天理教の疑問 – 理立て(お金)で徳が買えるの?

理立て お金で徳が買えるの? 天理教の疑問

本日の投稿は、天理教で頻繁に耳にする『理立て』についての疑問。

ある方のX(旧twitter)によると、
家のリフォームを考えている方(Aさん)が、車を駐車場にぶつけたり、渋滞に巻き込まれ時間に遅れるなどの不都合が続いた原因を『家のリフォーム』と考えており、リフォームを辞めるべきか悩んでいる。
しかも、その不安を周囲に巻き散らすので迷惑している。
とのポスト。

Aさんが感じている不安は、一般の人には意味不明だと思います。
駐車場に車をぶつけるのは不注意が原因だし、Aさんのリフォームが原因で特定の場所が渋滞するなんて、普通に考えたら有り得ません。
Aさんは魔女ですか?
まあ、雨男、雨女と似た発想ですかね。

ポスト主は『家のリフォームが原因だと思わない』と結論づけ、私も馬鹿バカしい不安だと感じたのでポスト主へ返信しました。

私もそう思わない
信仰者あるあるの発想ですよね
信仰のせいで余計な不安に陥る
「案じれば案じの理が回る」ので、せっかくのリフォーム、楽しんで運べるように是非安心させてください!

天理教の信仰者は『都合良い事は神様のご守護』『都合悪い事は自分の悪因縁』と思案する傾向があり、自身の不徳を埋めるために『理立て』と称して金銭のお供えが発生するらしい。

私の返信の後に、別の天理教関係者(S教会長)が返信をしていました。
ポスト主が元投稿を消されたので正確な文言ではありませんが、『Xで適当なことを言う人を信じてはいけません。理の親である会長様にお伺いするのを勧めます。』と軽く私への当てつけを含めた『天理教らしい定型文』を返信していました。

S教会長はポスト主とのやり取りの中で『理立て』について次のように説明していました。

家や車を購入する時に、徳分以上を得るとマイナスに働くから理立てをします。

ちょっと何言ってるかわからない

ちょっと何言っているか分かりませんよね?
ざっと説明すると、『家や車を買う徳が不足しているのに、無理して徳分以上の買い物をすると運命がマイナスに働き災いが起こるから、足りない徳分を補うために理立て(金銭のお供え)をする。

自分で説明していても何言ってるか分からないし、逆に数々の疑問が噴出します。

理立ての疑問:
①徳分を誰がどうやって判定するのか?
②現時点で家や車を購入できるなら、それ相応の徳があるのでは?
③徳をお金で補えるのか?
③お金はちゃんと神様へ届いているのか?

『神様にお供えして徳を積むことで運命がプラスに働く』と言えば聞こえは良いですが、要は『助かりたければお金を払え』と間接的に言われている訳です。
信じている教会長に、こんな事を言われ続けたら、家を建てたり、リフォームなどの大きい買い物をる際に、誰でも不安が頭を過ると思います。
いやらしい見方をすれば『信者に不安を植え付けて金銭を騙し取る構図』に見えなくもありません。

しかし、事はそう単純なものではなく、一般的にも家を建てると家族に不幸が起こる『普請祟り』の俗説があります。

知り合いの不動産屋も『普請祟りって本当にあるんだよね』としみじみ語っていましたが、実際に家を建てると家族に不幸が起こるケースは少なくないそうです。
怖いですよね?
こんな話聞いたら大金をお供えしたくなりますよね?

いえいえ、私はそう思わないので続けて返信しました。

リフォームは大きな買い物なので少なからず不安が伴いますよね
不安はストレスに繋がり精神や体調を乱すので、おやさまの言われた通りに神に凭れ、安心してリフォームを楽しまれた方が理に適っていると思いました

新築やリフォームなどの大きな買い物は想像以上のストレスが予想されます。
長期ローンなど金銭面の不安は勿論のこと、工事面の不安、施工会社や作業員に対する不安、手抜き工事、悪徳業者…
とめどもなく不安に襲われる場合もあります。
それ以外にも、壁紙、照明、インテリア等を選別したり、ガス、水道、電気、インターネット回線等の契約手続きや、引っ越しの準備といった様々な雑事が頻繁に発生します。

