと願うのは人情。
人情とは感情に流された姿。
理性を失い感情に訴えるしか道がない人間思案の末路。
神様の話を詳しく聞けば、人間心が絶対理性に立て替わり、全ての感情を「陽気」と言うたった一つの心に定着させる。
絶対理性を持つ人間は神様と同じ魂。
その魂に映るのは未だ見えぬ『かんろ台世界』。
未だ形に現れていない超理想世界をありありと感じられる魂。
魂で歩む一歩一歩はかんろ台世界へ繋がる道。
病まず死なず弱らずに115歳の定命を保ち、魂は永遠に生きる。
世界中が万年豊作で自然は豊かな恵みに溢れ、天地は穏やか、人々は兄弟姉妹のように仲睦まじく助け合い、喜び合い、陽気づくめで暮らす超理想世界。
『つとめ』がかんろ台世界を普請する唯一の方法と信じて、日々つとめ一条に運ぶことが真の求道。
誰に伝えなくても、誰に話さなくても、誰を集めなくても、真の求道あれば魂の光が輝き出す。
光あれば救いを求めて人が寄り集う。
話を聞かせて欲しいと頼みにくる。
この世は天然自然の道。
もし誰にも求められず、縁が繋がらないなら、自分に光が無いと悟ればいい。
光が無ければどんなに熱心に語ったところで世界に映る道理はない。
光とは実。
陽気を実現した姿。
教組のように、どんな中も神様に凭れて喜んで通る不思議な姿。
本席様のように、一筋心で通る誠の姿。
光有れば縁は神様がお付けくださる。
教組ですら人が寄り集うまで20年以上の歳月が必要だった。
焦る必要はないが、日々の求道以外に光る芽はない。
日々、教組の雛形の心を映し、神様の言葉『みかぐらうた』『おふでさき』『おさしづ』をとことん研究し、『かんろ台世界』を見据え、陽気という最上級の種を神の田地『つとめ』に蒔く。
これが真の『ひのきしん』。
日々、『ひのきしん』を楽しんで通れば、自ずと魂は光り出す。
陽気づとめ
世界一列を勇ませる唯一の方法が『つとめ』。
そして『つとめ』の完成形が『陽気づとめ』なのです。
どのよふにむつかしくよふみへたとて よふきつとめてみなたすけるで(12-61)
人間がどんなに難しいと思う事情、もうこれ以上方法が無いと思う場面でも、『陽気づとめ』を実現すれば全て鮮やかに治まる・・・と『おふでさき』で明かされました。
求道により光り輝く魂が直参する『陽気づとめ』こそ世界一列勇ませる唯一の方法。
要するに『つとめ』とは『陽気づとめ』を差しているのです。
陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という
『陽気』を実現した人間がつとめるから『陽気づとめ』。
『陽気づとめ』により農作物、水産物、動植物、経済、資源、身上事情・・・
全ての有形が勇み立ち、豊年満作ところ繁盛となる様は、正しく神様が世界一列を勇みかける姿に他ならない。
まとめ
『一れつにはやくたすけをいそぐから せかいのこゝろもいさめかけ』
何故、神様が直接人間を救けないで、人間の手に委ねるのか?
それは世界一列兄弟姉妹を勇ませること、即ち陽気にすることが人間にとって真の喜びだから。
月日にわにんけんはじめかけたのわ よふきゆさんがみたいゆへから(14-25)
『人間の陽気ぐらしを見て共に楽しむこと』が神様の喜びなら、『世界一列兄弟姉妹の陽気ぐらしを見て共に楽しむこと』が魂の喜び。
人間は魂の喜びに目覚めた時、はじめて存在の意味を知り、神の子としての天命を全うするのです。
みかぐらうた 一下り目
よろづよ首
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