一下り目 寿的解説
『二ニ につこりさづけもろたら やれたのもしや』
全文
一下り目
- 一ッ
- 正月こゑのさづけは やれめづらしい
- 二ニ
- につこりさづけもろたら やれたのもしや
- 三ニ
- さんざいこゝろをさだめ
- 四ッ
- よのなか
- 五ッ
- りをふく
- 六ッ
- むしやうにでけまわす
- 七ッ
- なにかにつくりとるなら
- 八ッ
- やまとハほうねんや
- 九ッ
- こゝまでついてこい
- 十ドッ
- とりめがさだまりた
- (なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと)
二首
二ニ につこりさづけもろたら やれたのもしや
概要
一首目で、珍しい『さづけ』を渡され、二首目で、『さづけ』を頼もしいと喜ぶ。
ここでは神様から理を頂く際の、最高の受け取り方が示されています。
本来、神様が授ける理は頼もしく、人間が思わずにっこりと笑顔になる与えもの。
しかし、はじめて『さづけ』を頂く者が絶対の信頼を寄せることは難しく、半信半疑になるのは致し方ないこと。
『やれたのもしや』の心境になるには、実際に頼もしさを感じる段階が必要になります。
やれたのもしや
『肥のさづけ』を頂いた山中忠七も『やれたのもしや』と感じていたかと言えば、前回一首目に紹介した「稿本天理教教祖伝逸話篇」の通り「半信半疑」でした。
二枚の田で、一方は十分に肥料を置き、他方は肥のさづけだけをして、その結果を待つ事にした。
山中忠七は天理教史において代表的な先人の一人ですが、教組に「嘘か真か、試してみなされ。」と言われ、半分は従来の肥、もう半分は『肥のさづけ』と分けて、その効能を試しました。
今まで誰も経験したことのない『肥のさづけ』なので、半信半疑は余儀なき道中。
果して「金肥」と『肥のさづけ』どちらが効くのか?
肥料をした方の田の稲穂には、虫が付いたり、空穂があったりしているのに反し、さづけの方の田の稲穂は、背こそ少々低く思われたが、虫穂や空穂は少しもなく、結局実収の上からみれば、確かに、前者よりもすぐれていることが発見された。
その結果、見事に『肥のさづけ』の有効性が示されたので、おそらく山中忠七は「半信半疑」から『やれたのもしや』の心境に変わったと思います。
このことからも解るように以下の二首には飛躍があるのです。
『一ッ 正月こゑのさづけは やれめづらしい』
『二ニ につこりさづけもろたら やれたのもしや』
普通は「肥のさづけを貰って、にっこり笑顔でたいへん頼もしい!」という心境にはなりません。
未体験のものを初見から「たいへん頼もしい!」と感じられるのは、授ける側の能力を全面的に信頼している場合です。
教祖の言葉、そして、その言葉に伴う神様の力を全面的に信頼している場合に限り、「神様が言うのだから間違いは無い!こんな有り難い授けをいただいた!」という心境に成り得るのです。
そもそも『さづけ(授け)』とは有り難いもの。
授ける
1 目上の者が目下の者に特別に与える。「学位を―・ける」「勲章を―・ける」
2 師が弟子に教える。伝授する。「秘伝を―・ける」「知恵を―・ける」
教授、マスター・・・授ける側の能力が自分より上と解っているから、授けものを有り難く、そして頼もしく拝戴するのです。
しかも『さづけ』は神様からの授けもの。
全知全能、広大な宇宙を創造した神様の実力を理解していれば、これ以上頼もしいものはありません。
- 衣食住を創造する神様は、地位、名誉、財産より頼もしい。
- 体を創造し管理する神様は、医者薬より頼もしい。
- 元の理を説き明す神様は、哲学者、科学者より頼もしい。
神様は宇宙一頼もしい人間創造の親。
いくら人間の知恵でベストを尽くしても、干ばつ台風、洪水、虫食い・・・
豊作を保証できる人間はどこにもいない。
しかし、神様から『肥のさづけ』を頂いたら豊作を保証して頂いたも同じこと。
神様は天然自然を司る主体。
神様以上に頼もしい存在はありません。
半信半疑ではなく全信を寄せる者には、従来の方法は旧時代の遺物として役目を終えるのです。
