徳ってなんだろう?
天理教の人はよく『徳積み』って言うけど、実際に徳を積むとどうなるの?
バカね。そんな事も知らないの?
徳を積めば、天理貴族のような上級信者の家系に生まれ、働かずお金が貰え、尚且つ下級信者から崇め奉られて、何不自由ない生活が送れるのよ。
なるほど!
だから信者が我先にと無料奉仕で上級に尽して徳積みするんだね。
そうそう。
徳を積めば来世で得するのよ。
みんな自分が得すると信じるから、無料奉仕や飲まず食わずでお供えするのよ!
来世で?
今世では積んだ徳が実を結ばないの?
はあ、アンタこれまでの人生で何を学んで来たの?
来世で何不自由なく幸せに暮せると思わせておけば、今世が貧しいままでも文句を言われないし、責任も追及されないでしょ?それに代々にわたり財産を吸い上げ、ただ働きさせられるってワケ!
そうよね?寿限無!
違います。
このような誤解が広まらないように、今回は『徳』について整理してみたいと思います。
徳ってナニ?
先ずはじめに、辞書で『徳』の意味を調べてみましょう。
ググれカス!
とく【徳】
- 精神の修養によってその身に得たすぐれた品性。人徳。「徳が高い」「徳を修める」
- めぐみ。恩恵。神仏などの加護。「徳をさずかる」「徳を施す」
- 得(とく)
- 富。財産。
- 生まれつき備わった能力・性質。天性。
1~5の項目を見ても、『徳』とは自分にとって『得』になるものばかりですね。
3番目はそのまま『得』ですから。
『徳』は天理教がはじまる遙か昔から広く使われている概念であり、天理教特有の教理ではありません。
三原典には殆ど登場せず、天理教独自の解釈もありません。
それじゃ、「徳積み」「徳がない」とか言ってる天理教人は、『教組の教え』と『徳』をミックスして説いているの?
そう言うことになりますね。
少なくとも月日が降した教えではないので、安易に用いるのは適切ではありません。
あら?
月日の社である教祖も『徳』を使った記録があるわよ。
天理教と徳
『稿本天理教教祖伝逸話篇』のエピソード63『目に見えん徳』ですね。
教祖が、ある時、山中こいそに、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな。」と、仰せになった。
こいそは、「形のある物は、失しのうたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます。」
と、お答え申し上げた。『稿本天理教教祖伝逸話篇』 63 目に見えん徳
この逸話は、肝心な教祖の回答がなく、こいそが質問に対して自身の考えを述べているに過ぎません。
正式な答えがない以上、一般的な徳の解釈を用いて質問された可能性もあるので、この逸話をもって『徳』を教理として用いるのは些か無理があると思います。
その他、飯降伊蔵(本席)に語った陰徳の話も有名ですね。
伊蔵さん、この道は陰徳を積みなされや。人の見ている目先でどのように働いても、勉強しても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言うていては、神様のお受け取りはありませんで。何でも人様に礼を受けるようなことでは、それでその徳が勘定済みになるのやで。
ここでは「陰徳をつみなされや」と陰で徳を積む重要性を説かれていますが、教祖は「徳を積む」を「仕事や勉強に励む」程度の意味で用いられています。
人前でばかり善行して、裏で怠けているなら善の心が身に付ているとは言えません。
誰も見てないところでも善行に励める人は、本性に善の心が身に付いた人。
要するに『陰徳を積む』とは『本性になるまで身に付ける』という意味。
身に付くことが『神様のお受け取り』。
そして身に付ける対象こそ『三原典に代表される月日の教え』。
それじゃ、
「徳積み」「徳がない」「陰徳」などは使わない方がいいの?
そうですね。
教理とごちゃ混ぜにして使うのは止めるべきです。
『徳』の概念は宗教に限らず一般的にも使われますが、その解釈の幅は大きいので、教理に混ぜて使うと月日が伝えたい真意が曇ってしまうのです。
徳積みって幸せへの貯金?
例えば、天理教婦人会のホームページに「幸せへの貯金(徳積み)」と題して徳積みに関するエピソードが掲載されていますが、三原点を勉強した人なら違和感を覚えるのではないでしょうか?
