一下り目 寿的解説
『一ッ 正月こゑのさづけは やれめづらしい』
全文
一下り目
- 一ッ
- 正月こゑのさづけは やれめづらしい
- 二ニ
- につこりさづけもろたら やれたのもしや
- 三ニ
- さんざいこゝろをさだめ
- 四ッ
- よのなか
- 五ッ
- りをふく
- 六ッ
- むしやうにでけまわす
- 七ッ
- なにかにつくりとるなら
- 八ッ
- やまとハほうねんや
- 九ッ
- こゝまでついてこい
- 十ドッ
- とりめがさだまりた
- (なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと)
一首
一ッ 正月こゑのさづけは やれめづらしい
概要
一下り目は「農作物の収穫」に例えて『普遍の理』を説いています。
農作物は天然自然に与えられるもの。
どんなに丹念に畑を耕し、水や高価な肥を蒔き、雑草取り害虫駆除など人為的に対策を施しても、干ばつや台風、洪水などの被害にあえば期待通りに豊作を得ることは適いません。
人間の知恵が進んだ今日でも、五穀豊穣を祈るお祭りが様々な神社で行われているのは、何も伝統行事としてお祭りを楽しんでいるのではなく、人間の力が及ばない天然自然の働きにより収穫を左右される現実が依然として存在するからです。
農作物の豊作により国が安泰になり、国家の繁栄を祈るお祭りは、日本国民の象徴であらされる天皇陛下の大切な務めでもあります。
世界第3位の経済大国である日本の国家元首である天皇陛下が、日夜国民の安寧を神様にお祈りする姿を思い浮かべると非常に感慨深いものがあります。日本はなんて素敵な国なのでしょう。
少し話は逸れましたが、「農作物の収穫」は神様の守護を説くための代表例であり、当時の信仰者は中山家も含めてお百姓さんが多かったので、「農作物の収穫」に例えることは理に適っているのです。
正月は一年の始まり。
一年を「農作物の収穫」に擬えれば、農業の始まり(正月)に大変珍しい『肥のさづけ』が渡されました。今までは人間の知恵で自然と格闘してきましたが、神様の知恵で一年を安心して過ごすことができるのです。
肥のさづけ
『肥のさづけ』とは教祖が信者へ「神の道について来るには、百姓すれば十分に肥も置き難くかろう。」と「道の路銀(旅費)」として渡されたもの。
詳細は「稿本天理教教祖伝逸話篇」にて伝えられています。
肥のさづけ
教祖は、山中忠七に、「神の道について来るには、百姓すれば十分に肥も置き難くかろう。」とて、忠七に、肥のさづけをお渡し下され、「肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実が効くのやで。」と、お諭しになり、「嘘か真か、試してみなされ。」と、仰せになった。忠七は、早速、二枚の田で、一方は十分に肥料を置き、他方は肥のさづけだけをして、その結果を待つ事にした。やがて8月が過ぎ9月も終わりとなった。肥料を置いた田は、青々と稲穂が茂って、十分、秋の稔りの豊かさを思わしめた。が、これに反して、肥のさづけの肥だけの田の方は、稲穂の背が低く、色も何だか少々赤味を帯びて、元気がないように見えた。忠七は、「やっぱりさづけよりは、肥料の方が効くようだ。」と、疑わざるを得なかった。ところが、秋の収穫時になってみると、肥料をした方の田の稲穂には、虫が付いたり、空穂があったりしているのに反し、さづけの方の田の稲穂は、背こそ少々低く思われたが、虫穂や空穂は少しもなく、結局実収の上からみれば、確かに、前者よりもすぐれていることが発見された。
『肥のさづけ』は「ぬか3合、灰3合、土3合」で配合され、それを自分の田んぼに置くと、肥料一駄分(馬一頭に背負わせられる荷物分、約135キロ)のご守護を下さるというもの。
当時、肥料は「金肥(きんぴ)」と言われ、農民は商人を通して糠・油粕・灰・〆粕(しめかす)・干鰯(ほしか)などの肥料を購入していました。
畑に大量の金肥を置くには費用もかかるので、教祖は山中忠七が仕事(農業)の心配をせず神の道(信仰)を邁進できるように『肥のさづけ』として授けたのです。
「ぬか3合、灰3合、土3合」で「約135キロ」分の肥料の代わりになるなんて、まるで「魔法の粉」のようですが、決してその配合に秘訣があるのではなく、「ぬか2合、灰4合、土3合」でも教組が『肥のさづけ』として渡せば理が宿るのです。
神様は実際に守護を与えるつもりがあるから『肥のさづけ』を渡したのです。
それを誠にするか嘘にするかは受ける側の心次第。
肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実が効くのやで。
『肥のさづけ(ぬか3合、灰3合、土3合)』に効能があるのではなく、理を信じる心に不思議が現れるのです。
神様の明かす理は不思議そのもの。
人間の心(無形)が農作物(有形)の収穫を左右するのだから、人間の常識から言えば有り得ないことなのです。
『雨乞いつとめ』にしても、人間が心を運ぶだけで天候が動き心通りに雨が降り、『おさづけ』も患部に手を触れず『あしきはらいたすけたまえ てんりおうのみこと』と唱えるだけで身上が治まる現象は不思議そのもの。
さづけの理
『肥のさづけ』だけではなく、『をびや許し』『ごく(御供)』『おさづけ』などの不思議な効能を現わす『さづけ』全般は、その形に意味があるのではありません。
神様の心を人間に悟らせるために、理解しやすい『さづけ』という形に不思議を現しているのです。
『さづけ』の本質とは神様の心を授けること。
神様の心とは、この世人間世界の本真実。
- 人間とは何か?
