「3つの理」最後の理が「心自由」?
そもそも人間の心って自由じゃない?
そうだよね。
特別、神様が教えなくても、みんな心自由に生きているけど?
えっ?
本当に心自由に生きていると思いますか?
心自由とは?
突然ですが質問です。
Q.皆さんは、自分の心は自由だと思いますか?
そうね。自由だと思うわ。
だって自分の思い通りに心は使えるもの。
いさみさんは、自由過ぎると思う・・・。
ボクも自分の心は自由だと思うね。
ご回答ありがとうございます。
そうですか。
お二人は「自分の心は自由」と思っているようですね。
おそらく大抵の人も、自分の心は自由だと考えているのではないでしょうか?。
それでは、次の質問です。
Q.皆さんは、病気を患ったら喜べますか?
急に悪寒と発熱の症状が現れたら?
激しい腹痛と吐き気がしたら?
人間ドックで癌と診断されたら?
あなたは、いつものように喜んで暮らせますか?
病気になって喜べるかって?
喜べるわけないでしょう!痛いし、苦しいし・・・もしかしたら死ぬかも知れないし・・・心配で不安で、喜びなんて感じている暇はないわよ!
そもそも、病気になったら、いつものような生活が送れないよ。学校や会社にも行けないし、友達とも遊べない、ゲームもできない・・・。
そうですよね。
それが当然だし、当たり前の感覚です。
それでは、最後の質問です。
Q.病気の時、心が自由に使えていると思いますか?
うーん。
痛くて、苦しくて、心配で不安で・・・ネガティブなことばかり考えてしまうわね。
病気のことばかり気になって、他のことに気が回らないから、病気が治まるまでは、心が自由に使えているとは言えないね。
お二人の回答をまとめると・・・
A.病気の時は、心が自由に使えない。
つまり、最初にお伺いした質問では「自分の心は自由」と答えていましたが、病気の時は心が自由に使えない・・・。
お二人の答えた「心は自由」とは、極めて限定的な「自由」ということになります。
自由に使える時もあれば、自由に使えない時もある・・・
でも、これって・・・
そもそも「自分の心は・・・不自由」なのでは?
もし本当に自由というなら、病気の時でも、いつものように喜んで暮らせるのではないでしょうか?
まあ、そうだけど・・・
だけど、病気の時に喜んで暮らす・・・って、イメージが湧かないわ!マゾなの?
心って状況に左右されるよね。そう考えると「心が自由」というより、主体性があるような、ないような、一定の形に固定されないスライムみたいな状態だね。
そうなのです。
そもそも、人間は形を見て心を生み出すので、形に左右されるのは当然ですよね。
病気のような非日常を例題にすると、心不自由な状態を捉えやすいですが・・・
実は、殆どの人が、日常的に形に左右されながら「不自由の心」で生活しているのです。
- 悪口を言われる ⇒ 悪口を言い返す
- お金がない ⇒ 心まで貧しくなる
- 体が病気になる ⇒ 心も病気になる
つまり、殆どの人が使っているのは・・・
形通りの心
なのです。
なによそれ!
心自由の人間は存在しないの?!わたし達は、常に形に左右されて主体性なき形通りの人生を歩むしかないの?
形に左右される・・・
つまり、運命に翻弄されながら、運命通りの人生を歩む定め・・・という訳?
いえいえ。
心自由の人間は存在します。
そして運命を掌握し、自ら新しい運命を作り替えた人間も存在するのです。
それが、教祖(おやさま)こと中山みき様。
せや!
教祖は、どんな中も喜び勇んで通られました。
貧のどん底も、病も、迫害弾圧であろうと、形に左右されずに、心自由に「喜びを選択」し続けたのです。
それが「ひながたの道」ですね。
なぜ、教祖は心自由に生きることが出来たのでしょうか?
世の中の人、全てが「形通りの心」で不自由に甘んじて生きている中・・・
教祖は月日親神様の教えから悟ったのです。
この世は
形通りの心が作られるのではなく、心通りの形が作られる「心通りの守護」の世界!・・・だから、心はいつでも自由!!!
教祖もまた形を見て心を作りますが、ただ「形」の表面を見るのではなく、「形」の奥にある「心通りの守護」という真実を掴んだのです!
こうして教祖は、
自らの心に「完全なる自由」を確立し、陽気づくめの人生を歩まれたのです!
でも・・・
なぜ「心通りの守護」だと、心はいつでも自由なの?なぜ、どんな中でも喜び勇んで通れるの?
解り易く説明すると、
「心通りの守護」は、レストランと似ています。
え?レストラン?
イタリアン?フレンチ?それともガスト?
