天理用語の解説 『たんのう』
『たんのう』とは?
『たんのう』とは教祖、本席様が身上事情*1のお伺いに対して諭された言葉です。
天理教を信仰している方なら必ず一度は聞いたり、言われたり、また諭したりした事があるのではないでしょうか?
お諭しの中でも特に多様される御教理の一つです。
なぜなら、救いを求める殆どの人が身上事情に関するお伺いなので、必然的に『たんのう』の出番が多くなるというわけです。
それでは、一体どんな意味で用いられる御教理なのでしょうか?
『教祖逸話編』に教祖による『たんのう』のお諭しが記されています。
山中忠七が入信五年目の時、毎日降り続く大雨により山が崩れ、田地が土砂に埋もれてしまう被害にあった。日頃から忠七の信心を嘲笑っていた村人達は「あのざまを見よ。阿呆な奴や。」と思い切り罵った。それを聞いた忠七は残念に思い、早速お屋敷に帰って教祖に伺うと・・・
「さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで。」
とお諭しくだされた。
本席様が御用された『おさしづ』の中にも沢山登場します。
明治三十年十月八日 南紀支教会長下村賢三郎母しま七十四才身上願
さあ/\尋ねる事情/\、身上一つ尋ねる事情、さあ/\何ぼうでもならん。ならんから尋ねるのやろ。尋ねるから前々諭したる。事情どうにもこうにもならん道から道運ぶ最中、年々だん/\年々送りたる中から分かりある。事情身上どうであると日々思う内々中に、これではなあと思う。よう聞き分けて、たんのうしてくれ。たんのう中、ならん中たんのうするは誠、誠は受け取る。ならんたんのうは出けやせん。なれど一つ、ならん一つの理は、多くの中見分けてたんのう。ならん中たんのうするは、前生さんげ/\と言う。ようこれ聞き分け。これだけ諭したら、自由の理は分かるやろ。
『ならん中たんのうするは誠』
人間心では通れない難儀不自由の中で『たんのう』するのは誠。
この様に身上事情のお伺いに対して『たんのう』を諭されていますが、お伺いの状況から察するに・・・
「神様は我慢を求めているの?」
「今、苦難に耐えて我慢すれば後々結構になるの?」
聞き方によっては『たんのう』=「我慢」に受け取れなくもありません。
いや、むしろ「我慢」として受け取っている人が殆どではないでしょうか?
『たんのう』と我慢は同義?
しかし、天理教のホームページでは以下のように説明されています。
「たんのう」の原義は、足りているということだとされています。つまり、満足したという心の状態です。
https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/oshie/tanno/
一般的に『たんのう』と聞けば、殆どの人が「堪能」を思い浮かべると思います。
【堪能】
1 十分に満足すること。「おいしい料理を堪能する」
2 気が済むこと。納得すること。
私達が「堪能」と言葉にすると同時に、心は喜びの感情で満たされています。
天理教ホームページの説明と同等の意味です。
しかし・・・です。
身上事情で苦しい時、果して「満足(喜び)」の心で通れるのでしょうか?
「満足」と言えば全く不足の無い心の状態です。
身体が痛く辛い時・・・
様々なトラブルを抱えて苦しい時・・・
果して「満足」を実感し、「結構、有り難い」と喜びの心で通れるのでしょうか?
先程、紹介した天理教ホームページには以下の説明が続いています。
苦しい状況の中でたんのうするとは、単に歯を食いしばって我慢したり、泣く泣く辛抱したりすることではありません。これで結構、ありがたいと前向きに受けとめ、心を励まして踏ん張ることです。
ここでは「我慢」ではない・・・と明言されていますが、「心を励まして踏ん張る」と言われると・・・
「空元気?」
「結局、歯を食いしばって我慢していない?」
そんなモヤモヤした気持ちが沸々と湧いてきませんか?
「我慢」なら、世の中で沢山の人がしています。
天理教を信仰し、わざわざ神様から教えて頂かなくても、沢山の人が様々な問題を抱えながら「我慢」して生きています。
これで結構、ありがたいと前向きに受けとめ・・・
これも一般的にプラス思考・ポジティブ思考として定着しています。
世間一般と同じことをするなら、天理教を信仰する価値は何処にあるのでしょうか?
これでは、神様に対して有難味を感じません。
我慢はいずれ爆発し、プラス思考・ポジティブ思考にも限界があります。
どんな言葉で励まし、どんな理屈を並べようと、心の許容範囲を超えてしまえば絶望の淵に落とされてしまうのです。
しかし、ここで『たんのう』と我慢は同義・・・
と決めつけるのは早計というもの。
先程、紹介した『おさしづ』に『たんのう』は「前生さんげ」と説明されています。
『たんのう』は前生さんげ
ならん中たんのうするは、前生さんげ/\と言う
天理教ホームページでも「前生さんげ」の箇所に関して詳しく説明しています。
「たんのうは前生いんねんのさんげ」とのお言葉にうかがえるように、成ってきた事柄を、成るべくして成ったものと受けとめ、その因ってくるところを思案し、芳しくない運命が切り換わるよう、理づくり、努力することを決意することです。
『前生いんねんのさんげ』
漢字で書くと「前生の因縁懺悔」になります。
このまま素直に読むと・・・
と言うことになります。
うーーーん・・・
『前生いんねんのさんげ』と言われると後ろ向きでネガティブな気持ちになりませんか?
