
お母はん
もうお米がありません!どないしましょう!

ああ、そうかや…
まあ、ええやないか

けど
お母はん!

こかん。
世界には枕元に食べ物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉をこさんと苦しんでいる人もある。それを思えばわしらはけっこうや。
これは教祖が通られた「ひながたの道」でも重要なエピソードの1つですね。

じゃあ、重要じゃないエピソードは?

そこをツッコまないでください。
ごほん・・・
ええ、改めまして・・・
「ひながたの道」は全て重要ですが、その中の1つ
水を飲めば水の味がする
のエピソードをご紹介しながら、ここで諭される「喜びの意味」について考えてみましょう!
水だけで喜べるのか?
それでは「ひなが劇場」の続きから・・・

水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与えくだされている

・・・

どれだけつまらんとても つまらんというたらいかんで けっして乞食はささぬ

(お腹空いた・・・)
普通、お米が無くなり、食べ物が無かったら、ひもじい気持ちになり、とても喜んでいられませんよね?
だが教祖は、普通なら喜べない状況の中「喜びの理論」を打ち立てたのです。
それが有名な「水を飲めば水の味がする理論」。

お米が無いから、水を飲め?
水だけ飲んで喜べる人間なんていないわよ!こかんちゃんが可哀想!

若き神様と言われたこかんさんを
「ちゃん」呼ばわり・・・
先ず、教祖は「お米が無い状況」から焦点を外し、「お米が無い状況」を「他の状況」と比較することで、相対的に「喜べる状況」を作り上げました。
それが下記図
Win!「お米が無い状況」 > 「お米があっても食べられない状況」
「お米が無い状況」は難儀ではありますが、「お米があっても食べられず水も飲めない状況」に比べれば「喜べる状況」を見い出すことが出来ますね?
「お米が無い状況」は小難
大難と比べて小難なら「良かった、良かった」と喜べるわけです。

まあ、大難より、小難が良いに決まっているけど・・・
なんか、誤魔化されているみたい・・・

そうだよね。
だって「お米が無い状況」は根本的に解決していないのだから!
そうですね。
他と比較すれば、気分的に救われても、実際の状況として根本的な解決にはなっていませんよね。
しかし、ここで教祖が諭されているのは「相対的喜び」ではなく、「絶対的喜び」なのです。
絶対的喜び

絶対的喜び?
アンタ、いちいち難しい言葉使わないでよ!

簡単に言えば、
比べる必要がない至高の喜び。つまり「お米が無い状況」が至高の喜びってこと?
その通りです!
教祖は「お米が無い状況」下で「絶対的喜び」を見出し、こかん様に伝えられたのです。
絶対的喜びとは・・・
水を飲めば水の味がする
この一言に「絶対的喜び」が集約されているのです!
「水を飲めば水の味がする」とは比較による喜びではなく、その行為自体に「喜び」が存在しているのです。
その真意は・・・

親神様が結構にお与えくだされている
先ず、第一に、「水を飲めば水の味がする」とは本来的に誰でも平等に与えられた「普遍的な与え」。
つまり「かしものかりもの」ですね。
勿論、味覚障害などで「水の味がしない人」もいるかも知れませんが、これは「かしものかりもの」を例える代表的な例としてお話しされているので、別に「歩ける」「呼吸ができる」「心臓が動く」でも問題ありませんが、水をゴクリと飲んだ時の味わいは、爽快感、生命の躍動を感じさせ、誰でも共感できる表現として、しっくりくる表現だと思います。
そして、ここからが重要。
親神様が結構にお与えくだされている
これは「心通りの守護」を諭しているのです。
人間可愛い一条の親神の考えとして、今、最高に喜べる与え・・・
それが「心通りの守護」。

はあ?
病気や貧困も結構な与えなわけ?最高どころか最低で喜べないわよ!

「心通りの守護」だから自業自得でしょう?
溜息しか出ないよ・・・
お米が無い状況も、食べ物がある状況も、水を飲めない状況も、水の味がする状況も、全て「心通りの守護」なら、全てが最高の与えであり、現時点で最高の喜びです。

何言っているのよ!
お米があって、健康で、水も飲めて、水の味がする!ついでに美人!それが最高の与え、最高の喜びでしょ?!
でも、それが日常になると、当たり前・当然と感じ、「喜びの心」どころか「不平不満の心」が横行し始めるのです。
悲しいかな、それが人間の現実。

