X(旧ツイッター)で天理教関連の方々をフォローしている筆者のタイムラインを眺めていると、天理教に関する様々な疑問が湧いてきます。
その疑問を投稿にまとめたのが『天理教の疑問』シリーズ。
今回は『天理教から離れると見せられる』という疑問。
天理教信者が、信仰が嫌になり教会(天理教)を離れようとすると『見せられる』と言われるケースがあるらしい。
一体、何を見せられるのか?
天理教を離れるとは、教会から足が遠のいたり、天理教の信仰自体を辞める事を意味します。
天理教から離れた結果、自身や家族に病気や災いを見せられる。
要するに、『天理教を辞めたら不幸が起こる』と仄めかしている訳です。
控えめに言って脅しです。
こんな話を聞いたら大抵の方は『天理教はなんて恐ろしい宗教なんだ!』と眉をひそめますよね?
私、天理教を辞めようと思います。
天理教を辞める!?
馬鹿な!!
そんな事をしたら病気や災いを見せられるぞ!!
ええッ!?
マジっすか!!!
呆れた奴め!!
そもそも病気を見せられ、手引きされたから、天理教に入信したのだろ?
天理教を辞めたとて、また病気を見せられて手引きされるに決まっておる!
ちゃんと『天理教教典』を読んでないのか?
そんな不勉強だから天理教を辞めるなどと戯言をぬかすのだ!
『天理教教典』を読まれた方ならご存じだと思いますが、天理教信者に向けた教本『天理教教典』には、『天理教を離れたら見せられる』の根拠になる教理が明記されているのです。
第六章 てびき
親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。
なにゝてもやまいいたみハさらになし 神のせきこみてびきなるそや
(おふでさき二号7)せかいぢうとこがあしきやいたみしよ 神のみちをせてびきしらすに
(おふでさき二号22)
天理教の黎明期。
病を見せられたのを契機として、教祖(おやさま)の元へ手引きされ、不思議な守護をお見せ頂いた結果、信仰をはじめた方がほとんど。
医者に『処置なし』と見放された難病を患う人達が、藁をも縋る思いで聞きたくも無い神様の話に耳を傾けたのが始まりで、好き好んで信仰する人は稀なのです。
この様に『天理教を離れたら見せられる』と口にする方々は、天理教教典の知識と、信仰から得た経験を元に発言しいる訳ですから、脅しのつもりや悪意はなく、寧ろ信仰上の善意で忠告したのかも知れません。
『天理教教典、第六章 てびき』の要旨が、頑是ない人間を救けるために『神様の元へ手引き』して、難儀不自由無い陽気ぐらしへと導くこと…であるなら、その逆パターンである『神様の元から離れる』行為は、人間心を土台にした難儀不自由の元鞘に収まることを意味します。
この理屈から『天理教を離れると見せられる』と言う思考が成立する訳です。
一般的感覚から聞いたら『脅し』としか思えないセリフですが、その意味するところは、言う側も、言われる側も、殆どの天理教信者の深層心理に根付いている観念ではないでしょうか?
天理教のお陰で病気を助けられた。という信仰があれば、天理教を離れたら病気になる。という思考は、誰の脳裏にも過る強迫観念だと思います。
筆者自身も信仰初期の頃は、同様の思考に捕らわれた時期がありましたが、明らかに心得違いの信仰ですよね。
神様の御守護を有難いと感謝しながら信仰しているのに、その内面では身上事情を見せる神様に恐怖を感じている訳だから、矛盾以外の何ものでもありません。
こんな心根を抱えたまま陽気ぐらしが実現できる道理はありません。
この強迫観念が行き過ぎると、信仰自体が苦行の様相を呈し、献金による貧困、教義の押し付けによる家庭崩壊、近隣やコミュニティとの断絶、など様々な問題を引き起こします。
本部や理の親の言う通りにしないと病気になるのよ。
夫や子供が病気になるのは天理教を信仰しないからだわ。
私がしっかり天理教へ導かないと!!
