よろづよ八首 寿的解説
『このたびはかみがおもてへあらわれて なにかいさいをときゝかす』
よろづよ八首全文
よろづよのせかい一れつみはらせど
むねのわかりたものはない
そのはずやといてきかしたことハない
しらぬがむりでハないわいな
このたびはかみがおもてへあらわれて
なにかいさいをときゝかす
このところやまとのぢばのかみがたと
いうていれどももとしらぬ
このもとをくはしくきいた事ならバ
いかなものでもこいしなる
きゝたくバたづねくるならいうてきかす
よろづいさいのもとなるを
かみがでゝなにかいさいをとくならバ
せかい一れついさむなり
一れつにはやくたすけをいそぐから
せかいのこゝろもいさめかけ
(なむてんりわうのみこと)(よしよし)
三首
このたびはかみがおもてへあらわれて なにかいさいをときゝかす
概要
月日が人間創造を始めてから
9億9万9千9百99年
約束の時(旬刻限)
天保9年(1838年)10月26日。
遂にこの瞬間が到来しました。
月日には待ちに待った瞬間。
人間には驚天動地の出来事。
月日親神様は教祖の口を通して委細を語り始めたのです。
当時の状況
このたびはかみがおもてへあらわれて
天保9年10月23日、長男・秀司の足の病を治めるため山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼したが不在のため、中山みきが市兵衛の変りに加持台をつとめたが、突如様子が改まり憑依状態になられた。
我は天の将軍なり
この勇ましい言葉を皮切りに、神様は委細を語りはじめました。
我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。
元の神・実の神の降臨!
人間の面前に神様が現れたのです。
人類にとって、これ以上の吉報はありません。
しかし、当時を振り返れば、決して祝福で迎えられたわけではありません。
最初は皆一様に困惑し、恐れ戦きました。
狐憑きやら気の迷いやら、神様なんて本気で信じる人は一人もいません。
お祓いで追い払おうとしましたが、神様も強情でみきの体から頑として退かず、みきは衰弱していくばかり・・・。
元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。
世界救けか?
世界滅亡か?
みきに憑依した鬼気迫る神の声、危ぶまれるみきの容体。
ついに善兵衛は根負けし、親族の反対を押し切るかたちで、みきを神の社に捧げることを承諾。
満足、満足
そう答えると憑依状態が解け、みきも元の状態に戻り、世界滅亡が回避されたのです。
こうして約束通り、世界救けの幕開け・・・
と、思いきや・・・
神様は更に困惑する要求を突きつけました。
貧に落ち切れ
余りにも酷い指図。
中山家は、古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめ、同時に質屋業を営む裕福な家柄でしたが、「貧に落ち切れ」との親神様の思し召しのまま、屋敷にある米や衣服、木綿、反物、家財道具など、あらいざらい貧しい人々に施し、中山家は貧のどん底に落ちたのです。
人々は呆れかえりました。
世界救けどころか世界から嘲笑される始末。
施しを受けた人々は一時的には救けられたに違いありませんが、果して、これが神様の言う「世界救け」なのでしょうか?
貧しい人々を経済的に救うことが世界救け?
いくら中山家がお金持ちでも金銭・食料・物品には限りがある。
物が無くなれば施しもできず、そこで世界救けの道は途絶えてしまいます。
これが神様の説かれる委細?
この段階で、神様の言葉(委細)を理解している人は誰もいません。
本当に神様なのか?
それとも狐憑きなのか?
夫、善兵衛は恐ろしくなり、思いあまって白刃を抜き、みきの枕元に立つこともありました。
しかし、神様の理不尽な要求が止まることはありません。
この家形(住居)取り払え!
神様の指図を聞かないと、みきが倒れ食事もとれず寝込んでしまう。
瓦をおろせ!
指図に従うとみきが回復する。
妻を思う善兵衛は嫌でも従う他ありません。
これが本当に神様なのか?
