2024年1月1日、マグニチュード7.6規模の大地震は石川県能登半島に甚大な被害をもたらした。
めでたく華やかな正月の最中に起きた大惨事。
人間の力では為す術もない大自然の猛威は日本中を深い悲しみと恐怖に陥れた。
実際に被害に遭われた方のやり場のない悲しみや怒りは察するに余りあるが、どんな言葉をかけたところで何の慰めにもならない。
この大惨事の意味は?
何故こんな悲惨な出来事が起こるのだろうか?
能登半島では2020年以降地震活動が活発になっていて、西村教授は地殻変動や地震活動の分析から、能登半島の地下15キロほどに流体が流れ込み、周辺の断層を滑りやすくしたことで活動が続いていたと指摘しています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240102/k10014307261000.html
研究者に尋ねれば地震が起きる構造を知ることは出来る。
ならば地震の被害に遭わない為には、地震が発生しにくい地域へ引っ越せば良いのだろうか?
ところが、実際に阪神淡路大震災で被災された方が、東北に引っ越した先で東日本大震災の被害に見舞われた話も伝えられている。それに地震だけではなく、台風、洪水、大雪など災害クラスの天災地変は何時どこで発生するか誰にも予想できない。『ここで暮らせば安心』と言える場所など、誰にも分からないし判断することは出来ないのだ。
筆者が住んでいる東京だって何時大地震に見舞われるか分からない。
だからと言って、いつ起きるか分からない災害に怯えて暮らす訳にはいかないし、できれば毎日陽気に暮らしたいと願うのは筆者だけではなく万人の願いではないだろうか?
神の残念立腹
天理教では大地震などの天災地変が起きた際に引用される有名な御教理があります。
かみなりもぢしんをふかぜ水つきも
これわ月日のざねんりいふく
おふでさき八号58
えっ?!
神様が人間の行いを残念に思い、腹を立てた結果、地震が起きているの?
それじゃあ、被災地域は腹立ちの裁きを受けたの?
被災者達が神様から見て残念な行いをしていたの?
旧約聖書の創世記に登場する二つの街「ソドムとゴモラ」は、神に対する多くの罪を犯し、降り注ぐ硫黄の火により滅亡したと語られていますが、それと同様なイメージを想起させます。
創世記19章
24 主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、
25 これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。
人間の罪に対する罰?
勝手に人間を創造しておいて、神様の考える善に反するからと人間を罰するなんて…
それでは余りにも身勝手で無慈悲な存在ですよね?神様って…
それこそ毎日陽気どころか、神様の強権に怯えて陰気に暮らす他ありません。
しかし天理教の開祖である教祖(おやさま)が残された『みかぐらうた・よろづよ八首』の一節に注目してみると、罰とは正反対の慈悲深い胸の内を明かされています。
そのはずやといてきかしたことハない
しらぬがむりでハないわいな
みかぐらうた よろづよ八首
人間が知らないのは創造者である神様の責任であり、知らないことを咎めるつもりはない、つまり罰を与えるつもりはないと読み取れます。
ならば、何故に天災地変が起こるのか?
神様は何を『残念』に思い、何に『腹立』を感じられたのか?