- 農業の場合、『さづけ』に頼り金肥は役目を終える。
- 病気の場合、『さづけ』に頼り医者薬は役目を終える。
- 天災地変の場合、『さづけ』に頼り保険は役目を終える。
などなど・・・
例えば、もし病気の時に『さづけ』ではなく医者薬を頼りにするなら「半信半疑の信仰」と思って間違いありません。
医者薬を頼るのが悪いわけではありませんが、神様は病の根を切る(病気を根絶)方法を明かしているのに「半信半疑の信仰」は非常に残念な姿。
もちろん医者薬も神様の守護に違いありませんが、それは天保9年以前の話。
神様が表へ現れるまでの裏守護。
医者薬が裏守護なら『さづけ』は表の守護。
神様は絶対に救けるつもりで『さづけの理』を渡したのです。
人間が全信で頼りにしてくれたら、今直ぐにでも不思議を現すことができるのです。
取次ぐ意味
かと言って、『さづけ』を使う時には半信半疑の心が顔を出します。
もし不思議な効能が現れなければ、『さづけ』を取次いだ自分が信頼を失うばかりか、教組の教えに対する信頼も失ってしまいます。
山中忠七のように複数の田んぼがあれば金肥と『肥のさづけ』を試せますが、家族や他人の病気に対して『さづけ』を使う場合、身上は一つなので医者薬と『さづけ』を分けて使うことはできません。
医者薬と『さづけ』を併用することは可能ですが、それで病が治まったとしても、医者薬と『さづけ』のどちらの効能で治まったのか判別は難しく、結果的に『さづけ』の信頼を得ることは適いません。
この思考がそもそも人間思案であり、『さづけの理』を十分理解していない証拠。
効くか効かないかは神様の領域。
『さづけ』の効能(不思議な救け)に拘り過ぎると、御利益信仰に陥り肝心な理を見落すばかりか、不足の原因になり、挙げ句の果てに不信へと繋がりかねません。
人間にできることは『さづけ』を取次ぐこと。
『さづけ』の一番の効能は一時的に病気を治めることではありません。
『さづけ』の一番の効能は永遠に病気を根絶すること。
『さづけ』は何を取次いでいるかと言えば、神様の心を取次いでいるわけで、病気の平癒に関わらず、神様の話が出来れば大手柄。
神様がどんなに頼もしい存在なのか・・・
相手がにっこりするまで伝えることが『さづけ』の大義なのです。
そこで一番肝心なのは、自分自身がにっこりと『さづけ』を取次ぐこと。
自分が本心から『やれたのもしや』と感じていなければ、どんな素晴らしい話も伝わりません。
それなら・・・
『やれたのもしや』の心になるまで『さづけ』を取次いでも意味が無い?
いえ、そんなことはありません。
例え半信半疑だろうと、『さづけ』を取次ぐことが道人として正しい姿。
私達は神様に教えて頂いた『かんろ台一条』の道を歩む道人です。
『さづけ』は道を歩むための路銀(旅費)。
まだ半人前の道人が心強く道を歩めるようにと渡された親の慈悲。
『さづけの理』を頂いたからといって、道人として完成されたわけではありません。
『さづけの理』を使い続ける中で、真に頼もしい神様の存在を知り『やれたのもしや』の心に成人するのです。
『さづけ』が効くのも神様の思惑。
『さづけ』が効かないのも神様の思惑。
効いて育つ心もあれば、効かないことで育つ心もあるのです。
『やれたのもしや』とは、病気を救けられる側ではなく『さづけ』を取次ぐ側が得る心の宝であり、絶対的安心と絶対的喜びを伴う、永遠に救われた実感なのです。
まとめ
『二ニ につこりさづけもろたら やれたのもしや』
『さづけ』を頂いたの時が『やれたのもしや』のはじまり。
『さづけ』で頂いたのは神様の心。
神様の心は『みかぐらうた』『おふでさき』『おさしづ』に現れた神様の言葉。
神様の言葉を理解し、本当に頼もしいとにっこり笑顔で道を歩み続ければ、『やれたのもしや』と思える守護が次々と現れる。
『やれたのもしや』とは信仰者にとって究極の心ばえ。
真に頼もしい神様に巡り合った歓喜の声。
この一言に万感の思いが込められているのです。
三首
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