お供えを沢山しないと悪因縁が抹消できない。
戸別訪問、路傍講演、神名流し、にをいがけで世間一般を改心させることが世界たすけ。私が世界を助けないと!!
匿名で投稿できるX(旧ツイッター)の性質上、天理教を攻撃する目的で事実無根の情報(悪意)を流している可能性も否定できませんが、『天理教を離れたら見せられる』の言葉には、必ずしも嘘とは断言できない、天理教特有の信憑性を感じさせるのです。
でも、この強迫観念は、教理の誤読による心得違いに他ありません。
または、自身で教理を研究せずに、教会長や先輩信者の言い分を鵜呑みにした結果かも知れません。
『身上事情にしるしを見せるのは神の手引き』と教えていますが、あくまで『親神様』へ手引きしているのであって、『天理教』へ手引きしている訳ではありません。
『親神様』へ手引き 〇
『天理教』へ手引き ✖
この違いを明確にしない限り、今後も信仰するが故の悩み苦しみが消えることは無いと断言します。
『神の手引き』を『天理教入信以前と入信以降』に区分けすると、様々な葛藤に悩まされることになり兼ねません。
『天理教入信以前』:身上事情のある難儀不自由
『天理教入信以降』:身上事情のない陽気ぐらし
しかし、現実には入信後も身上事情は無くならず、陽気ぐらしの実感も乏しい。
真面目に天理教を信仰しているのに、どうして私ばかり身上事情を見せられる?
世間一般の人達の方が自由気儘に楽しんでいるじゃない!
神様は私にどうしろと言うの??
お供えを沢山しても生活は良くならない。
戸別訪問、路傍講演、神名流し、にをいがけで徳積みが出来ると言うけど、徳積みだけの人生なんて…
信仰者自信が陽気ぐらし出来ないのに、『陽気ぐらしの天理教』の旗を掲げて布教するのは矛盾以外何ものでもありません。
そんな状態でいくら真剣に布教したとしても、真剣であればあるほど矛盾通りの姿が世間へ映るので、布教師には奇異な眼差しが注がれる負の循環。
『第六章 てびき』に記述されている様に、親神様の教える『神の手引き』とは『陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。』であるなら、天理教に入信した以降も『人間思案の心得違いを改め』が出来なければ、何度でも何度でも『しるし』を見せられるのだから、『天理教入信以前と入信以降』の区分けは殆ど意味はありません。
つまり、天理教から離れなくても『見せられる』時は『見せられる』。
天理教を離れたから見せられる。
こんな道理は御教理の何処を探しても見当たりません。
第一、肝心なのは場所ではなく心。
天理教という場所ではなく、親神様が伝える『陽気ぐらしの思召』を聞き分ける心が教えの焦点なのです。
人間の陽気ぐらしを願う神様の教えを聞いているのに、強迫観念に苛まされる矛盾。
これこそ、聞き分けが出来ていない証拠。
天理教に入信すれば『陽気ぐらしへ至る道筋』を知る機会を得ますが、教理を知っているだけでは絵に描いた餅。
入信しただけで陽気ぐらしが実現するなら、『にをいがけ』を布教スタイルに置く天理教の理屈で言えば、とっくの昔に世界中へ陽気ぐらしが伝播しているはず。
『天理教入信以前と入信以降』の区分けではなく、『御教理の無理解と理解』に分けるのが本筋なのです。
『陽気ぐらしの思召』を伝えることを、『理の仕込み』と言います。
神様が身上事情を台にして、『かしものかりもの』『心自由』『心通りの守護』の理を仕込むのです。
『見せられる』を御教理に基づき簡潔に纏めると…
人間が、心自由 の選択から運んだ心を、神様が受け取り、かしものかりもの へ 心通りの守護 を現した結果
つまり、身上事情(病気や事情のもつれ)に限らず、健康や無事無難、好都合、当たり前の日常も、見るもの聞くもの触れるもの全ては、人間が『心自由』の選択から運んだ心を、神様が受け取り『かしものかりもの』へ『心通りの守護』を現した結果なのです。
『天理教を離れたから見せられる』の強迫観念は、御教理の理解不足から『心通りの守護』を『罰や重荷を与える仕組み』と誤解した故の悲劇。
病気を患う → 病気を心通りに見せられる
家族が不幸になる → 家族の不幸を心通りに見せられる
御教理をしっかり理解すれば、『心通りの守護』とは全ての運命を喜びへ転じる為の有難い教えなのです。
病気を患う → 心通りに病気が治まる
家族が不幸になる → 心通りに家族が幸せになる
もちろん、当たり前の日常でも理は同じです。
水を飲む → 心通りに水が飲める
家事・仕事・勉強・遊びができる → 心通りに何でも出来る
天理教を離れる?