- 神とは何か?
- 理(守護)の仕組みとは?
『おさづけ』を拝戴する際に頂く『おかきさげ』に書かれているのも人間の本真実。
それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。心の理というは、日々という常という、日々常にどういう事情どういう理、幾重事情どんな理、どんな理でも日々に皆受け取る。受け取る中に、ただ一つ自由という一つの理。自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。
それ人間という・・・
- 人間は心一つ無形の存在
- 神様は体を含め一切の有形に現れる
- 理は『心通りの守護』
これが人間の本真実。
この本真実を人間に悟らせるのが『さづけ』の目的。
広義に捉えれば、この世の全ては神様のさづけ、不思議な授けもの。
肥のさづけも授けもの。
体も授けもの。
命も授けもの。
衣食住、環境、地球、太陽、宇宙・・・全ての形は授けもの。
神の言葉も授けもの。
そして全ての授けものは『つとめ一条』の心へと集約される。
この世の創造原理である『つとめ』へ直参する『つとめ一条』の心へ、全ての『さづけ』が集約され、超理想のかんろ台世界を創造する原動力になるのです。
つとめさいちがハんよふになあたなら 天のあたえもちがう事なし(10-34)
つとめさえ間違いなく運べたら天の与えも違うことなし。
『つとめ』を間違いなく運ぶための『さづけ』。
天の理を学ぶための『さづけの理』なのです。
不思議の入り口
ここで筆者がはじめて『おさづけ』を取次いだ体験をお話しします。
それは祖父の葬儀前夜。
明日の葬儀に備え、祖父の家に親戚が集まり一夜を明かしていました。
ところが飼い犬が散歩中に怪我をしたらしく、足から血を流して鳴いていたのです。
従姉妹と二人で犬の面倒を見ていましたが、いつまでも鳴き止ないので皆が眠れず困り果てていました。
「うるさい!眠れないだろ!」。短気な叔父の怒号も効き目がありません。
切羽詰まった筆者は「そうだ、こんな時こそおさづけを取次ごう!」と密かに閃きました。
しかし人前で『おさづけ』を取次ぐのは気恥ずかしく躊躇していたところ、タイミング良く従姉妹がトイレに立ったので、その隙を見計らって『あしきはらいたすけたまえ てんりおうのみこと』と唱えました。
すると犬の鳴き声がピッタと止まり静かになったのです。
トイレから戻った従姉妹も「あれ?鳴き止んでる!」と驚いていましたが、一番驚いたのは筆者自身です。
従姉妹が不思議がっていたので、『おさづけ』を取次いだことを明かし「おさづけって効くんだね」と共感を求めましたが、従姉妹から思いも掛けない言葉が返ってきました。
「○○君、おさづけ頂いてないよね?」
従姉妹は修養科を出ていたので当時の筆者より天理教には詳しかったのです。
「えっ?おさづけって誰かから頂くものなの?」
筆者が犬に取次いだのは母の見様見真似。
困惑している筆者に、従姉妹の口から更に予想外の一言。
「しかも動物に取次ぐのは駄目なんだよ」
教えとは裏腹に鮮やか過ぎるくらいに現れた『おさづけ』の効能。
「でも、効いているよね」
筆者は修養科はもちろん、別席も運んでいないし、もちろん『おさづけの理』も拝戴していません。
もしかしたら前世で拝戴したのかも知れませんが、重要なのは不思議な効能を頂けたこと。
現在、従姉妹は天理教から離れていますが、筆者は未だに修養科も別席も運ばず『おさづけ』を取次ぎ、こうして教組の教えを解説するブログを運営しています。
あの時頂いた不思議な救けを入り口に、もっと大きな不思議そのものに引き寄せられたのです。
不思議とは神様そのもの。
そして『つとめ一条』を定め、日々『かんろ台世界創造』の本道へと辿り着いたのです。
まとめ
『一ッ 正月こゑのさづけは やれめづらしい』
『肥のさづけ』は「農作物の収穫」のみ有効な限定的な『さづけ』ではなく、全体の守護を単純化して現した理であり、『さづけ』により賜った不思議な救けを入り口として、不思議の本体である神様の世界へ辿り着くための親の慈悲なのです。
二首
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