一下り目 寿的解説
『七ッ なにかにつくりとるなら』
全文
一下り目
- 一ッ
- 正月こゑのさづけは やれめづらしい
- 二ニ
- につこりさづけもろたら やれたのもしや
- 三ニ
- さんざいこゝろをさだめ
- 四ッ
- よのなか
- 五ッ
- りをふく
- 六ッ
- むしやうにでけまわす
- 七ッ
- なにかにつくりとるなら
- 八ッ
- やまとハほうねんや
- 九ッ
- こゝまでついてこい
- 十ドッ
- とりめがさだまりた
- (なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと)
七首
七ッ なにかにつくりとるなら
概要
神様に無限の創造性があるように、人間の魂にも無限の創造性が秘められている。
人間の心は自由。
どんな心にも成れる。人間の心に制限も限界もない。
神様は「こんな心を作れ!あんな物を作れ!」と制限しない。
なんでも自由に心を使い、いつでも自由に種を蒔き、心通りの収穫を楽しめる喜びの主体。
それが心自由を確立した人間。
心自由を許された人間
神様が目指すのは人間の陽気ぐらし。
かんろ台世界に花開く陽気づくめの世界。
陽気ぐらし。
病まず死なず弱らずに115歳の定命を保ち、魂は永遠に生きる。
世界中が万年豊作で自然は豊かな恵みに溢れ、天地は穏やか、人々は兄弟姉妹のように仲睦まじく助け合い、喜び合い、陽気づくめで暮らす超理想世界。
その為には、どんな心を使うべきなのか?
禁欲の生活を送るべきなのだろうか?
酒、煙草、ギャンブルは陽気ぐらしを遠ざけるのだろうか?
食べ物の制限はあるのか?
あれは駄目?
これは駄目?
神様は人間の心に制限を設けない。
どんな心を使えと無理強いもしない。
また、どんな心を使うことが喜びなのか?それは神様にも決められない。
人間の心は自由。
どんな心も自由に使うことができる。
八つの埃(をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん)と言われる悪しき心も自由に使うことができる。
なんなら殺人も可能。
現実に毎日至る所で殺人事件が起きるのは、誰かが人を憎み殺害しようと心を使った結果。
それと同時に神様が見許した結果でもある。
人間は心を自由に使えるが、その心が実際に形に成るか成らないかは神様の胸次第。
形に成って現れたということは神様が見許し『心通りの守護』を頂いた結果。
人間は『心通りの守護』が無ければ、どんなに心を使ったところで形はビクともしない。
形は『かしもの・かりもの』。神様の自由用。
神様が『心通りの守護』で『かしもの・かりもの』を自由用するから形が動く。
殺人に至るには様々な理由や動機があるに違いないが、紛れもなく自分が心を使った結果。
資産家を殺して大金を手に入れたかった。
保険金が欲しくて妻を殺した。
夫を殺して自由になりたかった。
脅迫されてやむを得く人を殺した。
彼氏を寝取られた仕返しに殺した。
むしゃくしゃして殺した・・・
人を殺せば法律で裁かれる。
そんなの聞いていない!自分が求めていたのは憎い相手を殺すこと。裁判なんて求めていない!・・・そんな戯言は通じない。
理も同じ。
この世は理が支配する世界。
心を使えば必ず『心通りの守護』を頂く。
法治国家で法律を破れば、警察に逮捕され、裁判官に運命が握られる。
情状酌量の余地ありか、無期懲役か、死刑か・・・
上手く警察の手を逃れたとしても、人を殺した事実は消えず、人生に暗い影を落とし心が晴れることはない。
どんな悪人ぶった人間にも神様が与えた魂がある。
人の命を奪い、幸せを奪う行為は魂を苦しめ、その心通りに自身の幸せも失う。
どんな心を使うのも自由。
どんな心も神様は心通りに守護する。
人を殺した先に幸せは無いと知りながら、なぜ神様は殺人を許すのか?