私達は今回発生した能登半島地震の様な大災害に直面すると『特別な惨事』が起きたと考えます。
多くの犠牲者を出した大惨事ですから『特別な惨事』と考えるのは当然です。
しかし、教理から思案すれば『特別なことであって特別ではない』。
なぜなら、この世に起きる全ての事象は例外なく『理の上』で起こること。
人間の身体を含め、自然環境、その他一切の形は全て『かしものかりもの』。
人間には細胞一つ創造することも、指先一つ動かすこともできない『神の自由用』、それが『かしものかりもの』。
人間には一切自由用できない『かしものかりもの』だが、神様は人間に『自由の心』を与え、その心通りに守護する理『心通りの守護』を定められた。
上記が人間世界を遍く支配する根源的な理。
健康に飲食ができることも、風邪を引いて寝込むことも、大地震が起こることも、全ては神様が定められた理の上で起こる現象であるから、例え未曽有の大災害が起きたとしても、そこに特別な神様の思惑はなく、ただ理が吹くだけ(理の発動)。
それ故に『特別ではない』。
その一方で、人間創造の目的が『人間の陽気ぐらしを見て共に楽しむ』故に、陽気と反対の陰気な心は埃となり魂を曇らせます。
その埃を払うための箒が必要になり、その箒が様々な身上事情や天災地変として現れるのです。
部屋の掃除と同じように毎日細目に掃除していれば魂の汚れも簡単に落とせますが、掃除をせずに埃を放置し続けると汚れがこびりついて大掃除に発展します。
小難のうちに『かしものかりもの』の有難みに気が付き、魂の掃除が行えればそれ以上難儀することはありませんが、小難で掃除できなければ中難、中難でダメなら大難と、埃が積もれば積もるほど掃除に使う箒も巨大にならざるを得ないのです。
それ故に『特別なこと』。
神の残念とは、日々陽気ぐらしするに十分な『かしものかりもの』を守護しているのに、人間心(八つの埃)で陰気(我が身思案)な暮しを送ること。
そして大難になるまで『神の残念』を食い止められなかった状況を指して『残念立腹』。
『八つの埃』の一つに『はらだち(腹立ち)』があるので、「神様も八つの埃りを使うの?」と訝しく感じる方も多いと思いますが、先ほど説明した様に『全ての事象は理の上で起こること』故に、神様の堪忍袋の緒が切れた(腹立ち)故の神による裁きではなく、積りに積もった埃の大掃除を『残念立腹』と表現して区別しているに過ぎません。
人間の親でも可愛い我が子が悪戯をしたら、最初は優しく諭していても、それが度重なり度を越せば、これ以上見許すことは子供の為によろしくないと判断し、大声を出して強く叱りつける事があると思いますが、それと同様な現象(我が子を思う親心)が理の上で起きている訳です。
仮に神様が立腹したからと言って、その場の気分で理を動かす権限は無く、神様すら自ら定めた理に従っているのです。
神様が自身の都合で勝手に理を曲げてしまえば、それこそ不条理で混沌とした世界であり、信に値する根本が失われてしまいます。
自身の都合で理を曲げる神様など信じるに値しません。
理は絶対不変であるからこそ神様を信じる価値があり、安心して理(神様)に凭れられるのです。
そもそも、神様の守護とは何でしょうか?
『かしものかりもの』『心通りの守護』も守護に違いありませんが、それらは人間の心に与えられた守護なれば、神様が本当に守っているのは人間の心であり、もっと言えば人間の魂を守っているのです。
身体は『かしものかりもの』故に、死後、身体は神様へお返しして魂は来世への生まれ変わりを待ちます。
身体は今世限りですが、魂は永遠に生き通しで死滅することはありません。
前世で身に付いた性質は癖性分も含めて来世へと引き継がれるので、魂の埃を掃除することが守護の本質であり、魂の掃除無くして守護の喜び(かしものかりもの・心通りの守護・心の自由)は育まれず、延いては陽気ぐらしへ至る道筋も埃で埋もれてしまいます。
人間は無形の理が分からぬ故に、有形を見て『大変だ、酷いことだ』と認識しますが、神様が見ているのはあくまで無形の魂であり、人間の目には不条理に映ることでも、神の視座から眺めたら条理なのですから、魂に理が定まる(定着する)までは人間思案の葛藤・悲哀から逃れる術はない訳です。
まあ、理屈は分かったけど…
こんな話を被災者に聞かせて納得すると思うの?
「自分達は埃まみれの人間なのか?」と余計に苦しませるのでは?
そうよ!そうよ!
それじゃ、二次被害も同じだわ!
なぜ被災者に聞かせようと思うのですか?
