貧に落ち切れ!「ひながたの道」は艱難辛苦の道?

ひながたの道

 

今回は、教祖(おやさま)が通られた「ひながたの道」で最も印象深いエピソード。

貧に落ち切れ

おやさま
おやさま

貧に落ち切れ。
貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。

「貧に落ち切れ」との親神様の思し召しのまま、その言葉通りに屋敷にある米や衣服、木綿、反物、家財道具・・・あらいざらい貧しい人々に施し始め、自ら貧のどん底に落ちていきました。

元々、中山家は庄屋の家柄で、質屋業も営む裕福なお屋敷でした。
村中から羨望される家柄が、わけの分からない神様の指図に従い、ものの見事に没落していったのです。

いさみ
いさみ

神様はなんて酷いことをするの!?

何様のつもりかしら!

いずむ
いずむ

神様じゃない?

寿限無
寿限無

お二人は「貧に落ち切れ」と言われたら、素直に実行できますか?

いさみ
いさみ

無理-!絶対無理-!!

でも、一千万円くれるなら「貧に落ちきる」のもやぶさかではない・・・

いずむ
いずむ

何で、そこまでして人救けする必要があるの?第一、物品には限界があるのだから、貧に落ちきった後は人救けどころか、今度は救けられる側に回るのでは?

いさみ
いさみ

夫や子供達はよく黙っていたわね!

アタシなら即離婚よ!

神様の指図に従わないと、教祖は倒れ食事もとれなくなり、ほっておけば命が危ぶまれるので、家族も指図に従わざるを得ない状況でした。

いさみ
いさみ

酷い!教祖を人質にとって、家族に言うことを聞かせるなんて!一体何様のつもりよ!

いずむ
いずむ

だから神様だって・・・。

確かに当初、神様は強引な方法で「救けの道」を推し進めましたが、これはあくまで人間の立場から見た場合。
神様の立場から見たら、人間にとって最善の策を取っているのです。

そもそも中山家には、この世の元初りの時に、人間創造のために働くと約束した道具衆の魂が引き寄せられていました。

  • 中山善兵衛  = いざなぎの命
  • 中山みき   = いざなみの命
  • 中山秀司   = つきよみみの命
  • 中山こかん  = くにさづちの命

そうそうたる顔ぶれですね。

誰も神様との約束を覚えていませんが、魂では覚えているのです。
心は拒んでも、魂は求めている。
魂の時は人間創造の思惑を理解し、賛同し、一筋心で働くと約束したのです。
神様の立場から見たら約束通りに計画を進めているに過ぎず、しかも、世界救けに必要な「神屋敷」の普請に着手する重要な局面。
神様(月日)だけでは計画は果たせません。
月日道具衆が一手一つにならなければ人間創造の大プロジェクトは果たせない。
「人間の陽気ぐらしを見て共に楽しむ」ことも適わない。
これまで何億年という気の遠くなる年月を人間創造に費やし、遂に迎えた約束の時。
月日と道具衆、並々ならぬ覚悟で迎えた天保9年10月23日旬刻限。
人間創造を成し遂げるために、中山家に配置された道具衆。

  • 中山善兵衛  = いざなぎの命
  • 中山みき   = いざなみの命
  • 中山秀司   = つきよみみの命
  • 中山こかん  = くにさづちの命

神様には遠慮や躊躇する理由などありません。
全ては可愛い子供(人間)のため。

しかし、そんな魂も人間に宿れば人間世界の埃を被り、人間一条の心で魂を曇らせてしまいます。
そこで神様が真っ先に着手したのが「屋敷の掃除」。

「神屋敷」を「埃の屋敷」の上に普請するわけにはいきません。
「埃の屋敷」は綺麗に取り払い、頑丈で揺るぎない土台の上に「神屋敷」を普請するが世の道理。

「貧に落ち切れ」とは「屋敷の掃除」を始める合図だったのです。

おやさま
おやさま

貧に落ち切れ。
貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。

そして「神屋敷の普請」とは新たな屋敷を建設することではありません。
世界救けの神屋敷として「救けの理」を打ち立てることに真の目的があるのです。

救けの理

おやさま
おやさま

水でも落ち切れば上がるようなものである。
一粒万倍にして返す。

「水でも落ちれば上がる」・・・
これは自然の道理ですね。
この目に見える現象に異を唱える人はいないでしょう。
そして「一粒万倍にして返す」。
作物・果実・木の実などは一粒の種が何倍にも実り、その何倍の種を植え続けたら万倍の実りになるのも自然の道理。