うん。
それは否定できないね。
ところが、お米がなくなるとお米の有り難み、病気になると健康の有り難みを知ることができます。
現在、新型コロナウィルスの影響で、これまで当たり前に享受していた学校、経済活動、日常生活が根底から崩れてしまいます。
たった未知のウィルス1つで世界中が大混乱に陥る現状を鑑みれば、人間の生命活動は絶妙のバランスの上で成り立つ不思議な与えもの・・・と気が付き実感できる。
要するに、人間が生きているのは人間自身の力では無く、不思議で結構で有り難い「親神様の与えもの」。
神様は人間に「水の味わい」を与えるために、宇宙・太陽・地球・水・人体を創られたのだから、その守護の広大さに思いを馳せた時、たった「水の味わい」1つから宇宙全体に至る広大な守護を感じ取ることが出来るのです。
そして、その喜びは「水の味わい」に留まらず、「かしものかりもの」全てに通じる至高の喜び。
どうです?
「水を飲めば水の味がする」
この言葉に込められた深い意味が理解できたでしょうか?

そうね・・・
でも、まだ誤魔化されないわよ!依然として「お米の無い状況」に変わりないじゃない!

結局、水を飲んで我慢していろ!ってことでしょう?
いえいえ、ここからが話の核心!
どれだけつまらんとても つまらんというたらいかんで
この諭しを一言で説明すると・・・
不足するな!
ってこと。
これは何も我慢を強いている訳ではありません。
理を説いているのです。
奈良監獄所で便所掃除をさせられた鴻田さんに対して「どう思うかえ?」
と問いかけた教祖に「神様のご用と思えば結構でございます」と返答した所…

どんな辛いことや嫌なことでも、結構と思うてすれば天に届く理
神様が受け取りくださる理は結構に変えてくださる
ここでは結構の理を説き・・・

なれど、ああ辛いなあ、ああ嫌やなと、不足不足でしては、天に届く理は不足になるのやで
続けて、不足の理を説かれました。
つまり
どれだけつまらんとても つまらんというたらいかんで
とは、理の上から意味が無いばかりか、更に苦境に陥る心使い。
だから「いかんで」と諭しているのです。
要するに、今の与えは「心通りの守護」だが、今運ぶ心も「心通りの守護」をいただくのだから、今、この瞬間に「結構の種」を蒔かない限り運命は変わらない。

でも、未来の喜びを信じて、「お米が無い現実」を喜ぶなんて難しいわよ!

我慢して無理に喜んでも、それは「不足」だよね?
そですね。
でも無理に喜べば「不足」ですが、理をちゃんと理解して喜べば「結構」になります。
「心通りの守護」とは、守護が不足することは絶対にありません。
病気・貧困でも、けっして守護に不足はありません。
なぜなら、
そこまでの心しか運んでいないのです。
その人の心を、神様が精一杯受け取った結果が、病気なり、貧困なりと守護になって現れた。
そこまでの心しか運んでいないので、文句を言う筋合いは1つもなく万事が理の通り!
つまり
満足!

まあ、文句言う暇があるなら、理を思案して「結構の種」を蒔きなさいってことね?

目の前の病気や貧困を乗り越えて、未来に「結構の種」を運べるかどうか・・・
人間思案では絶対に喜べない中、理を信じ(自分の思いを乗り越えて)、喜びの心に成れたら大手柄。神様のお受け取りくださる理は一粒万倍!

その後、
こかんちゃんは、お米を食べられたの?そこが重要よ!

こかんさん…な!
その後も元気に暮らしているので、食べられたと思いますよ。
それどころか、教祖やこかん様が蒔いた種のお陰で、その後の道は世界中に広まり、多くの難渋を救い、子孫達は何不自由ない生活が送れているのですら・・・

教祖の子孫は、裕福で毎日贅沢三昧で暮らしているのね!羨ましいーーー!

おい、人聞きの悪いこと言うな!
風評被害で訴えられるぞ!
と、いう訳で・・・
皆さんも、「水を飲めば水の味がする理論」を離さず、どんな中も喜びで通り切り、喜びの運命に立て替えてください!
それでは、また!