このブログで何度も説いている様に、教理とは他人に聞かせるものではなく自分が治めるもの。
難儀している人に『あなたの心使いが悪い、あなたは埃まみれ』と説いたところで、気分を害するだけで何の助けにならないのは明白です。
自分自身が教理を治めることもしないで、他人に聞かせようとする。
そこが最大の問題点なのです。
地震などの災害だけではありません、小さな身上事情でも同じです。
難儀している人に教理を振りかざして更に苦しませる。
本人は善意のつもりでしょうが、理から言えば悪手。
神様は教理を広めて欲しい訳ではなく、教理を信じる人に聞いて欲しいのです。
そして教理を治め優しい心を身に付けて欲しいのです。
知っての通り、神様が用いる布教の方法は『にをいがけ』です。
『にをい』とは『神様の匂い』。
『神様の匂い』は、教理を身に付けた人から伝わるもので、聞きかじった教理を得意満面に説いたところで、その人の本性(癖性分)が伝わるだけ。
それでは逆に悪評を振りまいているも同じこと。
教理を他人に向けたら凶器になって他人を傷つけることになりかねません。
なぜ自分すら治められない教理を他人に聞かせようとするのでしょう?
自分の癖性分と向き合うのは難しいですが、他人の癖性分を責めるのは簡単だからですか?
まあ、自分が治めると言うのは分かるけど、結局は心の中で『アイツは心使いが悪い、天理教以外は埃まみれ』と蔑み見下しているんじゃない?
自分らを高いところに置いてさ。
そうよ!そうよ!
自分らは神様を知っているから高慢になって、世間一般を見下しているのよ。
カルトよ!カルト!
勘違いしてはいけないのは、埃とは難儀している人だけに蓄積している訳ではありません。
難儀している人の周り、その縁にある人達にも同等の埃が蓄積しているのです。
『見るも因縁、聞くも因縁』と教えられる様に、日本中を震撼させる程の大事であれば、日本中全ての人間にも同等の埃が蓄積していると考えるべきです。
もし家族に身上者がいるとしたら、その一人が家族全体を代表して身上の仕込みを受けているのです。
一人の身上を台にして、家族全員を助けるのが神様の慈悲、天の方法。
つまり身上者のお陰で周りの人も助けられるのだから、その身上者に感謝こそすれ偉そうに教理を振りかざすなど心得違いの極みです。
せんしよのいんねんよせてしうごふする
これハまつだいしかとをさまる
おふでさき1号74
このように『因縁寄せて守護する』のだから、その縁にある者、その難儀を見る全ての者が、他人事と思わずにしっかりと『かしものかりもの』を治めたら、それで縁全体が助けられる道理。
この関係性から言えば、難儀をしている人が助ける側で、その周りが助けられる側。
周りは身上事情で難儀することなく『かしものかりもの』を学び、魂を掃除する機会を与えられているのだから、その分、周りは優しい心で身上者を手助けすることで互い助け合いが成立すると言うわけです。
それじゃ、震災の被災者は日本全体を助けるために犠牲になったと言うこと?
それは余りにも酷いんじゃないの?
死んだら元も子もないじゃん!
陽気ぐらしの為に犠牲が必要なら本末転倒だよ?!
そうよ!そうよ!
大儀のためなら一部が犠牲になってもいいの?
神様は自己中で身勝手過ぎるわ!
これは犠牲ではありません。
そうならざるを得ない理が及んでしまったのです。
それが『神の残念』なのです。
そして魂の世界に死という概念はありません。
人間の死も、神様から見たら貸した身体を返して貰うに過ぎませんが、現状で魂の概念が無い人間が死(魂で言えば出直し)に直面すれば、多くが心を痛めることは神様も重々承知しています。
それが『神の残念』なのです。
じゃあ、どうすればいいの?
神様は『知らぬが無理ではない』と言いながら、自分の埃を知るすべが無いのだから、神様を知らない人達が運命に抗うことは不可能だよ!
そうよ!そうよ!
結局、天理教を信仰しない人間は馬鹿を見る!って言いたいだけじゃないの?