これは自然の中に定められた「守護の理」であり、人間は知らず知らずに膨大な守護に与ると同時に「守護の理」を学んでいるのです。

この「守護の理」に従えば、神様を信じて運ぶ一粒の誠が一粒万倍になって返って来る・・・
これが「救けの理」。

道理としては非常に解り易いですが、これを実際に信じて運べと言われたら困難の極み。
だから多少強引でも神の指図通りに従わせ、「守護の理」を現わす必要があったのです。

夫善兵衞、秀司、こかんは教祖より先に出直し、一粒万倍と言えるほどの返しを見られなかったかもしれません。
でも道具衆の立場としては、それで十分役目を果たしたのです。
その後、教祖の教えが全国に広まり、万倍の人間を救けたのだから・・・。

そして、貧のどん底に落ちた中山家ですが、先祖が蒔いた一粒の種のお陰で、子孫は何不自由ない生活を送ることが出来るのです。
その当時では理解できなかったことも、長いスパンを通して鑑みれば「成る程、神様のおっしゃることは正しかった・・・」と誰もが納得できるわけです。

いさみ
いさみ

成る程・・・
確かに過去を振り返れば「貧に落ちきった」意味が分かるわね。

いずむ
いずむ

こんな凄いことをするのは何様ですか?

いさみ
いさみ

か、神様です。はい。

寿限無
寿限無

これで「貧に落ちても跳ね上がる」と言われた「救けの理」が分かりましたね。どうです?一度、貧に落ちてみますか?

いさみ
いさみ

いや~・・・貧に落ちきるのはちょっと・・・ははは・・・。

いずむ
いずむ

貧に落ちきらないと「ひながたの道」はたどれないの?

寿限無
寿限無

安心してください。
「貧に落ち切れ」とは屋敷の因縁に対して降された一過性の指図であって、貧に落ちきらなければ「ひながたの道」をたどれない・・・なんてことはありません。

因縁は人それぞれ。
何か困った問題が起きた時、教祖の「ひながたの道」を心に映して、「これも人間一条の心を掃除して、神一条の心を普請するチャンス!」と喜び勇んで通りきれば、問題が治まるだけではなく、そこから新しい展望が開けてくる・・・
それが「守護の理」です。

もちろん、困った時だけではありません。
むしろ、困った問題が起こらない無事無難の日常こそ「ひながたの道」を心に映し、しっかりと通らなければなりません。

なぜなら、困った問題が起こる原因の殆どは、無事無難の日常にあるのです。
せっかく無事無難の守護を頂いているのに、自分の力だと錯覚し、調子に乗り、欲や高慢、我が身思案などの酷い心で、自ら問題の種を蒔き続けているのです。

これでは汚しては掃除し、汚しては掃除しての繰り返しで、一向に「陽気ぐらし」へ近づくことができません。

どんな時も「ひながたの道」と心得、人間一条に引きずられないように気を引き締めて、一粒一粒、自覚的に喜びの種を蒔き続けるからこそ、人間一条を払い退け、混じり物のない純粋な喜びの種を蒔くことが出来るのです。

いさみ
いさみ

気を引き締めて・・・
なんか、窮屈で息が詰まりそうね・・・。

寿限無
寿限無

息が詰まりそう?
守護を喜ぶことが?

いずむ
いずむ

普段、ボクに悪態をついている姿を見たら、喜び続けるなんて至難の業だろうね・・・。

 

 

コメント

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