ごちそうさま
コメント
素人さんは、病助けの数も中身も、通っていない。ご忠告します。
世界には枕元に食べ物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉をこさんと苦しんでいる人もある。それを思えばわしらはけっこうや。
水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与えくだされている。
味がわからなくなって、助けてくださいと頼まれて、二例以上、お助けしました。
その方、資産数十億の家のただ一人の相続権あるのです。こういう人は金で何でも美食できると思います。
どっこい、「舌が、味音痴にされてしまって」そういう病気です。
中山の家も、そういう病気が出て当然の資産数十億以上の、悪因縁持ちです。
本当なら、味音痴であるはずの小寒が、助けられた姿。
お助けに、坂井は、活用して、病気なおしました。見事に2例、助けています。
人助けなさい。
寿限無さんは、神様からの手入れがないという、痛みも苦しみもないとのことのようですが、今もまだそうですか。用木ならば、お手入れ(神様からの痛み苦しみ、病苦の事)があって、当然です。
坂井の母親は美恵子さんと言います。
坂井が中学校から帰宅すると美恵子さんは、イタイイタイと苦しんでいました。
心得ていた坂井は、すぐ手を出して、「金あるだろう、出しな」。でした。
美恵子さんは和裁師でしたから、着物が仕上がって、依頼者から臨時に入金があって、これは自分が使おうとして、脇にのけて保管した処で、一瞬に、痛みも苦しみもきたと、自供しました。
すぐ全額受け取って、飯田市からバスに乗って、伊賀良の位教分教会迄約50分です。坂井は一直線に、神殿の賽銭箱に入れます。美恵子さんは坂井が金受け取ったら、痛みはすっと治まります。普通の出来事です。
坂井には元信さんと言う弟がいます。何時も坂井の財政はその日暮らしと知っていて、毎週お金を以て、坂井に、「兄貴、これ使いな」と一万円強程度を、渡します。そうしておけば、健康が守られると言います。美恵子さんに叩き込まれた「お供え信仰」の方で、たすけ一条の頃の位京分京会にはお供え(献金)する信心でしたが、違ってしまったと言い、ある時期から位京分教会にはお供えしません。兄貴には、兄貴にはお供えしているようなものです。
子供の頃、街を歩いてぃると、駆け寄ってきて、坂井に手渡し現金を渡す奥さんがいました。それで病が治るというのです。坂井が小学校2,3年に、美恵子さんの依頼で本人に求められ、お諭しをした当時はクリスチャンだった奥さんです。年限を経て、その奥さんの孫にあたる女性が元信さんの長男と結婚して、坂井とは無関係に、子供もいて賑やかに暮らしています。奥さんは天理教がしたくて、・・でした。
お供えとは「おつなぎ」です。
元信さんは言います。「何言ったって出さないと助からないよな。」と。
しんばしらが天啓者で、数理43を示して、大地震を出せるという事は、金を渡しても「真柱は私物化しない」を証明しています。真柱のお嬢さんと一瞬ですが会話した事があります。無邪気で屈託なく、仲良し出来ました。
真柱の極めて親しいご友人が、坂井のやっている事業、水引工芸の事業の仕事してくれたことがあります。
屈託なく、仲良しできました。老朽化した真柱自宅の廊下は傾いているが、建物は歪んでいるが、真柱は直させない。そのままで暮らしているから、貧乏暮らしの女の子に、屈託がない。無邪気そのものである。
金を私物化するようなら、しんばしらではない。そうなら理がないの無様です。
寿限無さんには、天理教・しんばしら、まるで軽くしか見えていないのは、寿限無さんはWEBで天理教を説いていて、柱の役となり、しんばしらの役程度なら、自分でもできると、なめているからです。
統一教会、創価学会、真剣に天理教としてなし、3年でも難病お助けの連続を通れていない惨めさです。
豪邸に住んで栄華に暮らしていると、それでは誰ひとり、病気治せない。天罰も出せない。
しんばしらは、豪邸に住んで金を無尽蔵に使えると、誰の教えですか。親神は許さない。天理教のしんばしらは、神です。
真柱に当日の個人の事情をお話し、恒例の会議を欠席とした、真柱の許可を得た本部員の当日の実話です。
公刊出版物にて読めるお話です。
恒例の会議を欠席との許可を得て、ご本部神殿を出て、その方です。
一歩歩くごとに、息が苦しくなり、一歩歩くごとに、息が苦しくなり、これでは死ぬと、殺されると分かったとの事です。大急ぎでお詫びして、取って返し、高齢の会議に参列した。治りました。これが真柱です。
ならば、おたすけ人坂井の命じた用を足さなかった場合にて思案します。
命じたその道具が坂井の命に従わずとも、苦しくもなく全然平気なら、坂井には「真」の理が無いとなります。
それで坂井は、お助け人と言えるか。
着物を仕立てた美恵子さんは、お供人(おそなえにん)坂井に、身上の痛みを訴えて、お供えを依頼し、坂井は中学生で、お役を果たした。それが、たかが十人の道具の、理の間違いを、身上痛みで返せなければ、坂井は嘘になります。元信さんはお金届けて、「出さない奴はだめよ」です。
寿限無さんは、しんばしら、馬鹿にし抜いて、さらし者になるが、お望みですか。