レストランは比喩だよ。
多分・・・
人間は「心通りの守護」を注文している
レストランでは以下の工程で「1つの注文」が完了しますが・・・
■レストラン
- お客が注文
- コックが料理を作る
- 料理に満足
- 代金を支払う
- 注文完了
「心通りの守護」も実は、この工程と同じなのです。
■心通りの守護
- 心を使う(注文)
- 神様が注文通りに守護を拵える
- 守護に満足
- 代金を支払う
- 心通りの守護が完結
わたし達人間が見るもの、聞くもの、触れるもの・・・
全ては「心通りの守護」。
つまり、どんな形(病気・トラブル等)も「心通りの守護」の結果、人間の「注文通り」に守護いただいた「注文通りの品」・・・なのです。
「注文通りの品」なら、満足して代金を支払えう必要があります。
神様が「心通りの守護」を与える目的は「人間の喜びが見たいから」ですね。
ならば・・・
と言えば、「注文完了」。またのご来店を!
このように神様と人間の関係は円満に続くのですが・・・
中には
「注文と違う!こんな品は注文した覚えは無い!」とクレームを言うお客もいます。
病気・トラブル等、自分にとって都合が悪い品が出された時、殆どの人は神様にクレームを言います。
クレームが入ったら神様も直ぐに対応しなければなりません。
クレームも「心」なので、人間が心を使った時点で「追加注文発生」です。
まだ1つの注文が完了していないのに、重ねて「不足の心」を追加注文しているので、1つの目の注文(病気・トラブル等)が治まるどころか、更に状態が悪化する方向へ進んでしまうのです。
でも、誰も好き好んで病気やトラブルを注文しないわよ!「注文」と「注文の品」が一致しないのは何故?
「注文」と「注文の品」の因果関係が分かりにくいのが原因だよね。
そうです。
因果関係が問題ですね。
例えば・・
これなら、「心通り」と簡単に認識できますね?
でもわたし達は殆どの場合、「無意識」に心を使っているのです。
そして病気やトラブルの元になる「不足・不安」等の「喜べない心」が積もり重なって、心通りの注文が完成するわけです。
どうして積もり重なるまで「形」に現れないの?無意識でも「不足・不安の心」を使う度、直ぐに「病気やトラブル」が現れたら判断しやすいのに・・・。
それが創造の仕組みだからです。
例えば、「サッカーが上達したい!」と思ったとします・・・
いくら「心通りの守護」と言っても、直ぐにサッカーが上達することはありません。
しかし、毎日諦めず練習・研究している間に「心」が大きく育てば、その心通りに「サッカーが上達」する訳です。
このように「注文」から「上達」まで、どうしても「タイムラグ」が発生します。
それと同じ原理で、
「不足・不安の心」が大きく育たない限り、心通りに「病気・トラブル」が守護されることはありません。
それじゃ、少しくらい不足・不安してもOK!ってこと?よかった、よかった!
そうですが・・・
少しくらいと油断していると、その心が癖として定着してしまい、結局、陰気な心のまま注文を繰り返すことになります。
もう!
やっぱり、こんな「タイムラグ」必要ないわよ!
「注文」から「注文の品」が現れるまでの「タイムラグ」は、神様が与えてくれた「猶予」だと考えてください。
誰でもつい、喜べない心を使ってしまう時がありますよね?
でも、この「猶予」があれば、心を作り替え「今の注文はキャンセル!」して、新たな「喜びの注文」をすることが出来るのです。
成る程。
神様が決めた世界って、理路整然としているんだね。
その通りですね。
だから漠然と心を使うなんて、もったいないのです。
本日のまとめ
「かしものかりもの」「心通りの守護」「心自由」
この「3つの理」を心から離さなければ、いつでも心は自由です!
教祖のように
いつでも「喜びを選択」して使い続けることができます。
これであなたも楽々と「ひながたの道」を辿れますね?
せや、せや!
心自由を会得するコツ
心を意識的に使うこと。
人間は心を使う度に「心通りの守護」を注文している意識を高めること。
何か行動を起こす時は、「注文入りまーす!」と小声で呟きましょう!
心の中で「注文入りまーす!」と呟くのはNG!。
なぜなら、心の中は自分が思う以上に定まっていないのです。
心が形に現れてはじめて「心を使った」ことになり、自身も「形になった心」を見て心が定まり、定着して行くのです。
でも「注文入りまーす!」と言って、「不足・不安」の心を使っては意味がありません。
そもそも、何のために「注文」したのでしょう?
「喜びの品(守護)」が欲しいから注文するのです。
その為には行動している間、「喜びの心」を貫き通す必要がありますよね?
「喜びの心」を貫き通すために「注文入りまーす!」と呟き、自身に自覚させ「喜びの心」を自由に選択して使えるように意識を高めるのです。
なんか、馬鹿馬鹿しい・・・と思うかもしれませんが、このような小さな練習を続けることで、少しずつ「心自由」を会得してできるのです。
それでは、みなさん!
「3つの理」で陽気ぐらしを実践しましょう!
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