幸せへの貯金(徳積み)
「子どもに幸せになってもらいたいね」
そんな会話をしていた時、主人が「そういえば・・・」と、亡き母の話をしてくれました。
大学生の頃、母に連れられて、夜に駅へ掃き掃除に行った。お酒が入っているから行かないと何度も断ったけど仕方なく行ったことが何回かある。
「人に喜んでもらうことをすると、神様が喜んで下さるよ」と聞かされた・・・。
子どもが大学生になった今、思い返すと、僕の幸せを思ってくれていたのだろうと気付いた・・・と。
私達も母のように子どもと共に歩む姿勢で、あきらめることなく、目に見えない徳を積ませてあげようねと、夫婦で話しました。子供達の幸せのために・・・。
人のために良い行いをすると神様が喜び、徳を積める?
積んだ徳は将来の貯金となり、行く末は子供達を幸せにする・・・ってこと?
なんだか、まどろっこしいわね。
本当に貯金されているかなんて解らないし、自分で自由に引き出せない貯金なんてする価値ないわよ。
そうなのです。
天理教婦人会が発信する『徳積み』の考え方は、銀行へ貯金するイメージ。
たくさん徳積みをすれば「天の銀行」に徳と言う名の貯金が貯まり、将来、貯めた徳分を幸せに換金してくれる・・・と伝えたいのだと思います。
でも変なの。
将来の幸せのために、お金をたくさん貯め込むのは欲なんでしょ?
それじゃ、徳を貯めるのも欲だよね?
駅を掃除して社会の役に立つ面もあるけど、自分や我が子のため必要以上に幸せを求めるなら、それは欲と言えるわね。
善行するのにいちいち「徳積み」を意識するのって、なんか不純な感じがする。それならいっそ、社会に貢献できた喜びだけを感じた方が、心は晴れ晴れとして気持ちがいいよね。
そうなんです。
神様が人間を創造した目的が「人間(他者)の喜びを見て共に楽しむため」。
この元の理における閃きこそ全知全能の存在が導き出した喜びの究極。
よって、人間が成人するゴールも神様と同じ心、すなわち「他者の喜びを見て共に楽しむこと」。
今、身体を借りられ、自由の心から駅の掃き掃除を選択し、その心通りに守護をいただくことが有り難い喜びであり、その上、綺麗になった駅を行き交う人々の喜ぶ姿を楽しめるなら、それが一番神様の思いに叶うのです。天理教人的に言えば「神様がお喜びくださる」通り方なのです。
一見、無欲な行いに見えても、心の奥底では欲(必要以上の喜び)を求める矛盾。確かに徳を絡めるとワケが分らなくなるね。
徳も決して悪い考え方ではないですが、教祖の教えは更に一歩進んでいるのです。
徳の概念が教えへの理解を停滞させている懸念があるので、今後、徳は一切使わず、純粋に月日の教えに則した「理を組み立てる発想力」を身に付るべきだと思います。
理を組み立てる発想力とか、また小難しいことを!
具体的には?
徳より誠
そもそも『天の理』とは、徳を貯金する場所ではありません。
誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。
おかきさげに記されているように、誠の心は、直ぐに受取り直ぐに返す。これが天の理。
まどろっこしく天の貯金などと考える必要はなく、今この瞬間に誠の心に成れたら、神様は直ぐに受けとり直ぐに返す。
これが一つの理。
いつ返るか分からない「徳積み」より、効能が直ぐに現れる方が信じるに値すると思う。
逆に「徳積み」って「この百万円の壺を買えば幸せに成れます!」と同じで詐欺に聞こえるわね。
「今、不幸なのは徳が無いから、だから徳積みすればアナタも幸せになれる!」。確かによくある詐欺の手口に似てるね。
壺ならだまされた!金返せー!って文句が言えるけど、徳の場合「不幸が続くのは徳積みが足りないから!」と言われたら、文句はおろか、反論すらできないわよ。
徳積みは苦行?