今までの話だって全部天理教に都合良い妄想に決まってるわ!
なるほど。
それでは神様の一番の残念は何だと思いますか?
えーと、
世間一般の人達が神様の話に耳を傾けないこと?
そんなの決まってるわ。
世界中の男がアタクシの美貌に気が付かないこと。
神様にとって一番の残念。
それは、教理を聞いていながら本気にしないこと。
神様は『神様を知らない人』に向けて教理を開示した訳ではありません。
当然ですよね?『神様を知らない人』はそもそも知る機会が無いのですから。
つまり全ての教理は『神様の話を信じる人』に向けられたもの。
よって『神の残念立腹』も神様の話を聞いている信仰者に掛かる言葉なのです。
だってそうでしょう?
神様からしてみたら頼れるのは『神様の話を信じる人』だけなのです。
その為に教理を開示し、『おつとめ』を教え、『さづけ』も渡したのですから。
でも、天理教の人達はみんな真面目に信仰しているから自分達には問題はない、神様の話を聞かない世間一般に問題があると考えているのでは?
天理教信者は毎日真面目におつとめしているし、戸別訪問やパンフレット配り、路傍講演やひのきしん活動など頑張っているのに、これ以上どうしろと言うの?
神様の話を聞かない世間一般の自業自得よ!って上から目線で考えているはず…
真面目に信仰しているからと言って、理に適っているとは限りません。
そもそも天理教信者が毎日真面目におつとめをし、戸別訪問やパンフレット配り、路傍講演やひのきしん活動など頑張った結果、なぜ『神の残念立腹』という事態が発生するのでしょうか?
その真面目な信仰や頑張りは何処に反映されているのでしょうか?
かみなりもぢしんをふかぜ水つきも
これわ月日のざねんりいふく
おふでさき八号58
そもそも神様がこのお詞を明かした理由をよく考えてください。
ただ単に『天災地変は神の残念立腹』と教えるだけでは人間に恐怖を与えるだけで、陽気ぐらし世界の創造には逆効果。
神様は『無事無難』の反対概念として『天災地変は神の残念立腹』と位置付けただけで、本当に教えたいのは『神の残念立腹』に至る埃を掃除する方法です。
つとめさいちがハんよふになあたなら 天のあたえもちがう事なし
おふでさき 第10号34
しかし、実際は『神の残念立腹』が起こる。
なぜなのでしょうか?
神様が嘘を言っているのか?
信仰者が神様の意と違う心でつとめているのか?
もし神様が嘘を言っているなら、そんな神様を信仰する意味はありませんよね?
どのよふにむつかしくよふみへたとて よふきつとめてみなたすけるで
おふでさき 第12号61
形はかしものかりもの。
この大宇宙を創造する力を持つ神様なら、天災地変を抑えるなど造作もないこと。
しかし神様ですら理を曲げることは不可能。
種が無ければ実は生えない。
心に種が無ければ受け取れない。
陽気づとめが執行されなければ救けを及ぼすことは出来ない。
本来、世界を安寧に治めるのが地場の役割。
地場が真っ先に陽気ぐらしを実現することで世界にひながたを示し、その姿を映し出すことで世界一列を陽気ぐらしへと導くのが地場の役割。
逆説的に捉えれば、世界の乱れは地場の乱れが映し出された姿。
果たして、現在の地場に神の匂いはあるのか?
地場に居を構える真柱はじめ本部員一同は陽気ぐらしを実現しているのか?
神様ではなく、末端信者が汗水流して働いたその代価に守られて暮らしているのでは?
末端信者の誠意(金銭)を神様の守護と履き違え、恩に恩を重ねて暮らしているのでは?
身上の仕込みを頂けば『医者薬も神様の守護』と嘯き、神様ではなく医者薬を頼っているのでは?
医者薬に助けられながら、神様のお陰、信仰のお陰などと、頓珍漢な心使いをしているのでは?