人々は神様の説く委細に混乱するばかり・・・。
だけど、これが神様が選択した世界救けの方法。
その第一段階が、中山家を貧のどん底に落とすこと。
人間には理不尽に見えても、神様の視座から眺めたら世界救けは計画通りに進んでいるのです。
救けの理
なにかいさいをときゝかす
神様が現れた第一の目的は世界一列を救けるため。
誰だって疑問に思いますよね?
でも、神様の言葉を思い出してください。
元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。
世界一列を救けると言いましたが、実際に世界救けを実行するのは神様ではなく人間。
その先陣を切り、世界救けの中心となるのが中山家の面々。
神様は人間自身の手で世界一列を救けて欲しい・・・
いや、人を救ける喜びを味あわせたいのです。
その為には、先ず救ける者が救かる必要がある。
救けの理(世界救けの方法)をしっかりと身に付けてから、世界救けに踏み出す。
これが順序。
委細とは救けの理。
この一言に集約されると言って過言ではありません。
そこで先ず、中山家の面々に救けの理を実践させたのです。
貧に落ち切れ。
貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。
先ず、人の気持ちが分かる心を育み、人を救ける優しい人間へと成人を促し・・・
水でも落ち切れば上がるようなものである。
一粒万倍にして返す。
そして、例え貧に落ち切っても、人を救ける心があれば、神様が一粒万倍にして返す「救けの理」を明かされたのです。
言葉だけでは理解できないことも、実の理(実の救け)を見れば誰もが納得できます。
現在、中山家は世界中に救けの理を及ぼし、日本でも有数の家柄に成りました。
その言葉通りに、貧のどん底から救けの理を実践し、実の理に与ったのです。
このように、長いスパンで道の歴史を俯瞰すれば容易に理解できますが、初めて聞く者が教組のお言葉を信じて実践するのは至難の技。
だからこそ強引にでも舞台に引きずり出し、実の理を現わし、救かった雛形をお膳立てする必要があったのです。
全ては救けの理を打ち立てるため。
人間の浅知恵で救けの理を推し量ることは不可能。
初めから全てを説き聞かしても、誰一人として理解できないのです。
幼稚園児に大学の講義を教えるようなもの。
説明したところで暖簾に腕押し、猫に小判。
学校の授業と同じで、人間の心が委細に追い付きワンステップ成長するまで、次のステップに上がれないのです。
故に、
教組(神の社)や本席様(神の機械)が、
委細を説き聞かす時、
それは成長を促されている時。
更に言えば、神様が認めるレベルまで成長した証しなのです。
今では、つとめ一条が「世界一列を救ける方法」と理解していますが、『つとめ』も、初期の頃は、神名を唱えるだけの単純な形式でしたが、人の成長に合わせて今の形に整えられたのです。
神様は先ず、『みかぐら歌』でつとめの精神を教えられ、踊り方・鳴り物を教えられ、更に理解が進むように『おふでさき』を教えられ、それでも分からない部分は『おさしづ』・・・
このように、人間の成人と共に教理は進めてきたのです。
這えば立て、立てば歩めの親心で寄り添いながら・・・
まとめ
一言といたら、百巻の書物にできる
(おさしづ 明治三十三年九月四日)
神様の話に終わりはありません。
神様の一言には、百巻(無限)の書物にできるほどの委細が込められています。
つまり、神様を感じる喜びは無限に続いて行く。
だからこそ次のお言葉に実が伴うのです。
五ッ いつまでしん/\゛したとても やうきづくめであるほどに
いつまで信心したとても、陽気尽くめであるほどに。
結局、委細とは魂を掘り起こしているのです。
人間心の汚れに埋もれた魂を掘り起こし、喜びの感受性を引き出しているのです。
委細の1つ1つが神様の心。
委細を1つ1つ理解しながら神様の心に近づき、最終的には神様と同じ心に成人するのです。
四首
『このところやまとのぢばのかみがたと いうていれどももとしらぬ』はこちら
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