下記サイトでは徳積みに思い悩む方の相談が紹介されています。
Q.徳と因縁以外は、来世まで持っていけない。
だから、人生とは徳積みだ。
嫌な事でも何でも徳積みと考えて通ってきた。
でも、徳積みだけの人生って・・・
結局、私の人生って何なのだろう。
「徳積み」について何でもいいから話をして欲しい。
それに対してサイト管理者の答えは・・・
A.積ませて頂いた徳は、受け取って下さる、働いて下さるといわれるが、これはどういう事か。
それは自分が困った時に、これまで尽くした徳を受け取り「こうのう」として返して下さるのである。自分が事情で苦しんだ時、おたすけで誰かを助けたいと思う時、自身がこれまでに積んだ徳を受け取って下さり、「こうのう」に代え働いて下さるのである。
徳は積むだけではない。必ず自分の将来を開いてくれるものになる
苦しむ徳積みってなんだろう?
もしかして壮絶な修行でもしてるのかな?
しかも、質問者は「こうのう」がないから悩んでいるのに、『苦しんだ時・・・「こうのう」に代え働いて下さるのである』ってオイッ!全然回答になってないじゃん!
それは天理教的な徳積み方法に問題があると思います。
天理時報やSNSでも「ひのきしんで徳積み、教会に伏せ込んで徳積み、神様にお供えして徳積み」などの「行動実践」での徳積みを推奨しています。
もちろん、そこには「守護に感謝する心」が前提になっていますが、相談者のように「こうのう」が現れてこそ「守護」を認識し「感謝する心」になれるのだから、徳積みする段階で「守護に感謝する心」を持つことはなかなか難しいく、しかも何時頂けるか分からない守護なら尚更です。
もしそこで「否、日々の守護を感じて徳積みすればいい」と考えるなら、それこそ大きな矛盾です。
なぜなら、日々の守護を感じて喜んだ瞬間に「誠の心」に成れているのだがら、天に貯金される間もなく「直ぐに受け取り直ぐに返す」理が発動し、今直ぐにでも喜びが実現するのです。
誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。
先の質問者さんも悩んでいる状況から察すれば、徳積みばかりに囚われて「日々の守護」を喜べていなかったのでしょう。
上記サイトでも引用されていた本席様の『おさしづ』には、『たんのう』した喜びの心を受取る、それが徳を積むと諭されています。
明治二十八年三月六日
檪枝の堀内与蔵小人三人の事に付願 一部抜粋・・・不自由の処たんのうするはたんのう。徳を積むという。受け取るという。
たんのうしたら誠。
誠なら『直ぐに受け取り直ぐに返す』ので、「幸せの貯金」とは別の意味で『徳積み』と言われています。
ここでの「徳を積み」も、教祖の陰徳と同様に、教理実践により「教えを身に付ける」ことを諭していると解釈する方が妥当です。
教えが身に付く・・・とは本性、つまり魂に身に付くこと。
魂に身に付けば、身に付いた性質は失われず、同じ魂の状態で来世を始めることが出来るのです。
魂に身に付いた分を「徳」、魂に身に付けることを「徳積み」、このように用いるなら問題ないですが、天理教的徳積み方法で「特別な徳(神のご加護的な)」が頂けることはありません。
優しい心で生き続ければ、魂に優しい心が身に付く(神様が受取る)。
意地悪な心で生き続ければ、魂に意地悪な心が身に付く(神様が受取る)。
天理教徒でなくても、特に徳積みを意識しなくても、誰でも生きて心を使う分は、その心の性質が魂に身に付いているのです。
ただ「不自由の処たんのう」は、神様の教えを知る者しか実践できません。
たんのうと言いながら我慢しているなら、我慢の性質が魂に身に付くばかりか、自身の心を苦しめるだけで逆効果。
誰でも、いきなり「大きな不自由」をたんのうする事は難しいですが、小さな処からたんのうの練習を繰り返し、その中で『直ぐに受け取り直ぐに返す』天の理が見え始めたら、神様の守護の仕組みも納得できるし、心は益々勇み出し、段々たんのうが心の癖となり、魂の性質として身に付いて行くのです。
優しい心の性質には、その心通りに優しい人が集まり、優しい恵みに与るは理の必然。
ひのきしん・においがけ・おたすけ等の行動実践による徳積みを意識するあまり、形を優先し過ぎて肝心な心を置き去りにするようなら本末転倒。
膨大な量のおさしづの中でも『徳』が登場する回数はごく僅かですが、その後、道の先人たちが『徳』を拡大解釈して神様の真意を取り違えたのかもしれません。
たんのうを我慢と取り違え、効能が頂けないのを『徳』のせいにして「徳積みが足りないからだ!もっと徳を積まねば!」という具合に、心の状態よりも、形や実績を重視した体制に変異した可能性も考えられます。
誠になるのは難しい?