天理教を続ける?
これは人それぞれの選択です。
神様は何故、人間に心の自由を与えたのでしょうか?
人間が自らの心を使い、自由な選択により陽気ぐらしを実現して欲しいからです。
その為に『心自由』は絶対に欠かせない要中の要。
酷い犯罪や心遣いが平然としてまかり通る世の中ですが、これも神様がそれぞれの『心自由』を厳守している故。
殺人ですら『心通りの守護』を頂けるのです。
神様が与えた『心自由』を神様自身が阻害したり、心を縛る事は理として絶対にありません。
もし神様が『神の思惑する心だけを使いなさい』と指図したら、その瞬間から心の自由は消滅するのです。
特定の心使いを命じられた、それは神様の操り人形であり、操り人間に喜びの感情など芽生える道理がありません。
神様の目的は『人間の陽気ぐらし(遊山)を見て共に楽しむこと』。
神様にも制御できない『心自由』を持つ他者(子)だからこそ、神様も思いがけない楽しみに巡り合えるのです。
どんな形を選択しても自由。
陽気ぐらしは人間が『心自由』から作り上げるもの。
故に、神様にも具体的な陽気ぐらしは形で示せません。
『天理教』という形も人間が欲し、選択した心通りの守護であり、その形を繁栄させるも衰退させるも人間の心次第。
また『天理教を離れる・続ける』の選択も自由の範疇であり、その結果も心次第。
でも実際に天理教を離れて身上事情を見せらたら、例え偶然でも『そら見たことか!天理教を離れたからだ!』って周りは言うだろうね。
周りだけじゃなく、言われた本人も『やっぱり!天理教を離れたから罰があたった!』って後悔してそう。
もし離れた本人も『天理教を離れたら見せられる』と本気で信じているなら、心穏やかに暮らせないですよね。
内心、天理教を離れた葛藤と戦いながら、常に『見せられる恐怖』を抱えているのだから、その心通りに精神や健康に害を及ぼしても不思議ではありません。
今まで全霊を傾けて信じていた対象を離れるのは人生の一大事ですからね。
ここで筆者の知人で天理教の長男に生まれたAさんの例を紹介します。
Aさんは天理教教会の長男として生まれ育ちましたが、天理教が好きではありませんでした。
教会を離れたい一心で猛勉強して学問に励んでいましたが、ある日の月次祭で巡業に来た先生の話を聞いて絶望したそうです。
天理教教会に長男として生まれた自身の因縁。
『やはり自分は天理教を継がなければならない運命なのか?』
でも彼は諦めませんでした。
貧乏故、塾にも行かせてもらえない中、彼は見事に東京大学法学部に合格したのです。
その知らせに上級の教会長(Aさんの祖父)は、Aさんの思いも知らずに『信仰のお陰だ!』と信者に吹聴して、陰で失笑を買ったそうですが(ある意味天理教のお陰ではありますが)、そのお陰で学費は上級の会長が出してくれたので、彼は晴れて教会を離れる望みが叶えられた訳です。
そして優秀な成績で大学を卒業した後に、某一流企業に就職し、順風満帆に人生を送っていました。しかし、Aさんは程なくして精神を病み、会社を長期間休むことになったのです。
もしかしたら、彼の状況を見た天理教関係者はこう囁いたかも知れません。
『そら見たことか!教会を離れたから見せられたんだ!』
本当にそうなのでしょうか?