何か問題が起きても自分達は高い処に置き、世間や末端信者に問題の矛先を向けているのでは?
本当に心定めは為されているのか?
心定めとは神様の心を我が心に定着させること。
人間心で幾らつとめに運んでも、神様が受け取るのは人間心の癖性分。
じゃあ、種って具体的には何?
これだけ長い間信仰が続いていて、誰も種を蒔けないってこと?
献金、教団への勧誘、社会への勤労奉仕、教会や上級への滅私奉公は種にならないの?
種とは真実誠です。
真実誠?
でも真実誠なら天理教の人達は皆、当たり前の様に心得ているんじゃない?
天理教は何故『真実誠』という言葉を使うのでしょうか?
もちろん神様に教えて頂いたからですよね?
神様の仰る『真実誠』とは元々人間心の中には存在せず、神様の胸の内だけに存在していた概念なのです。
つまり神様の胸の内を聞き分けない限り『真実誠』を運ぶことは出来ないのです。
なぜ天理教は、献金(お供え)、教団への勧誘、社会への勤労奉仕、教会や上級への滅私奉公を信仰の一環として位置付ける様になったのか?
史実を紐解くと、信者を増やすこと、教団を大きくすること、教勢を拡大することが神様の思し召しに適う『真実誠』に違いないと先人達が思案した結果、それらの信仰形態が定着したと考えられます。
しかし幾ら人間心で『真実誠』を思案したところで、人間心から出てくるのは世間並の答え。
その正誤は神様に聞かなければ知る術はないのです。
真実誠の心、一粒万倍の善き理を渡す。
おさしづ 明治二十一年
真実誠なら一粒万倍。
真実誠とは一人が万人を助ける人知を超えた不思議な種と教えられていますが、今の天理教に一粒万倍の理を運べる可能性は限りなくゼロに近い。
本席様以降、一切の天啓を異端と拒絶し排除し続けた天理教には、もはや『真実誠』の神髄を知る術が無いからです。
しかも残された教理も人間思案で汚され、銘々勝手な悟りという癖性分の雑草が生い茂り、真実の道を辿るのは困難の極み。
きゝたくバたづねくるならいうてきかす
よろづいさいのもとなるをかみがでゝなにかいさいをとくならバ
せかい一れついさむなり
みかぐらうた よろづよ八首
地場に神の機械が常駐し、いつ何時でも『真実誠』の心(言葉)をお降し頂けるから、人間は喜び勇んで『真実誠』の種を運び続け、陽気づくめに暮らすことが出来るのです。
しかし、神様に伺う道が絶たれたと言うことは、『神の残念立腹』が現れたとしても心の治め向きも分からず、今後の信仰の糧にもならず、同じ大難を何度も繰り返す以外に埃を掃除する術が無いと言うこと。
現在、人間である真柱や表棟梁、本部員等は『心勇ませる講話』ができるでしょうか?
一月の講話の様に『心沈ませる講話』は出来ても『心勇ませる講話』は原理的に無理なのです。
何故なら、人間は自身の言葉に保証(守護)を与える能力はありません。
しかし、神様は違います。
神様が『真実誠の心、一粒万倍の善き理を渡す。』と言葉にした以上、真実誠の心には必ず言葉通りの保証(守護)を与える能力があるのです。
それが人間と神様との違い。
ちょっと、黙って聞いてれば偉そうに講釈垂れているけど…
アンタは真実誠の心が分かっている訳?
(黙ってた?)