殺人だけではない、不幸に繋がる心使いをどうして許しておくのか?
陽気ぐらしの絶対条件
人間の心に制限を設け、心自由を縛ることは絶対に有り得ない。
人間の心自由を無効にしたら、人間創造を始めた意味が無くなってしまう。
なぜなら、殺人や強盗など不幸に繋がる心でも、『心自由』であることが陽気ぐらしの絶対条件なのだから。
人間にとって最高の喜びが『心通りの守護』を頂くこと。
心を自由に使い、その心通りに形を守護頂くことが人間の喜び。
『かしもの・かりもの』は一見、神様による形の束縛に思えるかも知れないが、実際はその正反対で形からの解放を意味している。
『かしもの・かりもの』とは、神様による完全なる形の製造、管理、運用であり、不思議で複雑怪奇な形を一手に引き受けて、人間を難儀不自由から解放しているのです。
もし心臓を自分で管理する必要があるなら、寝ている間も心臓を動かす必要に迫られ、呑気に休むことも許されません。
『かしもの・かりもの』とは素晴らしい与えもの。
目が見える、耳が聞こえる、会話ができる、飲食を楽しめる、好きな所に出掛けられる・・・
衣食住も貸しもの、環境も借りもの、地球、太陽、宇宙・・・全てが『かしもの・かりもの』。
人間には細胞一つ造れず、指先一つ動かせない不思議な『かしもの・かりもの』。
この不思議な『かしもの・かりもの』が『心通りの守護』で動く現実こそ、『心自由』が実感できる最高の喜び。
人を殺す心も自由に使える人間だが、その結果は十分に学んでいる。
人を不幸にした果てに幸せが栄える芽は無い。
人の心に悲しみ、憎しみ、恨み、復讐の念を抱かせる行為は、陽気ぐらしの概念と正反対。
陽気ぐらしとは人の喜びを見て共に楽しむ世界。
人の喜びと共に己の喜びも栄える理の世界。
商品開発も、多くの人を喜ばせた商品がヒットして開発者が儲かる。
芸能・スポーツでも、多くの人を感動させれば沢山の声援を貰える。
レストランも、多くの人を満足させれば店舗が繁盛する。
どんな心を使え、こんな心を使え、あれは駄目、これは駄目・・・神様はあれこれ指図しない。
ただ、喜びの結果が欲しいなら人を喜ばす心を使えばいい。
人を不幸にする心使いが喜びに繋がると思うなら、その心を使えばいい。
人を不幸にする心使いは不幸に繋がると信じるなら、理を思案すればいい。
神様は『理』を明かした。
『理』を信じて用いるかは、それぞれの判断。
『理』とはかしもの・かりもの、心通りの守護、心自由。
『理』は『絶対理性』。
『絶対理性』とは、この理に則れば絶対に幸せになれる普遍の理。
人間の『理性』では結果を見るまで心の善悪は知り得なかった。
『絶対理性』に則り心を使えば、結果を見るまでもなく今に幸せを実感できる。
『絶対理性』に則れば、心を使うこと自体が喜びそのもの。
つまり、生活そのものが陽気ぐらしへと変貌を遂げるのです。
『人の喜びを見て共に楽しむ心』
この心があれば、どんな心を使っても必ず喜びの結果に辿り着く。
『人間の喜びを見て共に楽しむ親心』
神様と同じ心があれば、どんな心使いも必ずかんろ台世界の礎となるのです。
まとめ
『七ッ なにかにつくりとるなら』
どんな心を使え、こんな心を使え、あれは駄目、これは駄目・・・そんな理は無い。
『人の喜びを見て共に楽しむ心』があるなら、何でも自由に作りとればいい。
その未来には必ず幸せの実が芽吹くのだから。
『なにかにつくりとるなら』とは、心自由の確立を意味しているのです。
八首
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