一下り目 寿的解説
『九ッ こゝまでついてこい』
全文
一下り目
- 一ッ
- 正月こゑのさづけは やれめづらしい
- 二ニ
- につこりさづけもろたら やれたのもしや
- 三ニ
- さんざいこゝろをさだめ
- 四ッ
- よのなか
- 五ッ
- りをふく
- 六ッ
- むしやうにでけまわす
- 七ッ
- なにかにつくりとるなら
- 八ッ
- やまとハほうねんや
- 九ッ
- こゝまでついてこい
- 十ドッ
- とりめがさだまりた
- (なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと)
九首
九ッ こゝまでついてこい
概要
『ここまでついてこい』
神様には、人間に着いてきて欲しい明確な目標がある。
『ここまで』とは?
神様が定めた明確な目標とは?
目標の先
本来『ここまで』とは限定された言葉です。
でも少し疑問に思いませんか?
もし、『ここまで』の目標に到達したら、もう神様に着いて行く必要はないのでしょうか?
神様の思惑通りの人間に成人した暁には、神様の手を離れて独り立ちできるのでしょうか?
つまり、『ここまで』の目標に到達したら、神様と人間の関係に変化が起こるのか?
結論を言えば、神様と人間は永遠不変の親子関係。
今まで通り、神様と人間の関係に変化は起こりません。
人間の親子関係で考えると、子は成人すると親元を離されて独り立ちします。
もちろん、親の扶養・住居から離れたとしても親は親。
親子関係は生涯変わりませんが、自分で稼ぎ、自分の住まいを持ち、親の庇護を離れて独立した家庭を作り上げます。
しかし人間は神様の庇護を離れ、独立することが理として不可能。
それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。心の理というは、日々という常という、日々常にどういう事情どういう理、幾重事情どんな理、どんな理でも日々に皆受け取る。
人間の本体は魂であり、心だけが自由に使える魂の属性。
心以外の体、衣食住、環境・・・全て神の属性。
- かしもの・かりもの
- 心自由
- 心通りの守護
以上、三つの理で構成された人間。
体(形)があり、見たり聞いたり触れたりできる対象(形)があるから、人間は喜怒哀楽を味わえるのであって、体(形)が無ければ、考えること、感じること、心を使うこと、つまり人間としての生命活動は何一つ行えません。
神様無しでは一秒たりとも存在を許されない人間。
もし、神様から独立したいと思うなら、先ずは神様と同じように万物を創造する能力を身に付ける必要があります。人体を構成する細胞一つ一つから、地球の自転や太陽との距離を調整、宇宙全体の管理に至るまで全ての形に責任を持つこと。
つまり、神様と同等の能力を身に付けない限り、人間が独り立ちすることは不可能です。
魂は束縛を嫌い自由を求める性質があるので、神様から独立不可能と聞けば「永遠の束縛」を感じるかもしれません。
神様が支配する形(かしもの・かりもの)に閉じ込められた不自由な魂。
病気を患い・老い・死滅する体に悲哀を感じる不自由な心。
鳥のように大空を羽ばたくことも、魚のように大海原を泳ぐことも、風のように大地を駆け回ることもできず、物理法則・自然環境・社会ルールに束縛された不自由な人間。
しかし、神様と人間の関係に束縛を感じるのは大きな誤解です。
『かしもの・かりもの』は神様だけが自由にできる神の属性ですが、全ての形を人間の属性から完全に切り離すからこそ、形の束縛から解放され『心自由』が実現するのです。
人間は『かしもの・かりもの』の無知・無理解のために悩み苦しみながら生きてきました。
『かしもの・かりもの』の無知・無理解から、不足・不安・我身思案などの『悪しき心』が生まれ、その心通りに病気・貧困・争い・天災地変などの『悪しき形』が形成され、その『悪しき形』を見て更に『悪しき心』を生み出す負の無限ループに陥っていたのです。
本当に『かしもの・かりもの』を理解したら心は完全に自由。
『心自由』を実現したら『かしもの・かりもの』は心を形にする自由な翼となり、定められた物理法則・自然環境・社会ルールに縛られず、新しいアイデアを自由自在に発想し、心通りの喜びを描き出す広大なキャンパスに変わるのです。
永遠のつとめ
しかし、ここでもう一つ疑問が生じます。
私達は朝夕のおつとめで『あしきをはらうてたすけたまへ』と唱えますが・・・
あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと
もし、全ての人間が『かしもの・かりもの』を理解し、この世から『あしき』が消滅したら、金輪際『あしきをはらうてたすけたまへ』と唱える必要はないのでしょうか?
つまり、陽気ぐらしが実現する世界では『つとめ』は必要ない?
至極まっとうな意見に聞こえますね?