過去を反省して悔い改める行為の中に、果して「満足(喜び)」の心が生まれるでしょうか?
過去を反省し悔い改める心の中には「後悔の念」が残り、今の自分を多少なりとも苦しめるので、スッキリ満足、スッキリ喜びの心には成り得ません。
これでは『たんのう』=「満足」の説明と整合性を取るのは難しくなります。
そもそもの話・・・
『前生いんねん』と言われても、前生のことは誰も覚えていませんよね?
今、現れた身上事情を「前生の因縁」と本気で思えなければ懺悔することもは出来ません。
口先だけの懺悔で良いなら問題ありませんが、口先だけの懺悔を誠として神様がお受け取りくださるとは思えません。
今、起きている出来事を、前生の因縁として結びつけることは至難の業ではないでしょうか?
それでも、なんとかして『前生いんねんのさんげ』を実践しなければ、通るに通れない苦しい状況は変わりません。
『たんのう』さえ可能なら「後々は結構なことやで」とお諭し頂いているのだから、ここは、なんとしてもでも『たんのう』を成し遂げたいもの・・・
しかし・・・
それにはやはり、前生の因縁と身上事情の因果関係がハッキリし、「自分が悪かった」と思わない限り、反省しようにも反省できません。
もはや、ここで行き詰まり?
いえ、ちょっと待ってください。
先程の『おざしづ』は以下の言葉で締めくくられています。
これだけ諭したら、自由の理は分かるやろ。
『自由の理』が分かれば『たんのう』できる
明治二十一年七月二十八日の『おさしづ』を参照すると・・・
人間かりもの思うようにならん/\というは、かりものの証拠。
身上で身体が思うようにならない・・・
事情で何もかも思うようにならない・・・
実は、思うようにならなくて当然なのです。
身上事情、この世の形あるもの全ては『かりもの』。
この身体、衣食住、地球、太陽、宇宙・・・
全ては神様からお借りしている『かりもの』なのです。
明治二十二年二月二十四日の『おさしづ』では・・・
人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。
たった一つの心より、どんな理も日々出る
『心一つが我がのもの』。
心だけは人間のもの。
つまり、心だけが自由に使える人間のもの。
一方、『かしもの』である身体、その他一切の形は、人間の思い通りにならない神様のもの。
でも、ここで一つ疑問が生じます。
人間の思い通りにならない『かしもの』ですが、私達は日常的に身体を思い通りに使用していますよね?
思い通りに御飯を食べ、思い通りに遊び、思い通りに出掛け、思うように行動していませんか?
実際、手を動かせば思い通りに動かせます。
人間が自由に動かせない『かりもの』でも、いったん借りたら後は人間の自由に使えるのでしょうか?
いえいえ、『かりもの』は絶対に侵せない神様の領分。
人間に『かりもの』を自由にできる理はありません。
心臓の鼓動一つ、指先一つ動かすことはできません。
これは絶対に曲げられない永遠不変の原則です。
それでは何故、人間の思い通りに身体が動いているように見えるのか?
『たった一つの心より、どんな理も日々出る』
人間が一つ心を使えば『理の種』になります。
『理の種』は神の田地に蒔かれ『心通りの守護』を頂き『理の実』になります。
平たく言えば、
人間の心通りに神様が形を動かしている。
要するに『心通りの守護』のお陰で『心』と『かりもの』が一つに繋がり、人間は思い思いに生命活動を営めるのです。
- かりもの
- 心通りの守護
- 心自由
そして、この三つが揃って『自由の理』が発揮されるのです。
この図式通りに「喜びの循環」が起きれば、もはや心を妨げる障害は何も発生せず、本当の「心自由」を実感できる・・・
これが『自由の理』。
反対に、
この図式通りに「不足の循環」が起きれば、やることなすこと心の障害となり「難儀不自由」な状況に陥ってしまう・・・
『理(上図式の青文字)』は変わりないのに、人間の心が変わるだけで、世界の様相は一変してしまうのです。
これが人間心に支配された世界の現状。
人間は『心自由』でありながら、「心不自由」に甘んじて生きて来たのです。
目の前の前生因縁に捕らわれて・・・
不足不安の心、我が身思案の心、喜べない心から逃れられず・・・
先程、『前生いんねん』の因果関係が分からないと言いましたが、私達は神様を知らず「不自由の心」で過去を生きて来たのだから、どんな因縁が現れてもおかしくないのです。
もし仮に『前生いんねん』が明らかにされたら?
もし、虐待、強姦、強盗、殺人・・・目を背けたくなるような過去を生きて来たとしたら?
今生をスッキリ満足、スッキリ喜びで暮らせるでしょうか?