若いころ、水道検診のアルバイトで、完成間もない新築を検診したことがありました。
『素敵な新築でさぞ住人も喜んでいるだろう』
私の予想とは裏腹に、家から出て来たご婦人は不機嫌な表情を隠そうともせず、赤の他人である検診員の私に不満をぶちまけました。
話を聞くと、家を建てたお陰で相当なストレスが溜まり、理性を失うほど憔悴している様子でした。
特に祟りや災いが起きたわけではないのに、諸々の雑事が自身のキャパを超えてしまい、せっかくの新築を喜べない可哀そうな状況。
私の知り合いも改築する時に、作業現場の些細な点を気にして、業者に問い合わせたりクレームを入れたりして、毎日イライラしてストレスを貯めていました。

これらの経験から、普請祟りの一因は、このストレスにあるのでは?と思うようになり、教祖の教えを聞いて確信を深めました。

ストレスが心身に悪影響を及ぼすことは医学的にも認められています。
不安で睡眠不足になり、注意散漫が原因で事故に繋がることもあると思います。
過度のストレスが体調不良を引き起こせば、最悪の場合、死に至るケースも考えられます。

教祖が『病の元は心から』と明かされた様に、天理教で病の原因と言えば『心』です。
『心通りの守護』と教えて頂いているのだから、身上事情を治める焦点も『心』。
しかも『誠なら直ぐに受け取り直ぐに返す』と、なによりも『誠』の大切さを強調しています。

誠とは、神様のさしづを真実として受け取る心。
『それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。』これが誠。
つまり、身上の障りを病気と捉えて人間の知恵(医者薬など)を頼るのではなく、身上の障りをかしものと心得て、神にもたれて安心を運ぶ心が誠なのです。
神にもたれた安心に定めるから、その心通りにかしものが安心の形に治まる。これが理の教え。

一方、理立ては誠を思案する必要もなく、お金を払えばOK!?
肝心な心の立替えが、お金で代用できるのでしょうか?
理立て(お金)で徳が買えるの?
心一つで治める有難い理を教えられているのに、理立ての発想がどこから出てきたのか理解に苦しみます。
それとも天理教で誠とは、お金を意味するのでしょうか?

と、疑問を呈してみましたが、実は理立てにも一理あると考えています。

お祓いの効果と一緒で、理立てで金銭を払うことで安心感を得る。
この安心感が心を安定させ、ストレスフリーな日常生活を送れるなら、理立てした価値はあると思います。
これは偽薬で症状が緩和されるプラシーボ効果(プラセボ効果)と同じで、例え偽りの安心感でも心の平穏を得ることはある程度証明されています。

でも、
これって、
お金で安心を買う保険と同じですよね?

保険は万が一の時に保証をして貰えますが、理立てに保証はありません。
病気や事故に加えて、お金は戻って来ないのだからダブルパンチの痛手です。
『理立てしたのに病気や事故に遭った!責任とれ!』とクレーム入れても、『小難で済んで良かったですね。神様の御守護です!』『それは不足です。あなたの心が治まっていないのが原因です。』など言われたら信仰者は反論できず、結局お金の払い損。
なんとも割り切れないモヤモヤした信仰が続いて行きます。

莫大な建設費が発生する上に、理立てで余計な出費が嵩めば家計の負担は増加するので、それを許容できる方はお金を支払うだけで手軽に安心感を得ることが可能です。
もっとも、それが信仰と考えているなら、教祖の教えを誤解していると言わざるを得ません。

理立てをする方は、神様を保険や医者薬と同じ感覚で捉えていると感じます。

お金で与えられる安心や、他の誰かから与えられる安心は、世の中にごまんとありますが、それで問題が解決するなら、旬刻限に神が表に現れる必要はなかった訳です。
神様が説き聞かしたのは、人間が陽気ぐらしする為に必要な詳細情報。

このたびはかみがおもてへあらわれて なにかいさいをときゝかす
かみがでゝなにかいさいをとくならバ せかい一れついさむなり
(よろづよ八首)

『病の元は心から』
教祖は、己の心一つを資本として、心通りに病を治める理の詳細を教えてくださいました。
畳に頭を擦り付けて神様に懇願したり、金銭の必要もなく、ただ心を誠へ立替えるだけで、神にもたれる安心に定まるのです。
この誠の安心感が種になり、誠は直ぐに受け取り直ぐに返す理の通りに、安心・安全な日々を送れるのだから、掴みどころのない『徳』よりも、今直ぐ運命を変えられる『誠』の方が、自分の『得』になると思いませんか?

神にもたれる安心感こそ、陽気ぐらしの土台です。

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