でも、『悪しき』さえ無くなれば『つとめ』は必要ない・・・これは『悪しき』さえ無くなれば、人間は神様から解放される・・・『悪しき』さえ払えたら神様は用済み・・・と考える『かしもの・かりもの』に無知・無理解な人間心の発想なのです。
そもそも、人間世界は神様(月日道具衆)の『つとめ』により創造されたもの。
『つとめ』こそ人間世界を創り出した『創造原理』なのです。
特に『あしきをはらうてたすけたまへ』は『創造原理』を象徴した一節。
人間世界は『あしきをはらうてたすけたまへ』の原理で成り立っているのです。
簡単に説明すると・・・
- 古い細胞は破壊され(あしきをはらうて)
- 新しく細胞が作られる(たすけたまへ)
- 病気を治め(あしきをはらうて)
- 身上壮健を保つ(たすけたまへ)
- 古い考えから脱し(あしきをはらうて)
- 新しいアイデアを得る(たすけたまへ)
- 古い感受性は磨かれ(あしきをはらうて)
- 新しい感受性が開く(たすけたまへ)
- 生物の死が(あしきをはらうて)
- 生物の糧となる食物連鎖(たすけたまへ)
- 汚水は自然により浄化され(あしきをはらうて)
- 清水となる(たすけたまへ)
- 今という時は瞬く間に過去に成り(あしきをはらうて)
- 刻一刻と時は進む(たすけたまへ)
『あしきをはらうて』と『たすけたまへ』は表裏一体。二つ一つの理。
人間の生活、全ての行動は『あしきをはらうてたすけたまへ』の連続で成り立っているのです。
水を飲む行為一つとっても、過去の相を消し『あしきをはらうて』、今の相を現す『たすけたまへ』ことで、水を飲む行為(水を飲もうと台所に向かい、蛇口をひねり、コップに水を注ぎ、口に流し込む)が刻一刻と形に成るのです。
つまり、人間が生きる中には必ず『悪しき』が発生するのです。
どんなに静かに生活しても数日たてば部屋中に埃が積もるように、どんなに喜んで暮らしていても人間の心にも埃が積もるのです。
特に順風満帆、自分の思い通りに事が運ぶ時ほど『かしもの・かりもの』の感覚が鈍くなり、段々と自分の力、自分の手柄と形に固執しはじめ、最後にはすっかり神様を忘れてしまう。
部屋の埃は目に見えるので掃除は簡単ですが、心は形が無く見えないので心の埃も見えません。
心の埃を掃除するには、身上の障り、事情の縺れで『かしもの・かりもの』を思い出させるのが一番効果的ですが、痛く苦しい思いをしないと心の掃除ができないなら、人間世界から難儀不自由が絶えることはありません。
そこで、神様が『つとめ』を教えられたのです。
第一節『あしきをはらうてたすけたまへ』を21回唱えることで、体(形)は人間のものと信じる悪しきを払い、この世の真実を受入れる心の器を作る。
そして、第二節『ちょとはなし』で神様の心を器に収め、第三節『かんろだい』では、先ほど説明した『あしきをはらうてたすけたまえ』の原理で心を澄ませ、至高の目標「かんろ台」を見据えながら、一歩一歩着実に喜びの心を積み重ねて行く。
毎朝、悪しきのない勇んだ心で一日を始め、毎夕、一日の埃を払い、感謝と満ち足りた喜びの心で一日を終える。例え、日中に心汚すことがあっても、その場で『みかぐらうた』を唱えれば、たちまち悪しきは払われ、善き心に変えることができるのです。
『つとめ一条』の心を忘れなければ、常に心の埃は掃除されるので、身上の障り、事情の縺れで教えていただく必要はなくなるのだから、自然と難儀不自由は根絶されていくのです。
そして、悪しきが払われた・・・ということは同時に、善き種が蒔かれた・・・ということ。
人間が『つとめ』に運ぶということは、神様と共に創造原理を動かし、かんろ台世界を創造しているも同じこと。
神様の『つとめ』に人間が永遠に着いていくからこそ、かんろ台世界の礎は着実に創造され、陽気づくめも永遠に続いて行くのです。
『ここまでついてこい』とは・・・
神様のつとめに『永遠に着いて来い』という意味なのです。
まとめ
『九ッ こゝまでついてこい』
『永遠に着いて来い』と言われて「ハイ、わかりました!」と即答できる人はいません。
鳴り物を奏でながら歌い踊る『つとめ』。
他人から笑い謗られる『つとめ』。
人の常識では訳が分からない『つとめ』ですが、一下り全体の意味が理解できれば『つとめ』は信仰者の義務ではなく、自らの主体から「陽気づくめの世界」を現実化する「不思議な創造原理」となり、なにものにも代え難い至宝となるのです。
つとめに『永遠に着いて来い』と聞いて心が重くなるなら、まだ理解が『ここまで』達していない証拠。本当に「つとめの価値」が分かったら、着いていくことに何の苦労や戸惑いがあるでしょうか?
『ここまで』とは人間心と神一条のターニングポイント。
陰気ぐらしと陽気ぐらしの切り替え地点なのです。
十首
『十ドッ とりめがさだまりた』はこちら
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