徳と誠は明確に違います。
徳は「積む・貯める」など、ある程度の時間を要する行為の積み重ねなので、効能が現れるまで時間が必要とされていますが、誠は時間も行為も必要ありません。
誠に必要なのは心一つ。
心一つで今直ぐにでも誠になれる。
教えを理解した瞬間から『誠の心』になり、効能は直ぐに現れるのです。
でも、教えを理解するのは難しいんでしょう?
難しいく鍛錬する時間が必要なら、結局、徳積みと同じだよ。
先程も話した通り、日々の守護を喜ぶだけで十分『誠』なのです。
だけど、日々の守護を喜ぶのは、簡単と言えば簡単、難しいと言えば難しいし。
なぜ簡単かと言うと、見るもの聞くもの触れるもの全てが神様の守護。人間の周りには守護が溢れている故に、喜ぶのは簡単。
なぜ難しいかと言うと、見るもの聞くもの触れるものに、病、怪我、トラブルなどの不都合が混ざり込んでいる故に、喜ぶのが難しい。
当たり前よ!
不都合を喜べる人間がいないわけないじゃん!
でも教組は実際に、誰も通れないような難儀不自由の道中を喜び勇んで通りました。
あらゆる不都合を喜び、たんのうを実践し続けたのです。
その結果は皆さんご存じですね。
教組の周りには不思議が溢れ、たくさんの難渋が救われました。
その誠は国を超え、時代を超え、世界一列陽気ぐらしの地盤を固めたのです。
教組は徳積みをしたわけでありません。
ただ理解したのです。
誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。
神様の教えを徹底的に実践し、守護のあらましを完全に掌握し、誠を身に付けたのです。
かしもの・かりもの・心通りの守護を完全に理解し、心自由を実現したのです。
誰にも通れない難儀不自由な道中でも、たんのう一つで通れる誠の心。
誰から見ても、教組は不思議な人、不思議な心の持ち主。
不思議な心を実現したからこそ、教組の周りには不思議な守護が溢れていたのです。
これが『誠の力』。
教祖のように理解したら理は鮮やか。
『誠』に関しての詳細は、また次回の投稿を参照していただくとして、徳積みの話に戻りましょう。
まあ、要するに、
ぶっちゃけ、徳積みはクソってことでしょ?
ぶっちゃけ過ぎでは?
いえいえい、クソは言い過ぎです。
これまで説明したように、徳の用い方に問題があるだけです。
徳に関しては神様も明確に諭されていないし、一歩進んだ教理があるのですから、わざわざ徳を用いる必要はないのです。
まとめ
まとめると、
『天理教で徳積みしても得はしない』ってこと?
勿論、善行した分は優しい心が身に付き、決して無駄になることはありません。
心尽した分は心通りに、必ず何らかの形には成りますが、神殿の回廊ふきをしたから、神様にお供えしたから、上級教会へ伏せ込みしたからと言って、その行動自体に天理教徒が期待するような効能は有り得ません。
受取るのは本心だけ。
今、この瞬間に幸せになれる『誠』という概念を教えられたのだから、徳がある・徳がない、徳積み、天の貯金などに囚われる必要はありません。
元々、人間なら誰でも徳を持っているのです。
この世に徳のない人間など一人もいません。
だってそうでしょう?
全ての人間は皆、神と同じ魂から分かれた神の子。
神と同じ魂を持ち、理で守られ、神と同じ心へと成人する可能性を秘めていた徳の持ち主。
人間として生を受けた瞬間から、誰であろうと『最高の徳』を持っているのです!
・・・
徳を使わない方がいいと言いながら、自分は使っちゃうのね。
要するに、
徳積み、徳積みって言う天理教人はクソってこと。
だから、違うっちゅーの
と、いうわけで・・・
以上、徳ってナニ?『天理教で徳積みすると得をする?』でした。
おわり。
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