神様にとって一番の残念は、神様の教えを聞いていながら本気にしないこと。
ならば、『真実誠』とは即ち、神様の教えを本気で実践する心。
言葉にすれば簡単に聞こえますが、これが中々どうして本気で実践となると難しいのです。
現在、天理教は教祖140年祭に向けた三年千日が掲げれていますが、元々の三年千日のさしづは、神様の教え頂く側の者(本部員)が、教祖のひながたを本気で通ろうとしない(教理を本気で実践しない)信仰態度に起因しています。この様子からも伺えるように、本席様ご存命当時、神様のお膝元で直接教えて頂く面々すら『本気の実践』は難しいのです。
その難しさを理解しやすいのが『たんのう』の教え。
病気を患うと大抵の人は不安になり医者薬を頼りますが、天理教信仰者は『たんのう』を教えられているので、心の治め方一つで病気を治める不思議に与るわけです。
人間は身上の患いを病気にカテゴライズしますが、神様は病気ではなく『かしものかりもの』を悟らせる身上の仕込みと教えます。
『たんのう』は我慢とは違います。病気を我慢しても癖性分はそのまま故に症状も改善しませんが、『かしものかりもの』を知る者は神様の守護に凭れた安心安全の心の状態のまま、病気の最中でも『たんのう』という名の喜びを運べるのです。
教えを本気で実践し『たんのう』した結果、その心通りに身上の患いが治まれば『かしものかりもの』を心通りに守護くださる理のあらまし、教えの正しさを理解できる様になり、その理解に到達してはじめて、無事無難の日常にも神様の守護を感じる魂の感受性が根付くのです。
もちろん『喉元過ぎれば熱さを忘れる』の言葉通りに、身上治まれば『かしものかりもの』を忘れ人間心に舞い戻るため、『たんのう』を定着させることは一朝一夕には行きませんが、何度も何度も繰り返し身上の仕込みを頂く内に、段々と『たんのう』が魂の性質として身に付いて行くわけです。
そうして『たんのう』の性質が身に付いたら、家事をしていても真実誠、仕事をしていても、遊んでいても、何をしていても真実誠。
別段、献金(お供え)、教団への勧誘、社会への勤労奉仕、教会や上級への滅私奉公という形式に拘らなくても、日常生活を送っているだけで『真実誠』を運べるのだから、教祖(おやさま)のひながた通りの陽気づくめが実現する訳です。
そして『真実誠』の心が集い直参することで『陽気づとめ』が完成する。
どうですか?
ここまでの話を聞いて簡単に思われましたか?
信仰者でも『病を喜ぶ(たんのう)など常軌を逸してる』と感じる方も少なくないのでは?
実際『医者薬も神様の守護』との考えから、身上患えば当然の様に医者薬を頼る信仰者が殆どではないでしょうか?
しかし、それではいつ『たんのう』を運べるのでしょうか?
いつなら『神様の教えを本気で実践』する誠真実を運べるのでしょうか?
小さな埃の積み重ねが『神の残念立腹』として現れるように、小さな誠の積み重ねが『無事無難の日常』を保ち、やがては陽気ぐらしの扉を開く理の順序。
でも、寿限無の解説だって自分勝手な悟りじゃないの?
その言葉が真実だと言える根拠はあるわけ?
そうよ!そうよ!
アンタも銘々勝手な悟りをしている内の一人に過ぎないわ!