天理教を離れたから神様が精神を病む身上を見せたのでしょうか?聡明な頭脳を持つAさんでも、天理教の呪縛から逃れられることは困難でした。
心の奥底では天理教を離れた葛藤と戦っていたのです。
その証拠に、精神の治癒の為、とある天理教の布教師の元に身を寄せました。やはり、彼の心は天理教と強く結び付き、離れられない因縁だったのでしょうか?
ところが驚いたことに、Aさんが選択した行動は『天理教との決別』でした。
程なくして布教所に見切りをつけた彼は、その後、なんとか職場に復帰できるまで回復したのです。
職場は彼の病を理解してサポートし続けてくれました。
『天理教を離れたら見せられる』と強迫する態度とは雲泥の差。
その後、彼は最愛の伴侶を見つけ、二人の子を授かり、その子らを成人になるまで育て上げ、今定年を迎えようとしています。そして定年後は実家である教会に帰り、年老いた母をサポートするそうです。
教会と言っても、殆ど信者のいない所謂、事情教会の部類ですが、彼が天理教を離れて社会で働いたお陰で、母の老後もしっかりと面倒が見られるのだから皮肉なものです。
何も言わず教会から送り出し、陰ながら見守って来た母親も勿論立派ですが…果たして、Aさんは何を見せられたのでしょうか?
Aさんが見せられたのは『心通りの守護』です。
神様は具体的に陽気ぐらしの形を決めていません。
決められないのです。
陽気ぐらしは神様ではなく人間自身が決めるものだから。
神様に自由の心を与えられたのだから、どんな形でも自由に選択して良いのです。
教会で暮らすのが喜びなら教会を選択すればいい。
天理教を離れることで喜びに成れるなら離れたらいい。
『心通りの守護』とは人間の選択を神様が全力で守護する理なのです。
もちろん、神様の最終的な目的は『神の思惑を聞き分けて陽気ぐらしすること』だから、神様の思惑を伝えられる環境へ引き寄せる働きは続くはずです。
しかし、それが天理教とは限りません。
天理教を尋ねれば、大昔に語られた神様の思惑を知ることは可能ですが、現在進行形の思惑は何処で聞けるのでしょうか?
銘々の悟りという人間思案が跋扈する天理教に引き寄せたところで、神様の思惑が十分に伝わり、その者を助けることが可能なのでしょうか?
神様は、そんな場所へ大切な我が子を引き寄せるでしょうか?
天理教を離れたら見せられる?
それを言う前に、先ずは、天理教が神様の思惑通りに『陽気ぐらし』を実現させるのが『理の順序』ではないでしょうか?
もし、天理教を離れようと考えている方が、『天理教を離れたら見せられる』と言われた場合、次の様に尋ねてみてください。
『天理教を離れると見せられる』と仰いますが?
それ以前に『天理教から信者が離れる事情』を見せられているのは 貴方自身 ですよね?
人が信仰を捨てるなんて余程の事態です。
そんな状況を招いた教会長を含む教会関係者の責任は問われないのですか?
教会長の職に就き、理の親と仰がれる天理教信仰者なら、自らが蒔いた種が『心通りの守護』を頂いたと自覚して、先ずは離れる人へ心から懴悔して、自分達の至らなさを御教理に照らすべきではないでしょうか?
そして、「この教会を離れたく無い!」と心から思わせる『陽気ぐらしが実現する教会』を目指すべきではないでしょうか?
以上、天理教の疑問でした。
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