『前生いんねん』の因果関係がハッキリしないのは「神様のお慈悲」なのです。
もっと言えば『前生いんねん』など知る必要は無いのです。
問題はそこではありません。
ならん中たんのうするは、前生さんげ/\と言う
『前生さんげ』
これは、つまり・・・
『理の精算』を意味しているのです。
『前生さんげ』は『理の精算』
『心通りの守護』とは言わばレストランみたいなもの。
『心』で『守護』を注文しているのです。
自分から「喜べない心・不足の心」を注文しておいて、注文通りに守護いただいた料理に対して、感謝して喜ぶどころかクレームをつけている・・・
まるでタチの悪いクレーマー・・・
いや、道理の分からない幼子ですね。
要するに、
『前生さんげ』とは注文に対して精算が完了していないのです。
『心通りの守護』という理の法則に従い注文したのだから・・・
- 注文通りと認め
- 感謝して喜ぶ
これで理が精算され、一つの注文が完結するのです。
人間の喜びを見るために定めた『心通りの守護』。
ならば支払いに必要なのは当然『人間の喜び』なのです。
だから『前生いんね』を理解し、身上事情を喜ぶことで前生の注文は完結し、『前生さんげ(理の精算)』が完了するのです。
しかし、これで終わりではありません。
『たんのう』とは満足の心
理の精算が済んだと言うことは『たんのう』したと言うこと。
『たんのう』したと言うことは守護に満足したと言うこと。
そして、新たに喜びの心を使い、神の田地に『理の種』を蒔いたと言うこと。
つまり・・・
『喜び』を追加注文したのです。
さあ、神様も大忙し。
厨房では、次から次へと注文される『喜び』に、神様も嬉しい悲鳴を上げていることでしょう!
まとめ
どうですか?
ここまで聞いたら、『たんのう』と我慢が同義なんて、馬鹿馬鹿しい戯れ言だと思いませんか?
身上事情に理不尽な気持ちを感じるのは人情として分かりますが、理をわきまえず身上事情に不足する方がよほど理不尽ではないでしょうか?
今生でさえ沢山の不足不満、沢山の我が身思案、沢山の喜べない心を使っているのですから、前生など言わずもがな、どんな因縁が現れても当然なのです。
しかし、どんな因縁が現れても問題ありません。
もはや過去の因縁はどうでもいいのです。
『自由の理』を知った今。
大切なのは今、この瞬間、そしてこの先の未来。
大切なのは、しっかりと理の精算をし、『喜びの心』を注文し続けること。
そしてはじめて、教祖の諭しが実となるのです。
たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで。
これが『たんのう』の真実。
これで『たんのう』の解説を終わります。
身上とは身の上に起こる問題、主に病気、怪我。
事情とは外的要因による問題、夫婦・親子・人間関係の縺れ、仕事上のトラブル、災害など。
コメント
苦しい状況の中でたんのうするとは、単に歯を食いしばって我慢したり、泣く泣く辛抱しんぼうしたりすることではありません。これで結構、ありがたいと前向きに受けとめ、心を励まして踏ん張ることです。
嘘の解説です。
まず、ありがたいと思えないものをありがたいと前向きに受け止めるのは、嘘です。
苦しい状況の中で、苦しいからありがたいというのは、換気のできない部屋にいて、風が来ないのに、ありがたいと言ったらウソです。発熱していて、苦しい状態で、熱が上がったら、ありがたいといえばウソです。熱が下がったら「堪能」です。
つまり「堪能しなさい」は、御守護いただきなさいの意味です。だって親神様です。
熱はすぐ下がります。
今日も、「風邪をひきかかった」と電話があって、「風邪は、かぜ、」言葉の聞き取り違いを直したら」と、お客さんの言葉の聞き違えを訂正したら、なおしたら、「あ、治りました」。堪能です。
『たんのう』したと言うことは、絶好調ということです。
【堪能】 1 十分に満足すること。「おいしい料理を堪能する」
2 気が済むこと。納得すること。
神さまがおいしい料理を出したのに、食べ方知らない。変な調味料使うから不味い。
神さまには苦しめるなんて、絶対ない。人間が自分で苦しむのです。アハハ、です。
病を前向きにありがたいと思うことは難しいと思います。
人間思案には限界がありますから。
でも理を聞き分けると有難いの意味が分かると思います。
すい臓がんで、末期の症状で、義理の妹が、水が溜まって苦しんでいる、助けてくれないかというので、本人が坂井に助けてと頼むなら、お助けしますと、申し上げた。
病人さん本人が、助けてくださいというので、「信者にならない」「お礼をしない」の条件で、みき姐さんにお願いした。
その時、こんな例を申し上げた。
今年、100歳になった女性が、数年前にガンで手術して、あと、水が溜まって同じように苦しまれたので、医者が手術するというので、退院させて、お断り、神仏にお願いしましょうと神さまにお願いしました。、
どうやって水を出すのか、神さまの芸を見ていたら、おへそから、湿り気がでて、きれいに治りました。
水さえ出ればよいと、お願いしますね。と。
当然だが、その女性の体内の水は、下腹部に移動して、痛みは消えた。
おいしい神さまのお手並みを、いつもお見せいただいて、私の気もすむ。
【堪能】 1 十分に満足すること。「おいしい料理を堪能する」
2 気が済むこと。納得すること。
よかったですね。