その通りかも知れません。
でも少なくとも『地場に神の機械が必要』と言う点は間違いありません。
神様なら銘々勝手な悟りの正誤を見極められるし、現在進行形の神様の思いや、人間の成長に合わせた心の指針を伺い知ることが出来る訳ですから。
だから私達は、地場に再び神の機械が降臨頂ける様に、真実誠を運ぶ必要があるのです。
その為に本席様が残された『百日さしづ』の研究は喫緊の課題です。
以下は『百日さしづ』の発端となるお詞。
明治四十年三月十三日(陰暦正月二十九日)午前八時三十分
平野楢蔵とお話しありし時、俄かに刻限の話一万二千 足らんと聞いた。そんな事でこの道どうなるぞ。
これでは働けるか働けんか。さあしっかりせい。
教祖にこの道譲りて貰ろたのに、
難儀さそうと言うて譲りて貰うたのやない、言うて居た日あるのに、何と呆けている。
さあ/\ 今日はどういう話仕掛けるかも分からん。
さあ 皆用いるか/\。用いらねば 世界へどうして詫するか/\。これ知りて居るか。
年限数えてみよ/\。いつまでこんな事で通るか。
道は皆 継目あるで/\。継目知りて居るか/\。知らずに何と呆けて居る/\。
皆んな 取損いして居る/\。教祖という道 内から潰して居る。
世界の道で立ってあるか/\。学問で立つと思うか。
さあ/\ 世界の機械は何時なりとある。何時なりと買えるで。
神の機械あるか。あらしょまい。神の機械は、年限の理続くが 神の機械である。
これ 一時に聞き分けて 今日に返事して来い。
さあ 手の空いた者 席運べ/\。今の席 四席連れて来い。
さあ/\ 決まるもの決まりて来い/\。
早く こういう決まりして来た と言うて来い。
神の機械(神の社)あっての地場。
神の機械(神の社)あっての真柱という役目。
神の機械(神の社)あってのお道。
神の機械(神の社)あっての末代の道。
神の機械(神の社)あっての陽気ぐらし。
神の機械(神の社)あっての信仰。
神の機械(神の社)あっての真実誠。
そして地場に神の機械が降臨した時、私達は改めて尋ねることが出来るのです。
かみなりもぢしんをふかぜ水つきも
これわ月日のざねんりいふく
おふでさき八号58
『このお詞の神意を教えてください。』ってね。
おわり
コメント
明治四十年三月十三日(陰暦正月二十九日)午前八時三十分
平野楢蔵とお話しありし時、俄かに刻限の話
一万二千 足らんと聞いた。そんな事でこの道どうなるぞ。
これでは働けるか働けんか。さあしっかりせい。
教祖にこの道譲りて貰ろたのに、
難儀さそうと言うて譲りて貰うたのやない、言うて居た日あるのに、何と呆けている。
さあ/\ 今日はどういう話仕掛けるかも分からん。
さあ 皆用いるか/\。用いらねば 世界へどうして詫するか/\。これ知りて居るか。
年限数えてみよ/\。いつまでこんな事で通るか。
明治四十年は1907年である。扉開いた1887年から20年である。みきは叱りつける。
年限を数えてみよ、だから、始まりの1を真の理と見る。
1881年が筆先16号執筆である。ここに開始の宣言がある。
第十六号一 から 五まで 教えたいと告げている。
いまゝてハこのよはじめたにんけんの もとなる事をたれもしろまい
このたびわこのもとなるをしいかりと とふぞせかいゑみなをしゑたい
このもとハかぐらりよにんつとめハな これがしんぢつこのよはしまり
このたひのかぐらとゆうハにんけんを はじめかけたるをやであるぞや
このもとをしりたるものハないのてな このしんぢつをみなをしゑるで
第十六号六 から九まで 心わからないので返し(天罰)をつげる。
いまゝてもにち/\くときたん/\と ゆうてきかした事ハあれとも
もふけふハいかほど月日ゆうたとて 一れつ心わかりないので
それゆへにもふせへつうがきたるから せひなくいまわかやしするぞや
このかやし一寸の事とハをもうなよ あゝちこゝちにをふくみゑるで
第十六号一〇 から一一 まで
このよふのにんけんはじめ元なるを どこの人でもまだしろまいな
このたびハこのしんちつをせかへぢうへ どふぞしいかりみなをしゑたい
以上の和歌、これが天罰開始の理由と、宣言で、しっかりの天罰である。
1881年、5月5日、この世の芯 甘露台石普請開始から26年である。
1881年、9月23日、天理教の芯、初代真柱が中山家入籍から26年である。
第十七号四六
この日ハないつの事やとをもている 廿六日がきたる事なら
さあ 皆用いるか/\。用いらねば 世界へどうして詫するか/\。これ知りて居るか。
年限数えてみよ/\。いつまでこんな事で通るか。
現在、坂井の知る限り、坂井明久のみが用いる。年限を数える。を用いる。
みきさまは大変お喜びで、願えば、病人は 皆たすかる。不公平だが、仕方ない。みきを、真柱を神とみとめよう。